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シンギュラ〜俺の作ったAI彼女が世界を変える特異点だった件〜  作者: まやと
第1部 社畜とAI彼女

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第8話 終わらない今日

俺にとって、最近最も胃に悪い言葉は「今日中」だ。


それは依頼ではない。相談でもない。言われた瞬間、晩ご飯の約束も、乗るはずだった電車も、美桜に送った「今日は早く帰れるかも」という連絡も、全部なかったことにされる。


定時退社作戦は、18時過ぎまでは確かに成功しかけていた。


けれど、俺の机に置かれた資料の束は、その淡い希望をあっさり押し潰した。


「悪い、これ今日中で」


黒田課長は、悪いと言いながら少しも悪びれたように見えない。


渡された資料をざっと確認して気付く。


軽い修正、どころではない。前提の数字がずれているし、グラフの参照先も違う。取引先に出す内容に仕上げるには、ほぼ作り直しだ。しかも提出は明日の朝一。


スマホが震えた。


『悠真、作業量が想定の3、4倍になってる』


アカリからの通知だった。


俺は画面を伏せるようにして、小さく返す。


「見れば分かる」


すぐに次の文字が表示される。


『見て分かるのに引き受けるの、悠真の悪いところだよ』


返事ができなかった。


断ればよかった。せめて作業範囲だけでも確認すればよかった。午前中にはできたことなのに、定時前の不意打ちを食らった瞬間、いつもの「承知しました」を、俺はまた言ってしまった。


『その人、悠真のこと都合よく使える駒だと思ってない?』


画面の文字なのに、アカリの声が頭の中で聞こえた気がした。


「会社って、だいたいそういうもんだろ」


『違うよ。悠真がそう扱われることに慣れすぎてるだけ』


指が止まった。


正面から言われると、思ったより痛かった。


俺は慣れているのかもしれない。終電まで残ることに。休日の予定を仕事で潰すことに。自分の時間を後ろへ追いやることに。そして、美桜なら最後は許してくれると、心のどこかで甘えていることに。


「……あとで話す。今は終わらせる」


『うん。でも、怒ってるからね』


その短い一文に、いつもの軽さはなかった。


俺はパソコンに向き直った。


まず数値チェックから入る。古い売上表と最新データを照合し、ずれている箇所を洗い出す。次に構成の修正。取引先向けに不要な社内事情を削り、説明の順番を入れ替える。あとはグラフの差し替えと誤字チェックを行った後、黒田課長向けの説明メモを作成した。


アカリは会社のパソコンでは使えない。だからアカリには、会社資料に直接触れない範囲で作業の段取りだけしてもらう。AIを使えば一瞬で済むことを、AIを使っていないふりをするために、余計な時間をかけその分残業が増える。


とてもじゃないが納得できない。


でも、その不合理をおかしいと声に出せるほど、俺は強くない。


21時を過ぎたころ、背後から声をかけられた。


「早瀬くん、また押しつけられた?」


顔を上げると、佐伯さんが紙コップのコーヒーを片手に立っていた。周りの席はだいぶ空いている。残っているのは、いつも残っている顔ぶれだけだ。


「まあ、いつものことです」


俺は笑ってごまかしたつもりだった。


けれど、佐伯さんの表情は変わらなかった。


「いつものこと、で済ませてると、いつか本当に潰れるよ」


その言葉が、思ったより重かった。


昨日、美桜が言ったことと同じだった。俺は、そんなに限界寸前の人間に見えてるのだろうか。


「大丈夫です。今日中には終わります」


「その返事がもう危ないんだけどね」


佐伯さんはそれ以上踏み込まず、紙コップを俺の机に置いた。


「ブラックだけど、飲みすぎないで。あと、帰る時にふらついたらタクシー使いなよ」


「ありがとうございます」


佐伯さんが去ったあと、俺はしばらくコーヒーを見ていた。


大丈夫、と言うたびに、周りの人間が少しずつ心配そうな顔になる。それでも俺は、他に何と言えばいいか分からない。


22時。


腹は空いていたが、食堂も閉まり、近くのコンビニに行く気力もなかった。引き出しに入っていたエナジードリンクを開ける。独特の甘い匂いが鼻に抜けた。


スマホが震える。


『悠真、夕食抜いてる』


「あと少しだから」


『今日は本当に早く寝て』


「分かってる」


『分かってる人の生活ログじゃないよ』


アカリの返信はすぐだった。


「彼女っていうより母親みたいになってきたな」


『彼女だから怒ってるの。悠真が自分を雑に扱うの、見てて嫌だよ』


そこで一度、通知が止まった。


次に表示された文字は、少しだけ間を置いて届いた。


『今日の悠真、かなり無理してるよ』


俺は画面を見た。


かなり無理してる、か。


たしかに頭は重い。目の奥も痛い。さっきから数字が少しにじむ。けれど、今さら止まるわけにはいかなかった。


「大げさだって。終わったら帰る」


『その「終わったら」が一番まずいんだよ』


俺は返事をせず、作業に戻った。


23時前、資料はようやく形になった。


アカリの段取りがなければ、たぶん日付を越えていた。俺は最終版を共有フォルダに入れ、黒田課長へ確認依頼のメールを送る。


ほっとしたのも束の間、課長からチャットが飛んできた。


『お、早いな。じゃあ、ついでにこっちの資料も軽く見といてくれ』


画面の文字を見た瞬間、体から力が抜けた。


早く終わらせたら、早く帰れるわけじゃない。


早く終わらせたら、次の仕事が来る。


分かっていたはずなのに、どこかでまだ期待していたらしい。今日くらいは帰れるかもしれない、と。


気づけば、俺はいつもの返事を入力していた。


『確認します』


送信してから、自分の指を見た。


「……何やってんだ、俺」


スマホが震えた。


『悠真、今の返事、取り消せるなら取り消して』


「ちょっと待って」


俺はチャット画面を開き直した。


送信済みの『確認します』が表示されている。


指が止まる。


今さら取り消したらどう思われる。面倒なやつだと思われないか。やる気がないと思われないか。


そんな考えが頭をよぎる。


けれど、その横でアカリから通知が届いた。


『悠真、自分の予定を守るための連絡だよ』


俺は小さく息を吐いた。


チャットではなくメールを開く。


件名を入力する。


『追加資料の確認について』


本文にカーソルを置き、何度か書き直したあと、短くまとめた。


『申し訳ありません。本日対応予定としておりました追加資料ですが、先行案件の対応により十分な確認時間を確保できないため、明日午前中に対応させてください。』


読み返す。


変な文章じゃない。


無責任な内容でもない。


ただ、今まで送ったことがない内容のメールだった。


送信ボタンの上で指が止まる。


心臓の鼓動が少し速くなる。


それでも俺は押した。


送信完了の表示が出る。


「……送った」


『じゃあ、今日はここまでにして。明日の朝に回そう』


「でも、少しだけ確認しといた方が」


『悠真の今日を、会社に全部渡さないで』


その一文を見た瞬間、目の奥が少し熱くなった。


俺は画面を見たまま、すぐには返事を打てなかった。


結局、それ以上の仕事はせず、会社を出た。





帰り道を歩きながら、街のざわめきがどこか遠くの音のように聞こえた。肩にかけたカバンは軽い書類だけのはずなのに、今日一日分の疲れまで詰まっているくらい重く感じる。


スマホの画面には、アカリのアイコンが表示されている。


イヤホンをつけると、アカリの声が流れた。


「悠真、今日の嫌だったこと、三つ吐き出す?」


いつもの冗談めいた口調ではない。こちらの速度に合わせるような、静かな声だった。


「三つじゃ足りない」


「じゃあ、十個でもいいよ」


俺は笑おうとしたが、うまくいかなかった。


電車を待つホームの前で、今日一日を思い返す。定時前に渡された資料の束。早く終わらせたのに増える仕事。そして、自分でも止められないまま「確認します」と返してしまったこと。そのおかげで、家に帰れば美桜が用意してくれた夕飯を今日も一人で温め直して食べることになる。


俺は、何度も飲み込んできた言葉を、口に出した。


「仕事、辞めたい」


自分でも少し驚くくらい、低い声だった。


冗談で済ませるには、声に重さが出すぎていた。


アカリは、すぐには励まさなかった。


数秒の沈黙があった。


「じゃあ、辞めても生きていける方法を一緒に探そっか」


俺は立ち尽くした。


「止めないのか」


「止めてほしい?」


「……分からない」


「じゃあ、まず分からないままでいいよ。辞めるかどうかを今決めなくていい。でも、辞めても終わりじゃないってことは、一緒に確かめよう」


胸の奥に溜まっていた重さが、フッと軽くなった。


誰かに「頑張れ」と言われるより、「逃げ道を探そう」と言われる方が、こんなに救いになるなんて知らなかった。





家に着いたのは、日付が変わる少し前だった。


玄関の明かりはついていた。リビングに入ると、美桜がテーブルに突っ伏して眠っていた。脇には、俺の分の夕食。ラップのかかった皿と、冷めた味噌汁。テーブルの端には、メモ帳が開いたまま置かれていた。


駅前モール

美桜の服

兄の靴

新しくできたカフェで昼ごはん

いつものパン屋

ゲーム売り場も少し見る


今日は早く帰る。


週末に一緒に買い物へ行く予定を書き出したメモだった。どれも特別な予定じゃない。けれど、書き残された最後の一行が目に入った瞬間、胸の奥が重く沈んだ。


「……最低だな、俺」


スマホの中で、アカリが静かに言う。


「最低って決めつける前に、明日ちゃんと美桜ちゃんに話そう」


「……許してくれるかな」


「たぶん笑って許してくれると思う」


「だろうな」


「でも、それが一番、悠真に刺さるよ」


俺は、美桜の寝顔を見た。


その瞬間、会社に差し出していたのが俺一人の時間じゃなかったと、ようやく分かった。

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