第7話 定時退社作戦、始動
朝食の最中、俺はスマホに表示された通知を見て、納豆をかき回す手を止めた。
『昨夜の帰宅時刻、23時54分』
『睡眠時間、5時間未満』
『本日の残業予測、通常勤務なら21時台』
俺が苦い顔をしていると、スマホの中のアカリが、やる気満々の顔でこちらを見上げた。
「悠真。本日の作戦名を発表します」
「作戦?」
「名付けて、定時退社作戦!」
画面の中のアカリは、得意げな表情をする。白いワンピース姿のAI彼女が、朝から労働環境の改善を宣言している光景は、極めてシュールだ。
向かいで味噌汁を飲んでいた美桜が、真顔でうなずいた。
「そのミッション、極めて重要ですね」
「お前まで乗るなよ」
「昨日、アカリさんは仮免候補になったでしょ。仮免中に成果を出すのは大事」
「お前の審査、成果主義なんだな」
アカリは画面の中で小さく敬礼した。
「今日の目標は、悠真を19時台に会社から引き剥がすこと!」
「引き剥がすって言い方やめろ。会社にしがみついてるみたいだろ」
「違うの?」
「......俺が好きで残業してるように見えるか?」
美桜が俺の顔をじっと見る。
「そうは言ってないけど、今日は本当に早く帰ってきて。お兄ちゃん、昨日も顔色悪かったし。」
その一言で、俺は箸を持つ手を止めた。
この間の面接以来、美桜の心配は前よりもまっすぐになった。今は俺が「大丈夫」と言う前から、その逃げ道を塞ぐように見てくる。
「……努力はする」
「努力だけだとダメだよ」
アカリが即答した。
「だから、今日は戦術で勝とう」
「俺で攻略ゲームしようとするな」
「お兄ちゃん、ゲームするとき毎回体力ゲージを見ないで突っ込むタイプだから」
「......例えが的確すぎてつらいわ」
アカリは、俺の予定表を画面に表示した。カレンダー、メール件名、昨日の未処理タスク、過去一週間の退社時間まで、ご丁寧にグラフにまとめられている。社畜の働きぶりがよく分かるアンハッピーセットだった。
「戦略として、まず午前中に重い資料作成を終わらせて、昼前に確認依頼まで出す。午後は修正対応をメインにして、18時半から退社準備。19時以降は集中力が大きく落ちるから、早めに主要タスクは片づけよう」
「そんなに集中力落ちてる気にならないけどな」
「そう言って限界まで働いちゃうのが、悠真の悪い癖だよ」
反論したかったが、実際そのとおりなので何も言えない。
美桜が俺の通勤カバンを差し出した。
「お昼、抜かないでね」
「抜かないって」
「お兄ちゃんの『抜かない』は信用できないから、アカリさん、監視お願いします」
「了解です!昼食摂取任務、引き受けました」
「おいおい、昼飯取るのも管理されるのかよ」
「自己管理に失敗し続けた結果だと思って」
「ひどい言われようだな……」
そう返しながらも、俺はカバンを手に取った。
美桜とアカリは満足そうにうなずいている。どうやら今日の俺には、逃げ道は用意されていないらしい。
そんな朝のやり取りを思い返しながら、俺は会社へ向かった。
通勤電車の中でも、アカリが作った今日の予定表を見ていた。
定時退社なんて、ここ最近はほとんど縁のない言葉だ。それだけに、もしかしたらと思ってしまう自分がいるのも事実だった。
そして実際に仕事を始めてみると、正直期待していた以上に、定時退社作戦は効果を発揮した。
もちろん、会社のパソコンでアカリを使うわけにはいかない。
うちの会社では、生成AIは全面禁止だ。
情報漏洩、著作権、コンプライアンス。その魔法の言葉を三つ並べれば、だいたい新しい取り組みは封印できる。
だから俺は、アカリが朝のうちに作ってくれたタスク整理メモを、自分のノートに書き写して持ってきた。
資料構成案、メール文案の骨子、会議で確認すべき論点の整理、タスクの優先順位、確認すべき数字の一覧。
最初は、ただのメモ書きみたいなものだと思っていた。
けれど、確認しながら仕事を進めるうちに、少しずつ違いが分かってきた。
まず、何を先にやるかで迷わない。朝のうちに優先順位が整理されているから、何からこなせばいいか迷う時間がほとんどなくなる。確認すべきポイントが最初から見えているので、途中で立ち止まることが減る。メールも一から考え込まずに済む。仕事が速くなるというより、迷って立ち止まっていた時間が削られていく感じだった。
いつもなら資料の構成だけで1時間近く悩むところが、10分ほどで形になった。取引先への返信も、用意された骨子を自分の言葉に直すだけで済んだ。会議でも、何を確認すべきかが整理できていたおかげで、曖昧な返事でその場をやり過ごさずに済んだ。
AI、怖いくらい便利だ。
そして、これだけ便利なものを完全に締め出したまま仕事を続けようとしている会社の方に、一抹の不安を覚えた。
10時半ごろ、黒田課長が俺の席に近づいてきた。
「早瀬、これも軽く見といてくれ」
来た。
黒田課長の「軽く」は、だいたい重い。油断すると、思ってた3倍くらいの作業量が出てくる。
いつもの俺なら、「承知しました」と反射で答えていた。
けれど、今朝のアカリの言葉が頭に残っていた。
『断れないなら、せめて範囲を狭めよう』
俺は一度だけ息を吸った。
「すいません、確認ですが、どこまで直せばいいですか? 今日中に必要な範囲だけ先に対応します」
黒田課長が、少し意外そうに眉を上げた。
内心では胃が縮むような気分だった。今の聞き方、変じゃなかったか。面倒くさいやつだと思われてないか。いや、でも確認しただけだ。確認は悪くない。たぶん。
「ん? ああ、じゃあ先方に出す2枚目と3枚目だけでいい。残りは明日で」
「承知しました」
範囲が半分以下になった。
俺は心の中で小さくガッツポーズした。声に出して喜びたい気分だったが、さすがにそこは踏みとどまる。
そして昼前には、朝から抱えていた重めの資料にも出口が見え始めた。
「早瀬くん」
隣の島から、佐伯さんが声をかけてきた。
佐伯凛。同じ部署の先輩で、社内の業務改善プロジェクトにも顔を出している人だ。黒田課長みたいに声が大きいわけではないのに、なぜか周りをよく見ていて、会議では静かに急所だけ突く。
「今日、処理速くない?」
心臓が一段跳ねた。
「たまたまです」
「一回ならたまたまだけど、朝からずっと手戻り少ないよね。だいたいツール使ってる人の動きなんだよね」
「つ、ツールとは?」
声が裏返りかけた。外目から見ても不審な反応をする俺。
佐伯さんは、小さく笑った。
「責めてるわけじゃないよ。うちのAI禁止ルール、正直もう限界だと思ってるし」
その言葉に、俺は返事を失った。社内でAIの話をする時は、授業中にこっそり見てたスマホを見つかった時みたいな気まずさがある。
「……佐伯さんは、使ってるんですか?」
「個人情報を入れない範囲でね。仕事を楽にするというより、仕事の形を変える道具としてかな」
仕事の形を変える道具。
その言葉が、妙に引っかかった。
アカリはただの癒やしアプリだったはずだ。なのに今、仕事の順番を変え、上司とのやり取りの仕方まで変えようとしている。スマホの中の彼女が、俺の一日の流れを書き換え始めていた。
昼休みになっても、俺は資料の数字を確認していた。
あと少し。ここまで進んでいるなら、昼を抜いて対応すれば午後の作業に余裕ができる。
そう思った瞬間、スマホが震えた。
アカリからの通知。
『昼食を抜くと、午後の作業効率が落ちます』
俺は思わず小声でつぶやく。
「AI彼女というより、健康指導アプリだな」
すぐに通知が追加された。
『彼女なので、健康指導アプリより厳しいよ』
「......なんで昼抜こうとしたこと分かった?」
『昼休み開始から15分経過しても移動履歴がなかったからね』
「行動ログで追い詰めるのやめてくれ」
結局、俺はコンビニでおにぎりを2つ買った。ツナマヨと鮭。一応アカリに写真を送ると、すぐに返信が来る。
『合格ラインぎりぎり。野菜不足につき65点。次回改善してね♩』
採点制度まで導入された。俺の昼飯はいつから提出課題になったんだ。
午後も、仕事は驚くほど進んだ。
2枚目と3枚目の修正は15時前に終わった。会議メモもフォーマットに沿ってまとめた。取引先への確認メールも、無駄に謝りすぎない文面に直した。
定時退社が現実味を帯びてきた。
そんな感覚は、いつ以来だろう。
終電ではない電車。夕方のスーパー。美桜と同じ時間に夕飯を食べること。
たったそれだけのことが、ひどく遠いもののように感じられた。
18時過ぎ、俺は美桜にメッセージを送った。
『今日は早く帰れるかも』
返事は秒で来た。
『スクショした。証拠として保存しとくね』
続けて、アカリからも通知が来る。
『定時退社作戦、成功率72%』
『そこは100%って言ってくれ』
『悠真の会社を考慮した結果だよ』
図星すぎる。
俺は小さく笑い、パソコンの画面を閉じる準備を始めた。
その時だった。
「早瀬」
背後から、聞き慣れた声がした。
黒田課長が、俺の机の上に紙の束を置いた。
どさり、という音がした。
「悪い、これ今日中で」
空気が一瞬で重くなった。
さっきまで頭に浮かんでいた夕食の光景が、音もなく遠ざかっていく。代わりに、終電へ急ぐ自分の姿が現実味を帯びて迫ってきた。
スマホが震える。
アカリからの通知が一行だけ表示された。
『予想より悪い展開だね』
俺は画面を見下ろし、ほとんど声にならない声でつぶやいた。
「ゲームだったら、ここでやり直しを選べるのにな」
だが現実には、そんな便利な機能はない。
机に置かれた資料の束は、仕事それ自体ではなく、これから失われる俺の自由時間そのものに見えた。




