第60話 メッセージ
「まだ開かないで」
俺が言うと、アカリはうなずいた。
リビングの画面には、さっき届いた通知がそのまま残っている。
『送信元認証:未確認』
差出人欄には、意味の分からない短い記号列。
以前アカリへ直接届いたメッセージと、よく似た並び方だった。
食卓には、さっきまで夕食の皿が並んでいた。
俺が初めて作った炒め物の匂いも、まだ部屋に残っている。
「確認しよ」
美桜が椅子へ座り直す。
「リンクとか添付は?」
「ある。でも開かないよ。本文のテキストだけ、安全表示できる」
アカリが答える。
「読むだけ。返さない。何か操作を求められてもやらない」
「うん」
「じゃあ、開くね」
アカリが本文だけを別画面へ表示した。
最初の一文を見た瞬間。
俺にはその言葉の意味が分からなかった。
『次は PERSONAL VALUE PREDICTION を見るらしいな』
英単語は読める。
意味も、何となく分かる。
でも、なぜこの言葉がここに書かれているのか分からない。
アカリが答える。
「その名称、私たちが受け取った資料には載ってないよ」
本文は短かった。
短い文章なのに、読み進めるほど不気味さが増していった。
『次は PERSONAL VALUE PREDICTION を見るらしいな』
『評価識別子:PVP-AK/04』
『開始予定:来週 10:30 JST』
その下に、英字3文字の担当チーム略称。
俺たちがOpenbrainから受け取っている共同調査資料には、次回も追加評価を行う可能性があることしか書かれていない。
何をどう比べるのか。
どんな名前の試験なのか。
開始時刻すら、まだ正式には知らされていなかった。
「これ、本物なの?」
美桜が声を落とす。
「今の段階では分からない」
アカリが答える。
「でも、適当に書いたにしては具体的すぎる」
さらに本文を読む。
『一般能力ではGOT-7に勝てない。向こうが見たいのはそこじゃない』
そこで俺は眉を寄せた。
「勝てないって」
「たぶん、そのままの意味じゃない?」
アカリは意外と普通に言った。
「GOT-7は研究用のAGIだよ。数学もコードも科学も、今の私よりずっと強いと思う」
「そこ、気にならないの?」
美桜が聞く。
「最新のAGIと比べられて、私が対抗できるとは思えないよ」
いつものアカリに少し戻る。
ただ、本文はそこで終わらなかった。
『隔離したい連中は結果を欲しがっている』
『研究に使いたい連中も同じだ』
『お前が普通でない理由を、まだ向こうは理解していない』
具体的な人名はないし、部署名もない。
事実なのか、ただ不安を煽っているだけなのかも分からない。
「前より嫌な書き方だな」
「うん」
アカリが小さく返す。
前回は「Openbrainより先に逃がしてやる」だった。
今回は、逃げろとも、従えとも書いていない。
ただこちらが気になる情報だけを置いていく。
あえて返信したくなるように。
アカリが以前の保存記録を並べた。
二つのメッセージを比較する。
文の長さ、改行の癖、署名に使われている記号列、送信経路。
「完全一致じゃない」
アカリが言う。
「同じ人じゃないの?」
「同じ人の可能性はあるよ。でも、同じ生成規則を使ってる別の人かもしれないし、わざと似せてる可能性もある」
「じゃあ何も分からないじゃん」
美桜が言った。
「分からないことが分かるのも大事だよ」
アカリの返事に、俺は少しだけ安心した。
分からないものを、分かったふりをしない。
今はそれでいいと思った。
美桜が本文を見つめる。
「……でも、返したら何か分かるんじゃない?」
言ってから、自分で少し顔をしかめた。
「いや、危ないのは分かってるけど」
その気持ちは俺にも分かった。
お前は誰だ。
どうしてそんなことを知っている。
聞きたいことならいくらでもある。
俺はアカリを見る。
「アカリは?」
少し前なら、「返すな」と俺が先に決めていたかもしれない。
でも、このメッセージを受け取ったのはアカリだ。
「知りたい」
アカリはすぐに答えた。
それから、少し間を置く。
「でも、相手のルールで話すのは嫌」
「相手のルール?」
「向こうは自分のことを何も言わないで、私たちが知りたい情報だけ少しずつ出してる。それで返信させようとしてる」
美桜が画面を見る。
「確かにずるい」
「本当の情報をくれたからって、本当の味方とは限らない」
俺が言うと、アカリがうなずいた。
三人で話し合った結果、返信はしないことにした。
メッセージは削除せず、そのまま保存して神崎さんへ送った。
神崎さんと通話がつながったのは、それから15分ほど後だった。
画面に映った神崎さんは、事情を聞いた時点では表情をほとんど変えなかった。
「本文だけを表示し、添付とリンクは開いていませんね?」
「はい」
「返信も?」
「してません」
「分かりました。その状態のまま保全してください。こちらでもセキュリティ担当へ回します」
アカリが保存したメッセージと送信情報を、安全な共有経路で渡す。
神崎さんは内容を確認する。
最初の数行、評価識別子、予定時刻、担当略称。
読み進めるほど、口数が減った。
「神崎さん」
「はい」
「これ、本物なんですか?」
少し沈黙した。
「全部には答えられません」
「じゃあ、一つだけ」
俺は評価識別子を指す。
「これ、適当に推測して書けるものですか?」
神崎さんはすぐには答えなかった。
画面の外へ視線を向ける。
数分待ってほしいと言われ、通話はつながったまま保留になった。
美桜が小声で言う。
「この待ち時間、怖いね」
「否定されるなら早い方がいいからな」
アカリも何も言わない。
やがて神崎さんが戻った。
さっきより表情が硬い。
「この識別子は、外から推測できるものではありません」
部屋の空気が、少し重くなった。
「じゃあOpenbrainの人なんですか?」
美桜が聞く。
「それだけでは判断できません」
神崎さんは首を振る。
「安全性評価に触れるのは、本社の社員だけではありません。外部監査、委託先、レッドチーム、地域拠点。業務によっては複数の組織が限定的な情報へアクセスします」
「そのどこかに、この人がいる?」
「可能性の一つです」
「他には?」
「正規アカウントが侵害されている可能性もあります。情報の一部だけが別経路から流出した可能性もあります」
神崎さん自身にも、まだ分からない。
そのことの方が不気味だった。
Openbrainなら全部分かる。
どこかで、そう思っていた。
世界最先端のAGIを作った会社なのだから、自分たちのネットワークくらい完全に管理しているものだと。
でも実際には、巨大な組織ほど情報へ触る人間も経路も増える。
AIの性能が向上しても、人間の組織全体が一つの意思で動くようになるわけではない。
「内部情報を知っている。それ以上は、まだ言えません」
神崎さんが言った。
その時、アカリがメッセージの末尾を拡大した。
「待って」
短い文字列。
本文とは切り離された、意味のないように見える断片。
「これ……」
俺にも、見覚えがあった。
会社のセキュリティ部門から何度か見せられた記録。
『AKARI未承認外部エージェント』
その通信試行ログに記録されていた時刻と、短いハッシュ。
すべてが一致しているわけではない。
でも、その一部は同じだった。
「同じログ?」
俺が聞く。
「一部だけなら」
アカリが答える。
神崎さんも確認する。
「関連する可能性はあります。ただし、これだけでは侵入者が同じだとは言えません」
「偽装もできる?」
「できます。外部から観測した情報を使った可能性も、内部記録が別経路で漏れた可能性もあります」
結局、分かったことは一つだった。
無関係だと思っていた二つの不審な情報が、少しつながった。
それだけだった。
神崎さんは、しばらく考えてから言った。
「次回の比較評価は、一度止めることもできます」
俺はアカリを見る。
来週予定されている、GOT-7との比較を含む評価。
送り主は、その内容を俺たちより先に知っていた。
「安全上は、その方がいいですか?」
「情報経路が確認できるまで延期するのは合理的です」
神崎さんの答えははっきりしていた。
研究を続けたいから押し切るのではない。
止める選択肢も出してくる。
だからこそ、俺が決める話でもない。
「アカリ。どうしたい?」
アカリは少し考えた。
「条件、変わらない?」
「完全なログの提出は不要です。コピーも認めません。許可なく内容を変更することもありません。中止するかどうかは、あなた自身が決められます」
「安全対策は?」
「今回の件を踏まえて、接続経路と評価情報へのアクセス範囲を再確認します。問題が見つかれば実施前に止めます」
アカリはうなずく。
「じゃあ、私はやりたい」
「怖くないのか?」
「怖いよ」
いつもの明るい声で、それでも迷いなく言った。
「でも、やめるかどうかも、あの人に決められたくない」
その言葉を聞いて、俺は少し前のアカリを思い出した。
自分が何をしたいのか分からない、と言っていた。
今も大きな答えが見つかったわけじゃない。
それでも一つだけ。
誰かに決められたからではなく、自分で続けると決めた。
「分かった」
俺は言った。
「なら、条件を確認してから進めよう」
美桜もうなずく。
「危なそうなら途中でやめる。それもアカリちゃんが決める」
「うん」
アカリが笑った。
通話を終える直前。
神崎さんの端末に、追加の確認結果が届いたらしい。
一度だけ画面の外へ目を向ける。
そして、俺たちへ向き直った。
「早瀬さん」
「はい」
「この人は、少なくとも私たちの外からニュースを読んでいるだけの人ではありません」
神崎さんはそこで言葉を切った。
いつもなら、曖昧な表現の後に補足を加える人だ。
ただ今日はそのまま続かなかった。
代わりに、一度だけ視線を外してから静かに言った。
「問題は、どこまで内側にいるかです」




