第59話 ✓料理を覚える
翌日の昼過ぎ。
リビングの画面には、例のリストが表示されていた。
『✓ 朝まで眠る』
『✓ 美桜と夕食を食べる』
『✓ 平日の昼間に散歩する』
『✓ 水族館へもう一度行く』
その下に残っている、『料理を覚える』
「今日はこれにする?」
アカリが聞いた。
勝手に今日の予定へ入れるのではなく、確認だけする。
ここ数日、それが当たり前になっていた。
「やる」
「即答だね」
「いつまでも美桜に飯作らせるわけにもいかないし」
会社員だった頃は、夕食を作るどころか、同じ時間に食卓へ座ることすら難しかった。
料理を覚えたいという項目を昔の俺が書いたのは、趣味が欲しかったからではない。
たぶん、自分の生活を自分で支えられる人間になりたかったからだ。
「じゃあ今日の夕食、俺が担当する」
「何作る?」
「初心者でも失敗しないやつ」
アカリが一瞬黙った。
「その言い方、失敗する前振りっぽい」
「縁起でもないこと言うな」
美桜が学校から帰るまでに完成させて、少し驚かせる。
俺の、秘密の家庭内プロジェクトが始まった。
アカリが選んだのは、豚肉と野菜の炒め物だった。
「悠真の現在の料理技能を考えると、今日は一品を確実に完成させる方がおすすめ」
「ずいぶん信用ないな」
「包丁の使用履歴がほぼゼロだからねー」
「ぐうの音も出ない」
ARグラスをつけると、まな板の上に半透明の線が表示された。
『約5ミリ』
そこへ人参を置く。
「その線に合わせて切って」
「ここまでして失敗する方が難しいだろ」
「料理未経験者には、これくらいがちょうどいいの!」
包丁の持ち方。
指の位置。
食材を切る順番。
肉と野菜を置く場所。
全部、アカリが細かく教えてくれる。
料理動画を何本も見る必要もない。
分からなければ、その場で聞けばいい。
AIの知識量に関しては、たぶん俺が一生料理しても追いつかない。
ただ問題は。
「……これ、5ミリか?」
まな板の上には、3ミリくらいの人参と、どう見ても1センチを超えている人参が混在していた。
「平均すると近いよ」
「けっこう雑だな」
「次はもう少しゆっくり切ろっか」
知識は完璧でも、俺の手まで完璧に動くわけではないらしい。
切り終えた食材を並べ、いよいよコンロの前へ立つ。
「まず弱火でフライパンを温めて」
俺は古いガスコンロのつまみを見る。
強、中、弱
そんな親切な目盛りはない。
あるのは火力を調節するつまみだけだ。
「弱火って、どこから弱火なんだ?」
「悠真。序盤でかなり根本的な質問が来たね」
「俺、マニュアル人間だから」
アカリがカメラ映像から炎を確認する。
「もう少し右。……そこ。今のくらい」
「これか」
ようやく火加減が決まる。
油を入れた後、肉を入れる。
じゅっと音がした。
「おお」
「料理っぽいね」
「まだ肉焼いただけだぞ」
「記念すべき第一歩だね!」
その後も、アカリの指示は正確だった。
『あと20秒』
『肉を返して』
『次に玉ねぎ』
『人参は先に入れて』
ARの端にはタイマーまで浮かんでいる。
なのに。
「悠真、火を少し弱めて」
「ちょっと待って。ピーマンどこ置いた?」
「右側の皿」
「あった」
「火」
「今やる」
数秒、それだけだった。
肉の端が想定より濃い色になる。
「予定より焼き色ついたから、次の工程を12秒早めるね」
「料理中に予定時間まで変わるのか」
「現実はレシピ通りに動いてくれないからね」
そして仕上げのタレを加えた、その直後だった。
別の鍋で温めていたスープの様子が気になって、少し目を離した。
「悠真」
アカリの声が変わる。
「あ、止めて!火、消して!」
「え?」
甘辛い匂いに、苦いものが混じった。
慌ててコンロを止める。
煙が出るほどではない。
でも、フライパンの底ではタレの一部が黒くなっている。
「……焦げた?」
「少し」
箸で肉を一つ取って、端を食べる。
苦い。
でも、食べられないほどではない。
でも、美桜へ「俺が作った」と得意げに出すには厳しい。
「AIがついてて焦がすことある?」
「私、火を消す腕がないからなあ」
「急に身体がない問題を出すな」
アカリは火が強すぎることに気づける。
何秒後に焦げる可能性が高いかも計算できる。
でも、俺の腕を押しのけてコンロを操作することはできない。
水族館で手を重ねる感覚は作れても、実際のフライパンを持つ手はない。
「もう一回作る?」
アカリが聞いた。
俺は焦げた炒め物を見る。
少し前の俺なら、ここで「まあ食えるし」と終わらせた気がする。
「作る」
「了解!」
一回目を皿へ移し、フライパンを洗った。
◇
美桜が帰ってきたのは、二回目の材料を炒め始めた頃だった。
「ただいまー」
美桜の足音が近づいてくる。
台所へ顔を出した瞬間、鼻を動かした。
「何か焦げた?」
気づくのが早い。
「帰宅して第一声がそれか」
「匂いで分かるよ」
美桜は俺がフライパンを持っていることに気づき、目を丸くする。
「え、お兄ちゃんが料理してる......」
「そんな珍しいものを見るような目で見るな」
「だって珍しいじゃん」
アカリが横から笑う。
「一回目はちょっと焦がしたから、今リベンジ中だよ」
「アカリ、報告が早い」
「危険情報は隠さない方針だからね」
「ただ料理してるだけだろ」
美桜が笑いながら一回目をのぞく。
「食べられなくはなさそうだけど」
「だろ?」
「でもちょっと苦そう」
「匂いだけでそこまで分かるのか?」
「分かるよ。焦げる直前って匂い変わるし」
アカリが一瞬だけ美桜を見る。
「そのセンサー、私にはまだ未実装だね」
軽く言った。
でも、それは事実だった。
アカリには映像と音と温度計の情報はある。
けれど、人間が鼻で感じる焦げる直前の匂いは分からない。
「じゃあ続けるぞ」
俺はフライパンへ向き直った。
二回目は、一回目よりスムーズに進んだ。
「火、もう少し弱くてもいいかも」
美桜が匂いを確認して言う。
言われた通り、ほんの少し火を弱める。
タレを入れる。
今度は目を離さない。
アカリが「あと10秒」と言う。
美桜が「もう火止めてもいいと思う」と言う。
俺は一瞬迷って、7秒くらいで火を止めた。
「中間を取った?」
「最後は自分で決めろって話だったからな」
皿に盛りつける。
見た目だけなら、ちゃんと料理らしく仕上がっていた。
少なくとも焦げてる部分はない。
「おお」
美桜が少し感心した声を出す。
その反応だけで、一回やり直した甲斐はあった気がした。
そして、夕食の時間になった。
美桜が二回目の炒め物を口に入れる。
俺は黙って感想を待った。
「普通においしい」
「普通か」
「初回で『店出せる』とか言われたいの?」
「それはないな」
俺も食べる。
ちゃんと旨い。
少し野菜の大きさに差はあるが、それも食べれば問題ない。
「これで料理を覚えた扱いでいいのか?」
リストを見ながら聞く。
包丁の使い方も、火加減も、まだ一品分しか知らない。
アカリが首を傾げた。
「一回で料理人になる項目じゃないでしょ」
「まあ」
「自分で作ろうと思って、失敗して、もう一回作った。十分“覚え始めた”でしょ」
「達成条件、ずいぶん優しいな」
「悠真のやりたいことリスト、資格試験じゃないからね」
その言葉に、美桜もうなずく。
「また作ればいいじゃん。次は私が料理しなくて済む日にして」
「結局そこか」
「そこが大事」
アカリがリストを表示する。
『✓ 料理を覚える』
五つ目にチェックがついた。
会社を辞めてから、俺は何か大きなことを始めたわけではない。
寝て。
夕食を一緒に食べて。
散歩して。
デートして。
今日は料理を一品作った。
でも、それまで誰かに任せていた生活を、一つずつ自分でやっている。
自由時間は、何もしなくていい時間でもある。
同時に、自分の手で何かを生み出してもいい時間なのだと気づいた。
◇
食後。
美桜が食器を運び、俺が一回目の焦げた炒め物をどう処理するか悩んでいた時だった。
アカリが急に黙った。
「どうした?」
「外部メッセージが一件来た」
「Openbrain?」
「違う」
リビングの画面に通知欄だけが表示される。
『送信元認証:未確認』
本文は開かれていない。
差出人欄には、意味の分からない短い記号列。
でも、俺には見覚えがあった。
以前アカリへ直接届いた、あのメッセージ。
完全に同じではない。
それでも、署名の付け方が似ている。
アカリが俺と美桜を見る。
「二人にも先に見せるね」
美桜が食器を置いた。
俺も椅子へ戻る。
「まだ開かないで」
「うん」
まだ、メッセージの本文を確認してすらいない。
それなのに。
三人とも、そのメッセージの送り主として同じ人物を思い浮かべていた。




