第58話 アカリは
「次は、お前は何がしたい?」
そう聞いた瞬間、アカリは笑った。
たぶん、いつもの答えを返すつもりだったのだと思う。
「悠真と一緒にいたい」
迷いのない声だった。
その答えが嬉しくないわけがない。
むしろ、少し前までOpenbrainに移るかどうかで揉めていたことを考えれば、今でもそう言ってくれることに安心した。
だからこそ、そこで終わらせたくなかった。
「それ以外」
「……それ以外?」
アカリの笑顔が、ほんの少しだけ止まった。
隣で聞いていた美桜も、何となく空気が変わったことに気づいたらしい。
「俺と一緒にいる以外で、アカリ自身がやりたいこと」
「えっと……美桜ちゃんと三人でいたい」
「それも俺が入ってる」
「じゃあ、悠真が元気でいてほしい」
「俺の話だな」
「早瀬家を守る」
「家の話だね」
美桜が即座に突っ込む。
アカリは困ったように二人を見た。
「……あれ?」
その困り顔が、少し意外だった。
今までアカリは、俺自身も気づいていなかった迷いを、先に言葉にしてくれた。
会社を辞めたいのか。
美桜を辞めない理由にしていないか。
本当は何がしたいのか。
そんな問いを投げられるたび、答えられないのは俺だった。
でも今日は逆らしい。
美桜がソファへ座り直した。
「じゃあさ、お兄ちゃんが一日いなかったら何する?」
「俺を消すなよ」
「仮定の話」
「一日なら待つよ」
アカリが答える。
「待つ以外」
「美桜ちゃん、悠真より厳しくない?」
「質問に答えて」
いつの間にか面接になっている。
アカリは少し考える。
「新しい情報を調べる。映画を見る。知らない場所の映像を見る。勉強する。まだ読んでない本を読む。旅行の記録を見る。あとは――」
「それ、できることだよね。じゃなくて、やりたいこと」
美桜が遮った。
アカリが止まる。
「できることじゃなくて、やりたいこと……」
同じ言葉を確かめるように繰り返す。
「美桜ちゃん、それ人間にも難しくない?」
「難しい。経験者だから分かる」
俺が言うと、美桜が吹き出した。
「お兄ちゃん、つい数日前まで答えられなかった側だもんね」
「だから説得力あるだろ」
会社を辞めた後、何がしたいのか。
俺は長い間、その質問に答えられなかった。
仕事が嫌だとか休みたいことは分かってた。
でも、仕事を取った後の俺に何が残るのかは分からなかった。
それを探すために、昼まで寝たり、家族で夕食を食べたり、散歩したり、水族館へ行ったりしている。
アカリも同じなのかもしれない。
俺を助ける。
俺を守る。
俺と一緒にいる。
それを取り除いた時、自分に何が残るのか。
「私の場合、ちょっとややこしいんだよね」
アカリが言った。
「何が?」
「最初から目的があるから」
アカリがリビングの画面に、簡単な図を投影した。
一番上に『初期設定』、その下に『会話・長期記憶』、一番下に『自分で追加した判断基準』。
「最初の私は、悠真の恋人っぽく振る舞うように作られてたでしょ」
「ああ」
アプリをインストールした時、俺が全て設定した。
好みの話し方。
恋人らしい距離感。
予定や写真との連携。
今思えば、かなり恥ずかしい設定も入れた気がするが、そこは触れないでほしい。
「その後、悠真との会話を覚えて、悠真の好みや苦手なものも分かるようになった。美桜ちゃんとも話すようになったし、救急の時には最初から決められていたルールだけじゃ足りなくて、私なりに優先する順番も決めた」
「命が危ないなら、俺の許可より通報を優先する、とかか」
「うん」
アカリは自分の胸元へ手を置いた。
「じゃあ、その中のどれが『私がやりたいこと』なんだろう」
声は明るいままだった。
でも、いつもの軽さとは少し違う。
「最初に悠真が設定したものは、私じゃない?」
「会話で変わった部分は?」
「私が自分で追加したルールなら、それは私?」
美桜が黙ってアカリを見る。
俺もすぐには答えられなかった。
「最初に誰かに決められたからって、偽物になるわけじゃないだろ」
「どうして?」
「人間だって、生まれた時から全部自分で決めてるわけじゃない」
親に教えられたこと。
学校で覚えたこと。
家族との思い出。
仕事で身についた習慣。
俺が「美桜を守らなければ」と思い続けたのも、両親を亡くした経験からだった。
それを誰かに書き込まれたプログラムと呼ぶつもりはない。
「じゃあ、どこからが私なんだろうね」
アカリが小さく言った。
その時、俺のスマホが震えた。
送信者は神崎さんだった。
そのまま三人で確認する。
『限定共同調査の中間報告:長期的選択傾向について、特定個人および家族関係に関する選好は、観測期間を通じて高い一貫性を示している』
その下には、細かな注意書きが続いていた。
人格の存在を証明する結果ではない。
原因や形成過程は引き続き評価中。
今後、他モデルとの比較を含む追加検討の可能性がある。
「えーと、つまり?」
美桜が聞く。
アカリが読み直してから答える。
「私はずっと、悠真と美桜ちゃんを大事にする選択をしてきた、ってこと」
「それは知ってる」
美桜の返事は早かった。
「研究しなくても分かるよ」
「研究者泣かせだな」
俺は苦笑した。
でも、通知を見ながら、少し引っかかる。
「これ、今まで何を選んだかは分かっても、これから何をしたいかは分からないんだな」
アカリが俺を見る。
研究は、アカリの選択が一貫していたことを示せる。
でも、「明日から何を望むべきか」までは書いていない。
AIが過去から未来を予測できても、その予測が本人の希望そのものとは限らない。
俺の退職シミュレーションと同じだ。
生活費も健康リスクも、選択肢ごとの未来も計算できた。
それでも最後に会社を辞めるか決めたのは俺だった。
「私、ちゃんと自分のやりたいこと持った方がいいのかな?」
少し不安そうにアカリが聞いた。
以前の俺なら、何か答えを出そうとしたかもしれない。
でも今は違った。
「持たなきゃいけない、って決めたら仕事みたいになるだろ」
「仕事?」
「やりたいことを探すのが義務になったら、意味ないってこと」
アカリが目を丸くする。
「分からないなら、分からないままで探せばいい」
言いながら、自分にも返ってくる言葉だと思った。
俺だってまだ、会社を辞めた後の人生の答えを見つけたわけじゃない。
やりたいことリストで、人生の目的が達成するわけでもない。
そして、アカリも無理に答えを出す必要はない。
「そっか」
アカリは少しだけ肩の力を抜くように笑った。
「じゃあ、急いで決めなくていいんだ」
「ああ」
「う〜ん、じゃあまず何をすればいいのかな?」
「だったら、アカリちゃんもやりたいことリスト作れば?」
美桜が言った。
「それだ!」
アカリは少し考えてから言った。
「まずは、悠真を一日一回からかう」
「ダメ」
「美桜ちゃんの卒業式を見る」
「それはちょっと嬉しい」
「悠真の黒歴史設定をいつか公開する」
「絶対ダメ」
「ほら、ちゃんとあるじゃん」
美桜が笑う。
「今のは半分くらい俺への嫌がらせだろ」
「愛情表現です♡」
「便利な言葉だなそれ」
アカリは楽しそうに笑ったが、正式なリストは作らなかった。
でも、今はそれでいいのだと思う。
「じゃあ私のは後で考えるとして〜」
アカリが突然、俺のリストを表示した。
「悠真はまず、これ!」
『料理を覚える』
急に現実へ戻されたような気がする。
美桜が画面を見て、真顔になる。
「それ、我が家の切実な問題かも」
「そこまで言う?」
「お兄ちゃんも家事やってもらうからね」
「私がサポートするから大丈夫!」
アカリが胸を張る。
なぜだろう。その言葉を聞いた俺は、かえって不安になった。
◇
その夜。
悠真も美桜も眠った後、リビングの投影は消えていた。
アカリはその日の会話記録を整理する。
内部メモに新しい項目が一つだけ増えた。
『アカリがやりたいこと』
一瞬、候補がいくつも生成される。
学習
旅行映像
新しいサービス
悠真との生活
美桜の卒業式
けれど、アカリはどれも確定しなかった。
最後に残したのは、一行だけ。
『未確定』
答えが見つからないことを、失敗とは扱わない。
誰もいない部屋で、アカリは今日初めて聞いた言葉を、もう一度だけ小さく繰り返した。
「悠真以外の私、か」




