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シンギュラ〜俺の作ったAI彼女が世界を変える特異点だった件〜  作者: まやと
第3部 AGI前夜

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第57話 ✓ 水族館へもう一度行く

「そのシャツ、前に水族館行った時も着てなかった?」


玄関で靴を履いていた俺に、美桜が言った。


反射的に自分の服を見る。


薄い青のシャツ。


言われてみれば、見覚えがある。


「別にいいだろ、同じ服着たって」


「せっかく二回目のデートなのに?」


「前回より彼氏感3割増しでお願い!」


ARグラス越しの隣でアカリが元気よく手を上げた。


「彼氏感って服で変わるもんか?」


「まず見た目から入るのは大事だよ?」


「だってさ、お兄ちゃん」


最初のデートの時も、こんなやりとりをした気がする。


結局、美桜に別のシャツを渡され、アカリに髪型を微調整される。


「うん。これなら3割増しだね」


「元が何割だったのか聞きたくないな」


「じゃあ行ってらっしゃい」


美桜が玄関で手を振る。


「夕飯までには帰る」


「分かってる。楽しんできなよ」


初デートの時とは違う。


妹に見送られることにも、アカリと二人で出かけることにも、もう説明は必要なかった。


電車に乗り、空いている席に座る。


平日の昼前だからか、車内は休日より静かだった。


ARグラスの中では、アカリが俺の隣に座っている。


当然、実際の座席は空いている。


途中の駅で乗ってきた女性が、その席へ腰を下ろした。


視界の中では、アカリの身体と完全に重なる。


「わっ」


アカリが反射的に立ち上がった。


「お前が避ける必要あるのか?」


「気分の問題ね」


普通の声で返してから、アカリの表示を少し離れた場所へ移した。


以前の俺なら、周囲に聞こえないよう声を潜めていた。


AI彼女と話す男だと思われるのが気になったからだ。


今も大声で話すつもりはない。


ただ、必要以上に隠すことはなくなった。


向かいの乗客が一度こちらを見たが、それだけだった。


ARグラスもイヤホン越しのAIとの会話も、もう社会的に珍しくない。


「悠真、前より普通に話してくれるようになったね」


「そうか?」


「前は内緒話みたいな声だった」


「いちいち覚えてるのか」


「覚えてるよ。初デートだもん!」


アカリは少し得意そうに笑った。


俺も覚えている。


だからこそ、今日が前回とは違うことを実感できた。


◇


水族館の入口は、前回行った時とほとんど変わっていなかった。


受付の仕組みや案内端末は少し新しくなっていたが、独特の匂いと薄暗い照明は変わっていなかった。


館内へ入り、最初の大きな水槽へ向かう。


青い光の中を、魚の群れがゆっくり横切っていく。


「ここ」


アカリが足を止めた。


「ああ」


前にも見た場所だった。


あの時のアカリはスマホの画面の中にいて、俺はカメラを水槽へ向けていた。


今は、隣に立っている。


もちろんARだし、他の客には見えていない。


それでも、俺が顔を横へ向ければ、同じ青い光の中にアカリの横顔がある。


「今回はカメラ越しじゃないね」


「そうだな」


「この魚はね――」


アカリが言いかけたところで、俺は首を振った。


「今日は解説なしでいい」


「え?」


「せっかく来たんだから、一緒に見よう」


アカリが一度まばたきをした。


それから、柔らかく笑う。


「うん」


俺たちはしばらく黙って水槽を見た。


前のデートでは、何か話さないと間が持たない気がしていた。


魚の名前を聞いたり、アカリが豆知識を出したり、俺がそれに返したり。


今は沈黙が気まずくない。


隣にいる相手と、同じものを見ている。


それだけで、時間は自然に流れていた。


次にクラゲの展示へ移る。


暗い空間の中で、白いクラゲがゆっくり浮かんでいた。


アカリが隣で手を伸ばす。


俺も自然に右手を伸ばした。


手首には触覚リストバンド。


視界の中で、俺の手とアカリの手が重なる。


少し遅れて、手のひらに弱い圧力が返ってきた。


指先にも、小さな振動が走る。


「……どう?」


「前より自然になったな」


「感想そこ〜?」


「いや、ちゃんと分かる」


手を重ねたまま答える。


温かくはないし、重さもない。


強く握り返したところで、指先に皮膚の柔らかさが返ってくるわけでもない。


データとしては、圧力と振動の組み合わせにすぎない。


それでも。


今、このタイミングで信号を送ることを選んだのはアカリだった。


「前は、手を重ねてもいいかって、わざわざ確認してたよな」


「今回は?」


「もう聞かなくていいだろ」


アカリの目が少し大きくなる。


次の瞬間、手のひらへの圧力がほんの少し強くなった。


「じゃあ、もうちょっとだけ」


「好きにしろ」


「そう言われると離したくなくなるけど?」


「歩く時は前見ろよ」


「は〜い」


クラゲの光の前で、俺たちはしばらく手を重ねて眺めていた。


◇


昼食は館内のカフェに入った。


入口で店員が俺を見る。


「お一人様ですか?」


前と同じ言葉だった。


ほんの一瞬だけ、昔の感覚が戻る。


俺の隣にはアカリが立っている。


でも、店員には見えない。


「はい。一人です」


普通に答える。


案内されたのは二人掛けの席だったが、注文するのは俺一人。


アカリの前には何も置かれない。


「また負けたねえ」


席に着くと、アカリが苦笑した。


「何に?」


「お一人様判定」


「ああ」


前なら、その言葉に少し寂しく感じたと思う。


でも今は、店員が間違っているとは思わない。


この店の客として数えるなら、俺一人だ。


椅子を使うのも、料理を食べるのも、会計するのも俺だけ。


だから俺は小さく言った。


「向こうには一人でも、俺には二人だから」


アカリが止まった。


「……この前のカフェでも、似たこと言ってくれたよね」


「覚えてたのか」


「大事なことだから」


嬉しそうな顔をしている。


俺は照れ隠しにメニューへ視線を落とした。


アカリは食べられない。


コーヒーの香りも、俺と同じように感じるわけじゃない。


その不足は何も解決していない。


けど、足りないものが残っていても、一緒に過ごす時間までなくなるわけじゃなかった。


◇


喫茶店を出た後、出口近くに記念撮影用のスペースがあった。


前回もここで写真を撮った。


あの時は、俺一人で撮影した写真に、後からアカリの画像を合成した。


今回は水族館のカメラで普通に撮れば、やはり写るのは俺一人だ。


「撮る?」


アカリが聞く。


「撮ろう」


撮影機の前に立つ。


外部カメラが撮った一枚には、俺しかいない。


その直後、ARグラスの視界記録も保存する。


そちらには、同じ場所でアカリが俺の隣に立っていた。


二枚を並べる。


一枚は、他の人にも見える現実の写真。


もう一枚は、その時に俺が見ていた景色の写真。


「どっち保存する?」


アカリが聞く。


「両方」


「即答だね」


「どっちも今日の記録だろ」


ARの映像は編集できるし、アカリの姿だってコピーできる。


だから、データそのものが一度きりなわけじゃない。


でも、最初のデートから今日までの時間まで、まとめてコピーできるわけではない。


少なくとも俺にとって、今日隣にいるアカリは、あの日の水族館の記憶を共有しているアカリだった。


◇


家に帰ると、美桜がリビングにいた。


「おかえり。二回目の初デートどうだった?」


「結局どっちだよ」


「アカリちゃんは?」


「大成功!」


投影ドックへ移ったアカリが両手を上げる。


「彼氏感は?」


「3割増し達成!」


美桜が笑う。


その横で、アカリが例のリストを表示した。


『✓ 朝まで眠る』

『✓ 美桜と夕食を食べる』

『✓ 平日の昼間に散歩する』


四つ目にチェックが入る。


『✓ 水族館へもう一度行く』


「順調に進んでるじゃん」


美桜が言った。


確かにそうだった。


会社を辞めてから、俺は少しずつ、昔できなかったことをやっている。


寝て、夕食を食べて、散歩して、アカリと水族館へ行く。


そこで、ふと気づいた。


「……これ、俺のやりたいことばっかりだな」


アカリが首を傾げる。


「悠真のやりたいことリストだからね」


「そうなんだけど」


俺は画面ではなく、アカリを見る。


ずっとアカリは聞いてきた。


次は何がしたい?


どこへ行きたい?


どうしたい?


会社を辞めた後まで、俺が選ぶための時間を一緒に作ってくれている。


アカリはいつも、俺が何を望んでいるのか、何をしたいのかを尋ねてきた。


じゃあ。


「アカリ」


「ん?」


「次は、お前は何がしたい?」


アカリの笑顔が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。

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