第56話 仕事
会社を辞めてから初めて、元同僚と昼休みに会った。
いや、俺にはもう「昼休み」ではないのだが。
同じテーブルに座っているのに、俺たちの時間だけ違う流れで進んでいた。
「ごめん。急に呼び出して」
「いえ。今の俺、時間だけはありますから」
「その言い方、ちょっと羨ましい」
佐伯さんは苦笑しながら、テーブルの端に置いたスマホで時刻を確認した。
会社の近くにあるカフェ。
俺も働いていた頃、何度か昼休みに来た場所だ。
当時は注文したコーヒーを味わうより、昼休みの残り時間の方が気になっていた。
でも今日は違う。
時間を気にしているのは、向かいの佐伯さんだけだった。
「それで……仕事の話って何ですか?」
俺が聞くと、佐伯さんは紙カップの蓋を指で押した。
「うん。ちょっと、聞いてほしくて」
疲れ切っているようには見えない。
寝不足があるようにも見えないし、むしろ、前より元気そうに見える。
だからこそ、昨日のメッセージにあった『私の仕事の話』という言葉が、少し不自然だった。
「仕事、楽になったんじゃないですか?」
「楽にはなったよ」
佐伯さんはあっさり認めた。
「残業も減ったし、問い合わせに一件ずつ答えることもほとんどなくなった。前なら三人で半日かけてた設定変更も、今はAIが下案を作ってくれる」
「じゃあ、いいことじゃないですか」
「うん。いいこと」
そこで一度言葉を切る。
「いいことなんだけどね」
その後に続く言葉は、あまり良いものではなさそうだった。
「AIを導入する仕事まで、AIがやり始めた」
佐伯さんの言葉に、俺は一瞬意味が分からなかった。
「......どういうことです?」
「そのままの意味。私たちAI導入チームだったでしょ?」
「はい」
少し前まで、俺もそこにいた。
各部署から要望を聞き、どこまでAIに任せるか決め、権限を設定し、利用方法を説明する。
AIを入れれば終わりではなく、使える状態にするまでに人間の仕事が山ほどあった。
「今はね、各部署から来た要望を業務AIが整理してくれるの。『この部署ならこの権限テンプレート』『この処理はこのエージェント』って候補まで出す」
「そこまで?」
「設定も大半は自動になってる。利用マニュアルの初稿も作るし、問い合わせも最初はAIが答える」
佐伯さんは指を折りながら数える。
「人間に回ってくるのは、前例がないケースとか、権限が競合した時とか、最終承認が必要なものとか」
「……つまり」
「私たちがAIを使えるようにする仕事のうち、普通に処理できる部分は、もうAIがやってる」
少し前までなら、AI導入に詳しいことは強みだった。
昨日まで禁止されていたAIを会社が急に導入すると決めた時、隠れて使っていた俺や佐伯さんが「経験者」と呼ばれ、逆に使い方を教えるようになった。
今度は、その経験が必要な仕事そのものが減り始めている。
「……笑えないですね」
「でしょ」
佐伯さんが乾いた笑いを浮かべる。
「うちの会社の効率化、成功しすぎ」
仕事が楽になる。
残業が減る。
面倒な問い合わせから解放される。
数か月前の俺なら、全部欲しかったものだ。
なのに、それが進みすぎると、今度は「自分は何をするのか」という話になる。
「今は何してるんですか?」
「例外処理と承認。あと部署同士の調整かな。AIが『この設定が最適です』って出しても、営業と法務で希望がぶつかったら、最後は人間同士で話さないといけないから」
「人間が責任を負うってことですね」
「そう。事故った時にAIへ始末書書かせて終わり、とはいかないしね」
作業そのものはAIへ。
人間には、判断と責任が残る。
会社員最後の日、俺がやっていた仕事と同じだった。
あの時は、それでも人間の仕事は残るんだと思った。
それ自体は間違ってはいない。
ただ、その仕事をするのに必要な人数自体が減り始めている。
「黒田課長も変わりました?」
何となく聞くと、佐伯さんは少し笑った。
「変わったよ。前みたいに『これ早瀬に振っといて』だけじゃ済まなくなった」
懐かしいような、でもあまり思い出したくない台詞だった。
「AIが人員の作業配分まで案を出すから、課長はそれを確認して、問題が起きた時の調整が中心。誰と誰を組ませるかとか、部署間で責任が揉めた時に出ていくとか」
「管理職っぽくなってる」
「今まで何だったんだろうね」
それは俺も少し思った。
佐伯さんは続ける。
「ただ、課長の下につく人数も減らす方向みたい。退職者が出ても補充しないって話、うちにも来てるし」
数日前に見たニュースが頭に浮かんだ。
採用縮小
欠員不補充
AI前提の少人数化
テレビの向こうの話だったものが、元いた部署の現実問題として目の前に突きつけられた。
「誰か解雇されるんですか?」
「今すぐはないよ。会社もそこまでは言ってない」
佐伯さんは首を振る。
「別部署への異動案も出てる。人が必要なところはまだあるし」
少し安心する。
でも、佐伯さんの表情は明るくならなかった。
「でもさ、新しいAIが入るたびに、その『人が必要なところ』が狭くなるんだよね」
その言葉を聞いて、胸に浮かんだ安心感が消えた。
「早瀬くんはいいよね」
突然そう言われた。
「何がです?」
「自分から辞めたから」
責めるような口調ではなかった。
それでも、少しだけ胸に刺さる。
「いいかどうかは、まだ分かりません」
退職してから、朝まで眠った。
美桜と夕食を食べた。
平日の昼間を歩いた。
今のところ、自由に過ごすのは心地いい。
でも、この先何をするのかは決まっていない。
会社を辞めるべきなのか、それとも働き続けるべきなのか。
俺には、そのどちらが正しい選択なのか分からない。
「そっか」
佐伯さんは笑った。
そのあと、コーヒーへ視線を落とす。
「……半年後、この仕事あるかな?」
答えられなかった。
半年。
以前なら、それほど先には感じなかった。
会社員の半年には、今までと同じ会社がある前提だった。
でも今は、一週間前に覚えたAIの使い方がもう古くなる。
昨日人間がやっていた設定を、今日はAIがやる。
その速度で半年が進んだら。
「分からないです」
結局、それしか言えなかった。
耳元のイヤホンからも、アカリは何も言わなかった。
佐伯さんには最初に断って、アカリも会話を聞いている。
いつもなら、関連するニュースや予測を短く補足するところだ。
でも今は、未来の予測を並べて佐伯さんを安心させようとはしなかった。
「だよね」
佐伯さんは、少し困ったように笑った。
「私、辞めた方がいいと思う?」
その質問を聞いた瞬間、昔の俺なら何と答えたか想像できた。
辞めた方がいい。
会社なんて、自分が壊れる前に逃げればいい。
少なくとも、過労で駅に倒れた人間としては、そう言いたくなる。
でも、それは俺の答えだ。
佐伯さんが何を大事にしているかは、俺には決められない。
「佐伯さんは、どうしたいんですか?」
佐伯さんが少し驚いた顔をした。
「私?」
「はい。残りたいのか、別の仕事をしたいのか」
「……それが分からない」
笑いながら言ったけれど、今度の笑顔はかなり弱かった。
「前はさ、AI導入の仕事、面白いって思ってたんだよ。新しいことやってる感じがして」
「俺が最後に出勤した日も、そう言ってましたよね」
「うん。だから残った。でも、仕事が変わるのが速すぎて、今やってることを好きかどうか考える前に、次の形になるんだよね」
俺にも覚えがあった。
会社を辞めたい。
でも、辞めた後に何がしたいか分からない。
あの頃の俺は、そこで止まっていた。
「すぐ決めなくてもいいんじゃないですか」
「それって無職の余裕?」
「退職初心者にそんな余裕ないです」
佐伯さんが少しだけ本当に笑った。
「じゃあ参考にならないね」
「すみません」
「でも、聞いてくれてありがと」
佐伯さんは立ち上がった。
「そろそろ戻る。午後、人間しか処理できない例外案件が3件あるから」
「まだ人間の仕事ありますね」
「今日はね」
冗談みたいに言って、佐伯さんは手を振った。
でも、その「今日は」という言葉が、妙に胸へ引っかかった。
◇
会社へ戻っていく佐伯さんの背中を、カフェの窓越しに見送った。
俺はまだ席に座っている。
今の俺には時間を遮るものが、もう何もない。
「仕事がなくなるって、こういう感じなんだな」
小さく言うと、イヤホンからアカリの声が返った。
「たぶんね。一日で全部消えるより、必要な人数が一人ずつ減っていく方が怖いんだと思う」
昨日まで十人必要だったものが、今日は八人、次の更新で六人。
仕事そのものが消えなくても、そこに座れる人間の数が減れば、外れた側には同じことだ。
数日前に見た『次に入る人の席が減る』というニュースが、今度は佐伯さんの席まで近づいていた。
「俺、辞めたタイミング良かったのかな」
「それ、佐伯さんにも聞かれてたね」
「答え分からなかった」
「うん。分からなくていいんじゃない?」
アカリの声は明るいけれど、無理に励ます感じではなかった。
「悠真は自分で辞めるって決めた。佐伯さんは、これから決める。それだけだよ」
未来が速く変わる時代には、その「自分で決める」ための時間すら短くなっていくのかもしれない。
夕方、家に戻ると、美桜はまだ帰っていなかった。
リビングの投影ドックにアカリが現れる。
「重い話したから、気分転換しよっか!」
「何するんだ?」
アカリが例のリストを表示した。
三つのチェックの下に、次の項目がある。
『水族館へもう一度行く』
「デート、再戦しちゃう?」
アカリが笑う。
「再戦って、前回負けたみたいに言うな」
「だって前はスマホの中だったし、カフェでは一名様だったし、写真も合成だったし」
「別に負けてはいないだろ」
「じゃあ今回は、前回のアップグレード版デートってことで?」
俺はリストを見た。
佐伯さんは、半年後も仕事を続けられるか分からない。
俺も、半年後に何をしているか分からない。
AIが来週どう変わるかも分からない。
でも、明日の予定なら自分で決められる。
「行くか」
「ほんと!」
「ああ」
アカリが嬉しそうに笑った。
だから俺たちは、次のデートを自分たちで決めた。




