第55話 ✓ 平日の昼間に散歩する
平日の午前11時の駅前は、俺の知っている東京ではなかった。
ベビーカーを押す親。買い物袋を提げた高齢者。大きなキャリーケースを引く観光客。駅前のベンチでノートPCを開いている、たぶんリモートワーカー。
たぶん俺が知らなかったのは、東京じゃなくて、昼間の街の姿だった。
「悠真、今ちょっと観光客みたいな顔してる」
ARグラスの隣で、アカリが笑う。
「同じ駅なのに、初めて来たみたいだ」
「毎日通ってたのに?」
「俺が知ってるのは朝8時前と夜だけだからな」
朝は人の背中を追って改札へ向かい、夜は家に帰るためだけに駅を出る。
駅前に何があるかなんて、ほとんど見ていなかった。
会社員だった頃は、それが普通だった。
家を出る前、アカリはいつもの調子で候補を並べかけた。
「今日の気温は22度。降水確率は――あと、平日だから駅の反対側の公園が空いてて、商店街の混雑も少なめ。散歩ならおすすめは――」
「アカリ」
「ん?」
「今日は決めないで歩きたい」
アカリの横に浮かんでいた案内表示が消える。
「目的地なし?」
「ああ」
「所要時間も?」
「疲れたら帰る」
「珍しいね」
少しだけからかうような顔をしてから、アカリはうなずいた。
「わかった。迷子になったら案内するね」
美桜には学校へ行く前に「昼間に一人で徘徊する無職になった」と言われたが、散歩と徘徊は目的があるかどうかで違うと思う。
まあ今日は、その目的すらないのだが。
駅前を出て、いつもなら曲がらない道へ入る。
特に理由はない。
だからこそ、少し気分がよかった。
◇
商店街へ入って最初に目についたのは、小さな無人店舗だった。
コンビニより狭い店内に飲み物と弁当、日用品が並び、入口には『入店から決済まで自動対応』の表示がある。
隣のドラッグストアでは、入口のAIアバターが客に声をかけていた。
『花粉症のお薬をお探しですか? 症状から売り場をご案内できます』
さらに少し先では、外国人観光客が翻訳端末へ話しかけ、日本語の案内を聞いている。
「増えたな」
「何が?」
「こういうの。前からあったけど、こんなに目につかなかった」
「数も増えてるよ。それに、悠真が気づくようになったのもあると思う」
言われてみれば、その通りかもしれない。
会社へ急いでいた頃なら、配送ロボットが何台いたとしても気にせず通り過ぎていただろう。
俺が足を止めた先では、短距離の自動運転シャトルが実証運行していた。
車体の横に『自動運転実証中』と大きく書かれている。
未来っぽい光景だ。
ただし、乗り場には蛍光色のベストを着た係員が二人立っていた。
一人は利用客へ説明し、もう一人は手元の端末を確認している。
「完全無人じゃないんだな」
「今は実証だからね。道路も他の車も歩行者もいるし、事故の時に誰が対応するかって問題もあるし」
「ネットの中みたいに何でも自動にはいかないか」
「現実にはいろいろ障害物もあるから」
少し先に進むと、創業何十年という雰囲気の食堂があった。店先には色あせた食品サンプルが並び、引き戸には手書きで『本日の日替わり 生姜焼き』『現金のみ』と貼られている。
店内では年配の店員が注文を取り、客が財布から千円札を出していた。
ほんの数十メートルの間に、顔認証決済と現金払いが同居している。
「東京、更新途中って感じだな」
「一斉アップデートできないからね。街も人も」
アプリなら更新ボタン一つで済む。
けれど、道路も店も、そこで働く人たちも、同じように簡単には変えられない。
GOT-7が発表されて、未来は一気に来るものだと思っていた。
でも実際には、新しいものが古い街に少しずつ加わっていくらしい。
◇
昼を少し過ぎた頃、休憩するためにカフェへ入った。
入口に店員はいない。
天井のセンサーが俺を認識し、注文端末に表示が出る。
『一名様ですね。お好きな席をお選びください』
その横で、アカリが肩を落とす仕草をした。
「人数判定で今日も負けた〜」
「お前はセンサーに映らないからな」
ARグラス越しには、俺のすぐ隣にいる。
けれど店から見れば、客は俺一人だ。
前に水族館で「お一人様ですか?」と聞かれた時は、胸の奥に小さな違和感が残った。
あの時は、アカリが彼女だと言いながら、アカリが他の人には見えない存在であることを、自分でもどこかで意識していたのかもしれない。
でも今は。
「まあ、俺にはアカリがいるからいい」
口から出てから、自分で固まった。
アカリも一瞬黙る。
「……悠真」
「何だよ」
「今の、もう一回言って?」
「言わない」
「え〜。でも録音は取ってあるよ」
「消して」
「大事な発言だから、保護しておくね!」
楽しそうに笑うアカリから目を逸らし、注文画面を操作する。
コーヒー一杯。
やっぱり注文は一人分だった。
それでも以前ほど寂しいとは思わなかった。
向かいの席に座ったアカリは、俺にしか見えない。
でも、見えないことと、いないことは同じじゃない。
少なくとも、俺にとっては。
◇
午後2時過ぎ。
住宅街の先にあった小さな公園で、ベンチに腰を下ろした。
平日の公園は静かだった。
少し離れた場所で子どもが遊び、高齢の男性が日向で本を読んでいる。
仕事用の通知も来ないし、次の予定もなかった。
アカリが視界の端に、あのリストを表示した。
『退職後にしたいこと』
『✓ 朝まで眠る』
『✓ 美桜と夕食を食べる』
『平日の昼間に散歩する』
その三つ目に、チェックが入る。
『✓ 平日の昼間に散歩する』
「こんなの、退職しなくても有給取ればできたことなんだよな」
「うん」
否定されると思っていたので、少し拍子抜けする。
「できたことと、できると思えてたことは違うよ」
アカリが言った。
会社員だった俺には、有給を取って目的もなく昼間を歩くという発想自体がなかった。
休むには、体調を崩したとか家族の用事があるとか、何かしらの理由が必要だと思っていた。
何もしないために休むことを、どこかで許されないことだと思っていた。
「散歩するだけで、ずいぶん大げさな話になったな」
「悠真が今まで大げさに働きすぎだったんだよ」
それは否定できない。
ベンチに腰を下ろしていると、風が木の葉を静かに揺らした。
ARで表示されているアカリの髪は、風に揺れることはなかった。
現実の風向きに合わせて表示を少し揺らすことはできるらしいが、今日はその機能を切っている。
隣にいるように見えても、同じ風を浴びているわけではない。
けれど、アカリと並んでいること自体が、もう自然なことになっていた。
「次は何する?」
アカリが聞く。
「今日はまだ散歩中だろ」
「そっか」
「帰るまでが散歩だからな」
「なんか遠足みたいね」
笑いながら立ち上がる。
その時、スマホが震えた。
佐伯さんからのメッセージだった。
『時間あるとき、少し話せる?』
退職してから、佐伯さんとは何度か軽いやり取りをしていた。
でも、この書き方は初めてだった。
俺は返す。
『仕事の引き継ぎですか?』
数秒後。
『違う。私の仕事の話』
さっきまで目的もなく歩いていた散歩が、そこで途切れた。
会社を辞めた俺のもとへ、会社に残った佐伯さんから届いた相談。
今の俺に何ができるのか分からないまま、俺は次に返す言葉を探していた。




