第53話 ✓朝まで眠る
「遅刻――」
飛び起きた瞬間、視界の端で時計が11時を過ぎているのが見えた。
終わった。
そう思った次の瞬間、枕元に投影されていたアカリが、やけに楽しそうな顔でこちらを見ていた。
「おはよう!今日の睡眠時間、9時間47分」
「……寝すぎたか」
「2年分くらい睡眠足りてないから大丈夫」
そこでようやく思い出した。
今日は会社に行かなくていい。
というより、もう行く会社がない。
昨日、俺は会社を退職した。
それでも身体だけは、まだ退職の事実を受け入れきれていなかったらしい。
「一回、6時くらいに目覚めてたよ」
アカリが言う。
「起きたのか、俺」
「目は開いた。でも時計を見て、そのまま寝た」
ぼんやりと記憶がある。
いつもの時間に目が覚め、行かなくていいことを思い出してそのまま布団へ沈んだ。
「昨日より途中で起きた回数も少ないし、心拍も呼吸も落ち着いてたよ。少なくとも、ちゃんと休めてる」
以前のアカリなら、睡眠時間や健康リスクを細かく並べたかもしれない。
今日はそれだけだった。
「それなら、まあ……いいか」
布団へもう一度倒れそうになり、さすがに起きる。
11時過ぎの日差しは、出勤前の朝よりずっと明るかった。
◇
リビングへ降りると、美桜の姿はなかった。
テーブルにはラップをかけたトーストと、短いメモが置いてある。
『起きたら連絡して。生存確認ね』
妹からの扱いだけは、退職しても変わらないらしい。
スマホで「今起きた」と送る。
30秒もしないうちに返信が来た。
『やっと人間並みの睡眠時間になったね』
「今まで別の生物みたいに言うな」
「会社員時代の平均睡眠時間と比較すると――」
アカリが言いかける。
「今日は統計で比べるのやめろ」
「はーい」
素直に引き下がった。
冷めたトーストを焼き直しながら、ふと昨日のことを思い出す。
昨日まで、この時間は会社にいた。
会議か、資料確認か、何かしらの通知に追われていたはずだ。
今は、トースターの中でパンが焼ける音しかない。
それが妙に新鮮だった。
窓の外では、近所の家の前を配送ロボットがゆっくり通り過ぎていく。平日の昼前に自宅からそれを見るのは、どこか現実感がなかった。
この時間に家にいるのは、体調を崩した日か、休職していた時くらいだ。どちらも「休んでいる」というより、「会社へ戻るまでの途中」だった。
今日は違う。
明日になっても、来週になっても、会社を予定表に入れる必要はない。
食べ終わる頃、アカリがリビングの投影画面へ一枚のリストを出した。
「これ、覚えてる?」
『退職後にしたいこと』
ずっと前、会社を辞める未来を考えた時に作ったものだ。
内容は、当時のまま残っていた。
・朝まで眠る。
・美桜と夕食を食べる。
・平日の昼間に散歩する。
・水族館へもう一度行く。
・料理を覚える。
・両親の写真を整理する。
・アカリと話す時間を増やす。
大きな夢は、一つもない。
遠くへの旅行も、就職も、何かの資格取得することもない。
当時の俺が欲しかったのは、ずいぶん普通のことばかりだった。
アカリが最初の項目へチェックを入れる。
『✓ 朝まで眠る』
「こんなの達成扱いでいいのか?」
「やりたかったことなんだから、いいよ」
「寝ただけだぞ」
「悠真にとっては、寝るのも予定に入れないとできなかったでしょ?」
否定できなかった。
会社員だった頃の俺にとって、平日10時間近い睡眠は、旅行より実現可能性が低かったかもしれない。
そう考えると、一個目のチェックが少しだけ誇らしく見えた。
◇
食器を片づけて、ソファへ座った。
さて。
ここから何をすればいい。
スマホを見る。
仕事用チャットを開こうとして、指が止まった。
アプリは昨日削除した。
カレンダーを開く。
白い。
本当に、驚きの白さだ。
「予定表って、白くなるんだな」
「そりゃあ予定がなければね」
「マジで何もないな」
午後の欄にも、夕方の欄にも予定はない。
締切もない。
会議もない。
黒田課長からの依頼もない。
アカリが一瞬、何かを考える表情をした。
「じゃあ今日は、近所を散歩して、お昼は――」
そこで言葉を止める。
「どうした?」
「やめた」
「何を」
「予定を作るの」
アカリは少し笑った。
「会社を辞めた次の日から、私が悠真の予定を全部埋めたら、管理する人が会社から私に変わっただけでしょ?」
そう言われると、その通りだった。
アカリは俺の前に立つ。
「今日、何したい?」
少し考える。
散歩
買い物
映画
部屋の片づけ
どれも悪くない。
でも、今やりたいかと聞かれると違った。
「何もしない」
「オッケー」
アカリは即答した。
「じゃあ今日は、『何もしない』を全力でやろ!」
「全力でやると何かしそうだけどな」
「じゃあ適度に何もしない?」
「それで」
昼前から午後にかけて、俺は本当に何もしなかった。
テレビをつけて、途中で消した。
ソファでぼんやりして、冷蔵庫を開けて、特に欲しいものもなく閉じた。
何かを急かしてくる人は、誰もいない。
それだけで、時間の流れが昨日までとは違って見えた。
◇
午後2時を過ぎても、会社から連絡は来なかった。
当然だ。
もう俺は会社員ではない。
それでもスマホが静かなことに、少しだけ落ち着かない。
休職した時は、黒田課長から引き継ぎ資料の場所を聞かれた。
その後も、何度か会社から確認が来た。
今は何もない。
昨日の引き継ぎと、AIによる社内ナレッジ化がちゃんと機能しているのだろう。
俺がいなくても、会社は回っている。
「気になる?」
アカリが聞いた。
「何が?」
「会社から連絡来ないこと」
「……少しだけ」
口にすると、自分でも妙な気分になった。
辞めたかった会社なのに、完全に必要とされなくなると少しだけ寂しい。
アカリはからかわなかった。
「必要とされないのが寂しい?」
「そこまで大げさじゃないと思う」
考えてから言う。
「たぶん、習慣がなくなったのが変に感じるだけだ」
毎日嫌だったはずの通知音すら、なくなると静かすぎて落ち着かない。
でも、その静けさを今すぐ何かで埋める必要はない。
アカリも、それ以上は聞かなかった。
◇
午後4時過ぎ。
スマホにニュース通知が一件届いた。
『GOT-7研究支援モデル、改良版公開。前版から検証工程をさらに短縮』
「また?」
数日前、「最新」と書かれていたものの改良版らしい。
アカリが記事を確認する。
「悠真が一日休んでる間にも、向こうは何回か更新したみたい」
「俺は午前中寝てただけなのにな」
「世界は働き者だね〜」
その直後、神崎さんからも短いメッセージが届いた。
『共同調査の日程調整と、新しい研究更新を踏まえた確認事項について』
急ぎではない、と最後に書かれている。
少し前の俺なら、すぐ記事を読み、神崎さんへ返信し、何が変わったのか調べ始めていたかもしれない。
スマホの画面を数秒見る。
それから通知を閉じた。
「世界は勝手に速くなればいい。今日は休む」
アカリが目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「うん。今日はそれでいいと思う」
世界のどこかでは、昨日より速く研究が進んでいる。
新しいAIが次のAIを作る仕事を手伝い、昨日の最先端が今日には古くなる。
それでも、俺まで同じ速度で走る必要はない。
少なくとも今くらいは。
窓の外が少しずつ橙色になり始めた頃、アカリがもう一度あのリストを表示した。
七つの項目。
チェックが入っているのは一番上の一つだけ。
『✓ 朝まで眠る』
そのすぐ下。
『美桜と夕食を食べる』
「それ、今日できるな」
「できるね」
アカリが笑う。
「じゃあ、七時に三人で」
美桜はまだ学校から帰っていない。
夕飯の献立も決まっていない。
昔なら、それくらいのことは予定と呼ばなかったかもしれない。
でも俺の今日の予定は、七時に美桜と夕飯を食べることだった。
今の俺には、それだけで十分だった。




