第52話 退職
最終出勤日の朝、久しぶりに一番古いスーツを引っ張り出した。
入社した頃から着ている紺色のスーツ。
この会社へ通い始めた頃、終電の窓に映っていた俺も、たぶんこれを着ていた。
袖を通してみると、肩まわりが少し余った。
「……痩せたな」
鏡の前でつぶやくと、背後から美桜がのぞき込んだ。
「今さら気づいたの?」
「毎日自分の体見てると分からないんだよ」
「倒れるまで分からなかった人が言うと説得力あるね」
言い返せなかった。
美桜は俺の前に立つと、曲がっていたネクタイを直した。
「今日で最後なんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ、ちゃんとして行きなよ」
リビングの投影ドックからアカリも顔を出す。
「最後の日くらい、写真撮る?」
「出勤前のスーツ姿を?」
「うん。あとで『この頃は会社員でした』って見返せるよ」
「アルバムみたいに言うな」
「悠真の歴史ではあるでしょ?」
そう言われると、断りにくかった。
美桜にスマホを渡し、玄関で一枚だけ撮る。
写真の中の俺は、思っていたより普通だった。
会社を辞める人間にも、人生を変えた人間にも見えない。
ただ、いつものスーツを着た23歳の会社員だった。
◇
最後の日だからといって、いつもの光景が特別になるわけではない。
駅には人があふれ、電車は混み、ホームでは無人清掃機が人の足を避けながら床を磨いていた。
改札上の案内表示では、AIアバターが遅延情報を読み上げている。
数か月前には珍しかったものが、もう誰も気に留めない景色になっていた。
俺自身は今日で会社員を終えるが、周囲の人間は当然そんなことを知らない。
隣の男はスマホでニュースを読み、前に立つ女性はイヤホン越しにAIへ予定を確認している。
俺が一つの生活に区切りをつけても、東京の朝は何事もなかったように動き続けていた。
会社のビルが見えてくる。
何千回も見たわけではない。
それでも、朝になると自動的に足が向く程度には身体に染みついている。
社員証をかざしてゲートを通る。
いつもの電子音。
この音を聞くのも、たぶん今日が最後だ。
「おはようございます」
フロアに入ると、同僚がいつも通り挨拶してきた。
「おはようございます」
最終日だからといって、特別な声かけや出迎えがあるわけでもなかった。
でも、それでよかった。最後の日だからといって、周囲の人間を巻き込む必要はない。
いつも通りの朝が始まり、いつも通りに仕事が終わる。その中で、自分だけがこの場所を離れる。
それくらいの方が、俺には合っていた。
◇
午前中、人事との最終確認の前に黒田課長と面談した。
会議室に入ると、黒田課長は俺の退職申請を画面に出していた。
「気持ちは変わってないんだな」
「はい」
「そうか」
以前なら、もう少し強く言われると思っていた。
人が足りない。
今抜けられると困る。
せめてこの案件が終わるまで。
そういう言葉が出るのをどこかで警戒していた。
けれど黒田課長は、机の上で指を組んだまま続けた。
「会社としては、休職を延ばす選択肢もある。AI導入チームも、早瀬が続けたいなら配置は考えられる」
「ありがとうございます」
「ただ、無理に止めるつもりはない」
少しだけ意外だった。
黒田課長が急に良い上司になったわけではない。
無茶な納期を押しつけられたことも、仕事を追加されたことも、倒れるまで一人に負担を背負わせる体制が続いていたことも消えない。
俺自身、それをなかったことにする気はなかった。
「次は決まってるのか?」
「決まってません」
黒田課長の眉がわずかに動いた。
「転職先なしで辞めるのか」
「はい。しばらく考えるつもりです」
「俺には、その方が怖いな」
思わず顔を見る。
黒田課長は苦笑した。
「次が決まってない状態の方が怖い。会社にいれば、とりあえず明日やることはあるからな」
その言葉は、俺に向けた説教というより、自分へ言っているようにも聞こえた。
「最近は管理職の仕事も変わってきた。AIで報告も割り振りも自動化される。上からは『管理職は何を管理するんだ』って話まで出てる」
黒田課長がそんなことを口にするとは思わなかった。
「まあ、俺はまだ辞める度胸はないけどな」
笑いながらそう言う。
俺は、黒田課長を許したわけではない。
けれど、この人も変わり続ける仕事の中で働いている一人なのだと、初めて少しだけ思った。
「早瀬」
面談の最後に、黒田課長が言った。
「倒れる前に、もっと早く話を聞くべきだった。それは悪かった」
短い言葉だった。
何と返せば正しいのか分からず、俺は少し間を置いた。
「……はい」
それだけ答えた。
謝罪一つで全部が帳消しになるわけではない。
でも、最後の日にその言葉が聞けただけで十分だった。
◇
昼休みは佐伯さんと社員食堂で食べた。
俺の退職を知った佐伯さんは、いつもと同じように定食のスープを飲みながら言った。
「ほんとに辞めるんだね」
「申請は通りましたので」
「明日から無職?」
「厳しい言い方ですね」
「事実でしょ?」
少し笑う。
こういう普通の会話も、明日からは会社ではできない。
「佐伯さんは残るんですよね」
「うん。まだここで何が変わるか見たい」
昨日も聞いた答えだった。
「AIが入って、仕事が変わって、今度はAI自体が毎日更新されてる。正直、何が残るのか気になる」
「怖くないですか?」
「怖いよ」
佐伯さんはあっさり認めた。
「でも、今のところは見てたい。まあ、見届ける前に仕事の方が消えるかもしれないけど」
冗談っぽく笑う。
俺も笑った。
ただ、その言葉が完全な冗談ではないことは、二人とも分かっていた。
辞める俺と、残る佐伯さん。
どちらが正しいわけでもない。
俺は自分の時間を過ごすことを選んだ。
佐伯さんは、ここで変化を見届ける時間を選んだ。
ただそれだけだった。
「何かあったら連絡しますね」
「仕事の質問以外ならね」
「ありがとうございます」
◇
午後は机の片付けと引き継ぎだった。
引き出しを開けると、机に入れて忘れていたものがいくつも出てきた。
AI導入前に使っていた紙の手順書。
赤字だらけの古い会議資料。
取引先の数字を手作業で照合していた頃のチェック表。
そして、一枚のコンビニのレシート。
深夜1時過ぎに買ったエナジードリンクと、おにぎり一個。
あの頃の俺なら、これを夕食と呼んでいた。
「よくこれで生きてたな……」
イヤホンからアカリの声がする。
「そこは笑えないよ」
アカリが続ける。
「そのレシート、持って帰る?」
「いらないだろ」
「戒めになるかも」
「持って帰んなくても忘れないだろ」
そのままレシートは捨てた。
その後の引き継ぎは、驚くほど早く終わった。
以前なら、俺しか分からない作業がいくつもあった。
どのファイルを見るか。
誰に確認するか。
例外が起きた時に、どの順番で処理するか。
今は業務AIが過去の手順を整理し、社内ナレッジにまとめている。
担当者が質問を入力すれば、関連資料と過去の対応例まで表示される。
俺が追加したのは、AIでは判断しにくい例外と、担当者ごとの注意点くらいだった。
「以上です」
引き継ぎ相手が画面を確認する。
「分からないところがあったら……」
そこまで言って、俺は止まった。
明日から俺はいない。
けれど相手は普通に答えた。
「まずナレッジとAIで確認します。それでも分からなければ課内で共有します」
「はい。そうしてください」
それで済んだ。
以前の俺は、自分がいなければ仕事が回らないと思っていた。
その思い込みが、帰れない理由にもなっていた。
でも実際には、俺抜きでも会社は回る。
人が辞めれば、別の人が引き継ぐ。
仕組みが変われば、知識も共有される。
少し寂しい気持ちもあった。
でも、それでいい。
会社が俺なしで回ることと、俺に価値があったかどうかは別の話だ。
◇
午後5時前。
人事担当者へ社員証と貸与端末を返した。
「こちらで返却物は以上です。お疲れさまでした」
机の上に社員証を置く。
毎朝、何も考えず首から下げていたカード。
それを手放した瞬間、急に退職することの実感が湧いた。
明日から、この入館ゲートを通ることはない。
俺はもう、この会社の社員ではない。
部署に戻ると、何人かが短く声をかけてくれた。
「お疲れさまでした」
「身体、大事にしてください」
「また飲みに行きましょう」
大げさな送別会は断っていた。
今は、このくらいがちょうどいい。
佐伯さんが最後に手を振る。
「じゃあね、早瀬くん」
「はい。佐伯さんも無理しないでください」
「それ、過労で倒れた人に言われると効くなあ」
少し笑って、俺は頭を下げた。
エレベーターで一階へ降りて、自動ドアが開く。
外はまだ明るかった。
夕方の空に雲が薄く伸び、帰宅する人たちが歩道を行き交っていた。
俺は振り返った。
何度も「辞めたい」と思いながら入ったビル。
倒れるまで仕事をした場所。
それでも、ここで覚えたことも、出会った人もいる。
これまでの仕事の日々を振り返りながら、俺は家へ向かった。
◇
家に帰ると、美桜がいつも通り玄関から顔を出した。
「おかえり、お兄ちゃん」
「ただいま」
リビングではアカリも笑っていた。
「おかえり、元会社員さん」
「肩書きで呼ぶのやめなよ」
美桜に即座に止められる。
「じゃあ無職の悠真?」
「悪化してるだろ」
アカリが楽しそうに笑った。
夕食を食べ、風呂に入り、いつものように寝る準備をする。
ベッドへ入ったところで、スマホを手に取った。
平日6時20分に設定していた毎朝のアラーム。
指を伸ばしかけて、止まる。
会社へ行く必要もないし、明日の予定はない。
アラーム設定をオフにする。
その瞬間、アカリが画面の隅に小さなリストを表示した。
『退職後にしたいこと』の一番上。
『朝まで眠る』
「覚えてたのか」
「もちろん!」
「じゃあ、明日の予定はそれで」
「りょーかい。ゆっくり起きてね」
俺はスマホを伏せた。
平日の朝を、何時に起きてもいい日が初めて訪れた。




