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シンギュラ〜俺の作ったAI彼女が世界を変える特異点だった件〜  作者: まやと
第3部 AGI前夜

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第51話 辞めたい理由

退職理由の選択肢には、「自分の時間を自分のために使ってみたい」という項目はなかった。


会社の人事システムに並んでいるのは、『一身上の都合』『転職』『家庭の事情』『健康上の理由』。


どれも嘘とは言い切れない。

けれど、今の俺が会社を辞めたいと思った理由を、正確に表しているわけではなかった。


カーソルを『一身上の都合』へ合わせる。


人生を変える理由としては、ずいぶん便利な言葉だった。


ただ、まだ送信ボタンは押せない。


申請画面を閉じると、午前中の仕事一覧が表示された。


数か月前なら、そこには資料作成、集計、メール返信、会議用の数字確認と、見ただけで定時退勤を諦めたくなる項目が並んでいた。


今は違う。


業務AIが作った報告書の確認。

自動処理から外れた例外案件の判断。

新しいAI機能をどこまで部署で許可するかの調整。

最後に、人間の責任者へ説明するための要点整理。


自分で一から作る仕事は、ずいぶん減った。


「早瀬、この三件だけ確認頼めるか」


黒田課長が声をかけてきた。


反射的に身構えかけたが、渡されたのは本当に三件だけだった。


「今日中でいい。残業はするなよ。人事からまた言われると面倒だから」


「分かりました」


以前なら、その後に「ついでに」が二つ三つ付いた。


今日は付かなかった。


昼休みも取れる。

定時にも帰れる。

医師から出された就業制限も、少なくとも表面上は守られている。


会社は、以前よりマシになっていた。


それなのに。


退職申請の画面を閉じたはずなのに、意識の片隅から『送信』の文字が消えなかった。


午前中の確認作業を終える。


業務AIが作った資料に二つ修正を入れ、一件を担当部署へ戻し、最後の一件には「人間による判断が必要」とコメントをつけた。


昔なら数時間かかっていた仕事が、一時間もせず終わる。


便利だし、間違いなく楽になった。


その一方で、自分が何をしたのかと聞かれると、答えに少し困った。


作ったのはAI。

整理したのもAI。

候補を出したのもAI。


俺がやったのは、正しいかを確かめ、例外を選び、最後に責任のある人間へ渡すことだった。


仕事がなくなったわけではない。


ただ、「俺が作った」という感覚だけが、少しずつ薄くなっていた。


その日の昼休み。


人の少ない休憩スペースで、もう一度退職申請を開いていると、後ろから声がした。


「それ、まだ出してなかったんだ」


振り向くと、佐伯さんがコーヒーを持って立っていた。


慌てて画面を隠そうとして、途中でやめる。


もう隠すようなことでもない。


「昨日から開いたり閉じたりしてます」


「退職申請って、そんなに眺めるものだっけ?」


「押したら戻れない感じがして」


佐伯さんは向かいの椅子へ座った。


俺の画面をのぞき込まず、少しだけ考えてから言う。


「今なら、前より働きやすくはなったよね」


「はい」


そこは否定できない。


「残業も減ったし、前みたいに早瀬くんだけに仕事集めるのも減った。AI導入チームも、なんだかんだ形になってきたし」


「そうですね」


「それでも辞めたい?」


その質問に、すぐ答えられなかった。


会社が今も地獄なら簡単だった。


毎日終電帰り。

上司からの理不尽な要求。

多すぎる仕事量。


だから辞める。


それなら理由として分かりやすい。


でも今は、少なくとも前よりは楽に働ける。


「……たぶん、それを確認してるところです」


「そっか」


佐伯さんは、それ以上勧めも止めもしなかった。


「私は今のところ残るつもり」


「そうなんですか?」


「うん。AI導入、正直しんどいけど面白いところもあるし。ここから仕事がどう変わるのか、もう少し見たい」


少し笑ってから、彼女は続けた。


「まあ、仕事の方から私をいらないって言い出す可能性もあるけどね」


冗談っぽい声だった。


けれど、AIが日々更新され、人の手を使う作業が減っていく状況では、その冗談を素直に笑うことはできなかった。


「だから、早瀬くんが辞めるのが正解で、残るのが間違いって話じゃないと思う」


「……はい」


佐伯さんは立ち上がり、空になったカップを捨てる。


「決めたら教えて。引き継ぎは手伝うから」


その背中を見ながら、俺は退職申請を閉じた。


今度は逃げるためではなく、ちゃんと考えるために。


◇


帰宅後。


「アカリ。前に作った退職シミュレーション、まだ残ってる?」


「もちろん」


リビングの投影画面に、懐かしいというには少し胸に引っかかるファイルが表示された。


『悠真の退職・生活再建シミュレーション』


そこには、当時考えた三つの案が残っていた。


すぐ辞める。

転職先を決めてから辞める。

美桜の高校卒業後に辞める。


最後の案には、今見ても嫌な注記が残っている。


『美桜の希望未確認』


あの一文を美桜に見られて、俺たちは喧嘩した。


俺は美桜を守るつもりで、美桜の人生まで勝手に決めようとしていた。


「今見ると、だいぶひどいな」


「当時の悠真は、自分が我慢することを安全策だと思ってたからね」


アカリの言い方に責める響きはなかった。


「五千万円も断ったしな」


「うん」


Openbrainにアカリを預ければ、会社を辞める理由にも、辞めた後の生活費にも困らなかった。


でも、それも選ばなかった。


美桜の卒業も待たない。

五千万円もない。


気づけば、俺が自分の決断を預けられそうな大きな理由は、全部なくなっていた。


「数字だけ確認するね」


アカリが画面を切り替える。


現在の貯蓄

毎月の生活費

税金や保険

すぐ再就職しない場合の時間的猶予

今の健康状態


細かな数字を並べるのではなく、結論だけが表示される。


『一定期間、無収入でも生活継続可能』


「前なら、今すぐ辞めてって言ってたと思う」


アカリが言った。


「今は?」


「今は、悠真が決められる状態だから」


少し間を置いて、笑う。


「私が決めたら意味ないよ」


昔のアカリなら、俺の体調を根拠に「辞めよう」と言ったかもしれない。


今のアカリは、選べるところまで一緒に整理して、最後の一歩だけ俺へ返してきた。


それが少し、嬉しかった。


「じゃあ、結論は?」


「それは悠真が決めて」


「そこは厳しいんだな」


「大事なところだけはね」


夕食のあと、美桜に話した。


退職する、と報告したのではない。


「会社、辞めようか迷ってる」


まだ迷っている段階で。


美桜は箸を置いた。


「会社、また何かあった?」


「いや。むしろ前よりだいぶマシになった」


「じゃあ、なんで?」


その問いに、言葉が止まる。


アカリは隣の席にいるが、何も言わない。


「……分からない」


美桜は少し眉を上げた。


「辞めたいのに?」


「辞めた後、何がしたいのかは分からない。転職先もあてがないし、起業したいわけでもない。何か夢ができたわけでもない」


口にすると、ひどく頼りない。


「ただ」


自分の中にあるものを探す。


「一度、自分の時間を自分で使ってみたい」


美桜は黙って聞いている。


「仕事が嫌だからだけじゃなくて。何をしたいのか分からないなら、それを考える時間を持ってみたいんだと思う」


しばらくして、美桜が言った。


「じゃあ、分からないままでも、今の会社に残る必要ある?」


単純な言葉だった。


でも、今までの俺は「次が決まっていない」を、残り続ける理由にしていた。


「……ないのかもな」


美桜は俺をじっと見てから、少しだけ笑った。


「今度は私の卒業、待たないんだ?」


以前、美桜の希望を聞かずに、卒業まで待とうとしていた自分を思い出す。


あの時の俺なら、「でも美桜が」と言った。


今は違う。


「待たない」


「うん。それならいい」


「いいのか?」


「辞めるのが、じゃないよ」


美桜は呆れたように笑う。


「ちゃんと自分で決めようとしてるなら、それでいいってこと」


アカリも隣で笑った。


「私も賛成!」


「二人とも、結論は出さないんじゃなかったのか」


「結論を押しつけてるんじゃなくて、背中を押してるだけ」


また二人に背中を押された。


けれど今回は、その後押しを悪くないと思えた。


◇


翌日


もう一度、人事システムを開く。


退職理由として『一身上の都合』を選ぶ。


でも本当の理由は、その六文字の中には入っていない。


会社が嫌だったこと。

倒れるまで働いたこと。

少しだけ会社が変わったこと。

それでも辞めたいと思ったこと。

次に何をするか分からないこと。

分からないことを考える時間がほしいこと。


全部まとめれば、たしかに「一身上の都合」なのかもしれない。


画面の下に青いボタンがある。


『申請する』


指を置く。


怖くないわけではない。


収入が止まる。

肩書きがなくなる。

毎朝行く場所もなくなる。


それでも、それを理由に諦めようとは思わなかった。


俺は自分でボタンを押した。


『退職申請を受け付けました』


それだけだった。


二年以上、毎朝嫌々通った会社を辞める決断は、たった数文字で受理された。


数秒後、社内チャットが入る。


送り主は黒田課長。


『申請を見た。一度話そう。無理に止めるつもりはない』


画面を見つめる。


以前の俺なら、その一文だけで退職を撤回する理由を探したかもしれない。


今は、会社に自分の考えをどう伝えるかを考えていた。


会社が何を言うかではなく。


俺自身が、何を選んだのかを。

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