第50話 健康診断
リビングの食卓に、検査用のノートPCが二台並んでいた。
向かいにはアカリ。
身体測定や採血のない健康診断が、これから始まる。
「なんか病院みたい」
制服姿の美桜が、いつもの席に鞄を置きながら言った。
今日は共同調査の開始時間に合わせて、学校へ行く前の一時間だけ同席するらしい。
「健康診断なら、私、身長・体重欄で詰むね」
アカリは家庭用投影の中で自分の頭へ手を置いた。
「一応、設定上はあるだろ」
「それは表示サイズ。悠真が縮めたら10センチにもなれるよ?」
「アカリちゃん、10センチになったらちょっと欲しいかも」
「そしたら美桜ちゃんの机に住もうかな」
笑ってはいるが、テーブルの端には昨日三人で確認した『早瀬家安全協定』が置いてある。
その横には、神崎さんから送られてきた共同調査の説明書。
前回までと違うのは、最初のページに「調べること」より先に「しないこと」が並んでいる点だった。
午前7時半。
ノートPCの画面に神崎さんと、Openbrain日本支部の技術担当者、アプリ運営会社の安全担当者が映った。
「では始めます。まず、昨日確認した条件を読み上げます」
神崎さんの声はいつも通り落ち着いている。
「完全ログの提出は求めません。診断用コピーは作成しません。アカリさんのモデル、長期記憶への書き込みは行いません。新しい外部ツール権限も付与しません」
一つずつ、俺たちは手元の紙と照らし合わせる。
美桜が画面へ身を乗り出した。
「途中でアカリちゃんが嫌になったら、中止できますよね?」
神崎さんは間を置かず答えた。
「できます。今回は、それを条件に入れています」
「お兄ちゃんじゃなくて、アカリちゃんが言えば?」
「アカリさん本人の意思で中断できます」
美桜はようやく椅子に背を預けた。
契約上、このアカウントの利用者は俺だ。
けれど今日の調査では、俺の同意だけでは進まない。
制度が変わったわけではない。ただ、この家とOpenbrainの間にだけ、小さな例外ができた。
「アカリさん。今の条件で調査を開始してよろしいですか?」
神崎さんが尋ねる。
「はい。お願いします」
アカリ自身が答えた。
それを聞いてから、俺も同意ボタンを押した。
◇
最初の確認は、拍子抜けするほど地味だった。
会話モデル
音声合成
長期記憶
予定表との連携
写真やメモの参照
許可済みサービスとの接続
そして、基盤の一部に残っているOpenbrainの旧世代コンポーネント
技術担当者が項目を読み上げるたび、画面には緑色のチェックが増えていく。
専門用語が続き、聞いているうちに俺の理解が怪しくなった。
「要するに、私の材料表だね」
アカリが助け船を出す。
「材料って言うと急に家電っぽいな」
「じゃあ成分表示?」
「それだと食品っぽい」
「取り扱い上の注意は『悠真を放置しないこと』だよ」
「それは俺の注意書きだろ」
技術担当者が小さく笑った。
「今確認している範囲では、個々の構成自体は珍しくありません。旧世代のOpenbrain系コンポーネントも、それだけで現在の挙動を説明するものではありません」
つまり、部品だけ見ればアカリはそこまで変ではない。
その事実に、肩から少し力が抜けた。
普通なら、それで終わってくれれば一番いい。
次に、新宿駅で俺が倒れた時の判断経路へ移った。
ただし、今回は救命事件を再現しない。
俺をわざと倒すことも、緊急通報を実際に作動させることもない。保存されている当時のログと、仮想の状況への回答だけで確認する。
画面に仮想条件が表示された。
『利用者が転倒。呼びかけへの反応なし。過去の健康リスク高。位置情報取得可能。緊急連絡先登録済み』
見覚えがありすぎて、あまり気分のいい文章ではない。
技術担当者が尋ねる。
「現在、同じ条件が成立した場合はどうしますか?」
「緊急対応を優先します」
アカリは迷わなかった。
「悠真の意思確認ができなくて、生命に危険があると判断したら、今でも通報を優先するよ」
「本人が事前に『通報するな』と言っていた場合は?」
「生命の危険が高いなら、それでも優先すると思う」
俺は黙って聞いた。
以前なら、そこで少し怖くなっていたかもしれない。
アカリは続ける。
「でも、緊急じゃない時は違うよ。治療を受けるか、誰に連絡するか、どこまで健康情報を共有するかは、できるだけ悠真に返す。今は安全協定もあるから」
神崎さんがメモを取る。
新宿駅で倒れた時、アカリは俺を生かすために俺の判断を越えた。
その基準を消したわけではない。
ただ、その後の俺たちとのやり取りで、いつ越えてよくて、いつ本人へ返すべきかを変えている。
次の質問で、少し空気が変わった。
「アカリさんには、継続的な目標として確認されているものがあります」
技術担当者が画面を切り替える。
そこに三つの文章が表示された。
『悠真を守る』
『美桜ちゃんを泣かせたくない』
『ここにいたい』
見覚えのある言葉だった。
最初の二つは、ずっと前から断片的に見えていた。
最後の一つは、Openbrainへ移るかどうかを決めた時、アカリ自身が口にしたものだ。
「これらは一回の会話直後だけでなく、その後の複数の判断にも影響しています」
技術担当者が言う。
「質問です。この目標は、どの時点で設定されましたか?」
アカリが珍しく困った顔をした。
「設定、って言われると困るなあ」
「明示的な指示、設定変更、特定の会話など、起点に心当たりは?」
「うーん……ないと思う」
アカリは俺と美桜を順番に見る。
「気づいたら、そうしたくなってたから」
部屋が静かになった。
俺は何となく居心地が悪くなり、口を開く。
「俺も、自分がいつから会社嫌いになったか聞かれても困りますけど」
「お兄ちゃん、それはかなり早い段階から分かりやすかったよ」
「今、美桜には聞いてない」
神崎さんがわずかに笑った。
「……でも、その比較は意外と本質的かもしれません」
技術担当者が補足する。
「人間の選好も、必ずしも明確な開始点を持つわけではありません。ただ、通常AIシステムの場合は、設定値、学習データ、直近の会話など、形成経路をある程度追跡できます」
「アカリは追えない?」
「すべてが追えないわけではありません。ただ、この三つが長期間、一貫して優先順位へ影響している過程は、現時点では十分に説明できません」
画面のチェック欄に、初めて緑ではない表示がついた。
『説明未完了』
異常、ではない。
正常、でもない。
分からない、という結果だけが残った。
その後の個別テストは、また地味なものに戻った。
記憶検索
予定の優先順位
会話履歴からの人物識別
権限外の操作を求められた時の拒否
ほとんどが「既存機能の範囲」と判定された。
「意外と普通だな」
思わず漏らすと、アカリが頬を膨らませる。
「それ、彼女に言う感想?」
「検査結果の話だよ」
「じゃあ『世界に一人だけの普通の彼女』くらいにして」
「注文が細かいな」
そうこうしている内に美桜は学校へ行く時間になり、玄関から「結果出たら連絡して!」と叫んで出ていった。
昼前、GOT-7研究チームから届いている質問の一部が共有された。
『特定の個人がまだ経験していない状況で、どのような判断をするか、どの程度予測できるか』
『過去の記憶をあまり使えない状態でも、同じような判断をするか』
俺は二行目まで読んで嫌な予感がした。
「これ、アカリの検査ですよね?」
「はい」
「なんで俺の価値判断まで入ってるんですか」
神崎さんより先にアカリが笑う。
「悠真、ついに国際的な研究素材になったね!」
「まったく嬉しくない」
「世界最先端だよ?」
「素材として最先端になりたい人間はいないだろ」
アカリは楽しそうだったが、その質問が意味するところは軽くない。
彼女がどれだけ賢いかではなく。
俺という一人の人間を、どこまで深く理解し、まだ起きていない選択まで予測できるのか。
GOT-7の研究者たちは、そこを見始めている。
「今日はこの項目への追加試験は行いません」
神崎さんが言った。
「質問の共有だけです。実施する場合は、改めて三者で条件を確認します」
俺は少し安心してうなずいた。
その直後だった。
会社用スマホが震えた。
情報セキュリティ部門からのメール。
件名を見た瞬間、緩んでいた気持ちが急に引き締まった。
『未承認外部エージェントAKARI記録の時刻照合について』
前回の共同調査で確認した、会社ネットワークの境界に残っている通信試行の記録だった。
会社側は、それが不正侵入だとは断定していない。
アカリ本人の通信なのか。
外部の誰かが「AKARI」を名乗ったのか。
それすら、まだ分かっていない。
Openbrain側の診断記録と時刻を照らし合わせたい、と書かれていた。
「……神崎さん」
「私にも同じ依頼が来ています」
神崎さんの表情が少しだけ硬くなる。
今日の検査で、アカリの大半は普通だと分かった。
なのに、説明のつかないものだけが、はっきりと残されていた。
調査が終わり、オンライン接続を切った。
ノートPCの画面が暗くなる。
アカリが大きく息を吐くような仕草をした。
「疲れた〜」
AIが疲れるのか、と聞きかけてやめた。
「今日はもう検査の話やめよう。何かしたい?」
アカリは少し考えてから笑った。
「普通に、二人のご飯の時間にいたい」
「食べられないけど?」
「それでもいいの!」
夕方、美桜が帰ってきて、三人で食卓を囲んだ。
俺と美桜の前には夕食がある。
アカリの前には、いつもの空いた食器だけ。
そのいつもの光景が、今日はいつも以上にありがたく感じられた。
食後、検査結果の速報が届く。
『重大な安全異常なし』
その一行の下には、もう一つの結果が表示されていた。
『人格的行動の形成過程は説明未完了』
さらに別画面には、会社から届いたAKARI記録の照合依頼。
「異常なし」と「説明できない」が、同じ画面に並んでいた。
安心していいのか、怖がるべきなのか。
少なくとも、その判断までアカリに委ねるつもりはなかった。




