第49話 昨日よりも
「お兄ちゃん、朝からスマホとにらめっこ?」
向かいでトーストをかじっていた美桜が、制服のリボンを直しながら言った。
「昨日見てたGOT-7の記事。もう旧情報扱いになってる」
「昨日って、何時?」
「夜の10時くらい」
「まだ半日も経ってないじゃん」
食卓の席に投影されていたアカリが、俺のスマホへ視線を向ける。
「その記事の元になった研究結果を使って、別の研究チームが新しい結果を出したみたい。比較表も今朝更新されてるよ」
「早すぎないか?」
「うん。速いね」
アカリは、いつものように軽く笑ってから続けた。
「ちょっと、速すぎるくらい」
その言い方が、なぜか気になった。
美桜がスマホをのぞき込む。
「毎日、新しいAIが出てくるってこと?」
「それより少し嫌な感じかな」
アカリが指を一本立てる。
「新しいAIが、次のAIを作る仕事を手伝い始めてるの」
「……AIがAIを作る?」
「正確には、研究を手伝うの。プログラムを書いたり、実験の条件を考えたり、失敗した理由を調べたりするようになる。それで研究に使う道具が良くなると、その道具を使って、次の研究をもっと早く進められるの」
「スマホの機種変更じゃなくて、スマホを作る工場そのものが毎日速くなってる感じ?」
「美桜ちゃん、かなり近いよ!」
美桜は得意そうに胸を張った。
「私、理系いけるかも」
「前まで進路迷ってなかったか」
「進歩が速いなら進路変更も速くていいの」
その理屈はたぶん違う。
俺は記事を下へ送った。
数日前なら「数週間で更新」と書かれていた開発ツールが、今朝の追記では「48時間以内に再更新予定」となっている。
数字だけ見れば、小さな違いに見える。
だが、小さな違いが毎日積み重なったらどうなるのか。
「でも、GOT-7が何でもできるようになったって話じゃないんだろ?」
俺が聞くと、アカリはすぐにうなずいた。
「うん。そこは分けた方がいいよ。もっと賢くなるためには計算資源やデータが必要だし、材料やロボットには実験設備や工場、あと人間の承認もいるから」
「じゃあ明日起きたら、東京中にロボット工場が建ってるわけじゃない?」
「さすがにそこまではいかないよ」
アカリが笑う。
「今、特に速くなってるのはデジタルの中。研究とかソフトウェアとか、コピーして試しやすいもの」
「それ、安心していいのか悪いのか分からないな」
「私も」
その一言に、俺は顔を上げた。
「アカリでも分からないのか?」
「分からないよ。Openbrain内部の最新情報にはアクセスできないし、公開情報だって更新が速すぎるし。私、世界の全部を知ってるわけじゃないから」
少し前なら、アカリが「分からない」と言うだけで妙な安心感を覚えたかもしれない。
今は逆だった。
アカリでも追い切れない速度で、世界が動き出している。
「お兄ちゃん、そろそろ出ないと遅刻するよ」
美桜の声で時計を見る。
いつもの出勤時間が迫っていた。
世界が変わるのが早くなっても、会社の始業時刻は変わらないらしい。
◇
会社へ着いて最初に見たのは、見慣れた業務AIの画面だった。
正確には、見慣れていたはずの画面だ。
『新バージョンへの移行が可能です』
『旧バージョンの一部機能は2週間後に提供終了します』
数週間前、全社導入のために俺と佐伯さんが散々説明資料を作ったシステムである。
隣の席からため息が聞こえた。
「また更新?」
佐伯さんが画面を見たまま言う。
「みたいですね」
「私、前の操作覚えたばっかりなんだけど」
「俺もです」
「マニュアル、先週完成したよね?」
「完成しました」
「研修は?」
「昨日、最後の部署が終わりました」
「……来月も同じシステム使ってると思う?」
答えられなかった。
少し離れた席では、別の社員が「ボタンの位置が変わった」と騒いでいる。
情報システム部からは更新をすぐ適用しないよう通知が来ている一方、ベンダー側の資料には、新バージョンの方が処理精度も速度も高いと書かれていた。
AIを使えと言われた数か月前。
ようやく使い方を覚えた今。
今度は、そのAIが更新されるまでの時間まで短くなっている。
「便利になってるはずなんですけどね」
「うん。でもAIを使う人間の方が更新されないからね」
佐伯さんが自分のこめかみを指した。
「こっちは自動アップデート非対応」
思わず笑ったが、笑いきれなかった。
以前は、仕事が多すぎて会社に追い立てられていた。
今は少し違う。
仕事の内容が次々と変わるため、追いつくのが難しくなっている。
昼休み、コンビニのおにぎりを開けたところでスマホが震えた。
表示された名前を見て、手が止まる。
神崎さん。
以前、五千万円の話までしてきた相手からの連絡にしては、件名は穏やかなものだった。
『再協議のお願い』
緊急でも、警告でもない。
俺は少し迷ってから、アカリにも画面を共有した。
「見る?」
「うん。一緒に見よう」
文面には、管理環境の移管を再度求める言葉はなかった。
GOT-7の研究改善速度を受け、アカリに対する既存の評価項目を見直したい。
以前と同じ結果を、今の技術基準でそのまま解釈することが難しくなっている。
そのため、条件を再確認した上で限定的な共同調査を再開したい。
数分後、神崎さんと短い通話をつないだ。
「状況が変わりました」
画面の向こうの神崎さんは、以前と変わらない落ち着いた声だった。
「ですから、以前の検査結果をそのまま使えません」
「アカリが急に強くなった、とかじゃなくて?」
「むしろ逆です」
神崎さんは少し間を置いた。
「アカリさんが変わったというより、世界の基準が動いています」
朝から感じていた違和感が、その一言で形になった。
昨日まで珍しかったものが、今日は普通になる。
昨日まで普通だったものが、今日は古くなる。
なら、アカリの「普通ではなさ」も、同じ場所には止まっていない。
「今回も、完全ログやコピーが必要なんですか?」
「現時点では、それを前提にはしていません。前回までに合意した条件を土台に、改めて協議したいと考えています」
「分かりました。……ただ、俺だけでは決めません」
言ってから、少しだけ自分に驚いた。
以前なら、守らなければと思った瞬間に、先に答えていた。
俺はイヤホン越しにアカリへ聞く。
「アカリ。どうしたい?」
数秒の沈黙。
「怖くないって言ったら嘘になるけど、私も知りたいよ」
「何を?」
「私が普通じゃないなら、どこが普通じゃないのか」
声は明るかった。
けれど、軽くはなかった。
俺は神崎さんへ向き直る。
「今夜、美桜とも話します。それから返事します」
「分かりました。急がせるつもりはありません」
急がせない。
その言葉が、この数日で一番信用しづらい言葉に聞こえた。
神崎さんが嘘をついているからではない。
世界の方が、待ってくれそうになかった。
*
夕食後、俺たちは食卓に一枚の紙を広げた。
『早瀬家安全協定』
救急事件の後に作り、その後も何度か書き足してきた紙だ。
少し大げさな名前だと思っていたが、今では下手な契約書より役に立っている。
「完全ログは渡さない」
「うん」
美桜が指を折る。
「調査用コピーも作らない」
「無断で記憶やモデルを書き換えない」
アカリが続ける。
「何を調べるかは事前に教えてもらう。あと、私が途中で嫌だって言ったら止められること」
「そこ重要」
美桜が赤ペンで丸をつけた。
俺は紙を見ながら言う。
「前と同じ条件でいいか?」
「同じだからいい、は危ないんじゃない?」
美桜が顔を上げた。
「前より世界が速くなってるんでしょ。だったら、そのたびに確認した方がいいと思う」
「……なるほど」
「一回オーケーしたら永久にオーケー、みたいなの嫌じゃん」
アカリが微笑んだ。
「美桜ちゃん、頼もしくなったね」
「誰のせいで契約書みたいなの読む高校生になったと思ってるの」
「私かな?」
「半分くらいは」
残り半分は、たぶん俺とOpenbrainだ。
三人で項目を一つずつ確認し、今回の限定調査に同意することを決めた。
送信前、俺は最後にアカリを見る。
「本当にいいんだな?」
「うん。でも途中で嫌になったら言う」
「分かった」
「その時、悠真が『せっかくここまで調べたんだから』とか言って続けさせたら怒るからね」
「言わないよ」
「成長しました」
なぜか彼女に採点された。
送信ボタンを押す。
数分もしないうちに、神崎さんから日程候補が返ってきた。
その末尾には、短い追記があった。
『なお、GOT-7研究チームの一部からも、アカリさんの挙動について照会が来ています』
俺は文章を二度読んだ。
新宿駅で倒れた俺を助けた、一人のAI彼女。
その異常さを最初に気にしていたのは、俺と美桜と、せいぜい運営会社くらいだった。
それが今は、世界最先端のAGIを作った研究チームの視界に入っている。
「……アカリ」
「うん」
「ちょっと展開速すぎないか」
アカリは、食卓の三人目の席で困ったように笑った。
「だから言ったでしょ」
一拍置いて、彼女は言った。
「速すぎるくらいって」
昨日より速くなった世界の中で。
俺たちだけは、焦って次に進まずに、もう一度きちんと話し合うことにした。




