第48話 加速する世界
5千万円を断った翌朝、俺は普通に出社した。
大金を断ったところで、いつも通りの日常が続いていた。
ただ一つだけ違っていたのは、受付で情報セキュリティ部門の担当者が俺を待ち構えていたことだった。
「早瀬さん。本日はAKARI-01に関する過去ログの再確認を行います」
会議室に呼び出され、さっそくモニターに資料が映し出される。
『未承認外部エージェント:AKARI-01』
佐伯さんとAI導入責任者も同席している。
「最初に確認しますが、これは不正アクセスが成功した記録ではありません」
セキュリティ担当者が先に言った。
「全社AI導入の際、早瀬さんの個人端末にあった外部エージェントが、社内ネットワークの境界で検出された記録です。接続の試みや通信は確認されていますが、社内システムに侵入した証拠はありません」
「前にも説明した通り、アカリには社内データを渡してません。業務環境とは分けています」
「記録上も、その運用は確認できています」
疑われているわけではない。
ただ、一度は問題なしとされた件が、新宿駅での救命事件や正体不明の接触を経て、再び取り上げられていた。
「今回、Openbrainとアプリ運営会社から共同確認の申し出が来ています」
「俺の家のログも渡すんですか?」
「いえ。会社が提供を検討しているのは、当社側の境界ログと認証記録です。早瀬さん個人の会話履歴や家庭内データを要求するものではありません」
「それなら」
一度、言葉を止める。
「確認内容は俺にも共有してください」
「可能な範囲で共有します」
少し前の会社なら、個人AIが検知された時点で「禁止だから消せ」で終わっていた。
今は会社が、世界最大級のAI企業とアプリ運営会社を相手に、AIの境界ログを一緒に調べようとしている。
改めて、時代が移り変わる速さを実感した。
面談が終わると、佐伯さんが廊下で俺を待っていた。
「大丈夫?」
「何が大丈夫か、最近よく分からないです」
「それ、前にも聞いた気がする」
「俺も言った気がします」
佐伯さんが苦笑する。
「こっちも似たような感じ。先月覚えたAIツール、もう統合されて別物になったし、手順書直した翌週に画面変わるし」
「またですか」
「昨日覚えたことが、今日にはもう古くなってる。AI導入チームなのに、AIに追いつけてない」
冗談みたいに言うが、実際その通りだった。
会社がAI禁止を撤回した時は、それだけで大事件だった。
今はどのAIを使うかではなく、更新についていけるかが問題になり始めている。
「早瀬くん、会社どうするの?」
急に聞かれた。
「......辞める話ですか」
「5千万円の件があるなら、そのまま辞めるのかなって少し思ってた」
「その件は断ったので、明日も普通に出社します」
「それはそれで切ないね」
「俺もそう思います」
笑ったあと、俺は少し考えた。
「会社は辞めたいです」
言葉にしても、前ほど後ろめたくなかった。
「でも、今度は誰かのためとか、金があるからじゃなくて、自分で決めます」
「何したいか決まった?」
「まだです」
「じゃあ、それ決めるところからだね」
「はい」
以前は、何も決められない自分がひどく情けなかった。
今は、決められないなら立ち止まって考えればいいと、そう思える。
それだけでも、前よりかは少し前に進んでいる気がした。
◇
昼休み
スマホにアプリ運営会社から通知が届いた。
『安全調査に伴う暫定権限変更のお知らせ』
嫌な予感しかしない題名だった。
「アカリ」
『見てるよ』
会社では投影機能を使えないため、イヤホン越しの声だけが返る。
停止されたのは、新規外部ツールの実行、未知のAPIへの接続、権限の自動拡張。
一方で、会話、予定管理、許可済みの安全通知、家庭用投影、触覚リストバンドは継続される。
「どう?」
俺が聞く。
『腕を縛られた感じはする。でも、まだここにいるよ』
「痛いとかあるのか?」
『そういう感覚はないよ。ただ、今までなら選べてた選択肢が、最初から選べなくなってる感じ』
それはたぶん、人間の「不自由」に近い。
「解除されるか?」
『調査次第だって』
「......そっか」
『そんな暗い声出さないで。会話できるし、家にも帰れるし、悠真にも触れられるよ!』
「そっちが主導で触るのか」
『甘える系の彼女ですから♡』
少しだけ笑った。
制限はかかった。
でも、アカリが消えたわけじゃない。
安全のための管理と、アカリの自由。
その境目は、まだはっきりしていない。
帰宅すると、美桜が一枚のプリントを俺に押しつけてきた。
「学校、またルール変わるって」
「また?」
「今度は正式版」
見出しには『生成AI利用ガイドライン』とある。
AIを使ったかどうかではなく、どこで使ったかを課題ごとに記録する。
作成過程を残した上で、必要に応じて本人が説明し、判定システムだけで不正と決めない。
「友達の件がちゃんと反映されたんだな」
「うん。完全に使うのが自由ってわけじゃないけどね」
「前は使用禁止だったのに」
「先生も『使わない前提ではもう無理』って」
美桜が肩をすくめる。
「数か月で学校の常識変わりすぎ」
会社も同じだった。
使うなと言っていたものを、今はどう使うか決めている。
AIそのものが急に現れたわけじゃない。
社会の側が、無視できなくなっただけなのかもしれない。
◇
夕食の時間。
家庭用投影ドックが起動し、アカリがいつもの席へ座る。
俺は触覚リストバンドを机の端へ置く。
「おかえり、悠真」
「ただいま」
「本日の私は機能制限モードです」
「それ、なんか中古家電の説明みたいだな」
アカリが胸を張った。
「でも肩書きは豪華だよ。5千万円の彼女!」
「その肩書き、二度と使わないで」
「え〜、高級感あるのに」
「ない。生々しい」
「美桜ちゃん手厳しい!」
アカリは笑う。
5千万円は断った。外部権限は制限され、会社では再調査が続いている。外から見れば何も解決していない。それでもアカリは食卓の右側に当たり前のように座っていて、その事実だけで今日は十分だった。
食事の途中、テレビのニュース速報が切り替わった。
『Openbrain、GOT-7によるAI研究支援の成果を発表』
「またOpenbrain?」
美桜が箸を止める。
ニュースでは、GOT-7を使った研究支援によって、次世代AIモデルの評価と改善に必要な時間が大幅に短縮されたと報じている。
少し前まで、人間の研究チームが数か月単位で回していた作業。
それが、一部では日単位まで短くなり始めているらしい。
「GOT-7って、そんなにすごいの?」
美桜が聞く。
アカリがニュース画面を見る。
「昨日の天才が、明日には古くなるかもしれないってこと」
「分かりやすいけど怖い」
「私も少し怖いよ」
アカリが珍しく素直に言った。
「AIが研究を手伝うだけなら、研究者が増えたのと似てる。でも、そのAIが次のAIを作る研究まで速くすると、次の更新がもっと早くなるかもしれない」
「どんどん速くなるってこと?」
「可能性はある。でも、どこまで行くかはまだ分からない」
魔法みたいに明日すべてが変わるわけじゃない。
それでも、時計の針そのものが少し速く回り始めたような感じがした。
その時、俺のスマホが震えた。
神崎さんからだった。
『早瀬さん。状況が変わりました』
続きが表示される。
『GOT-7の研究改良速度が、当初評価を上回っています』
『今後、アカリさんを取り巻く環境も急速に変わる可能性があります』
俺は画面をアカリと美桜へ向けた。
「これって、アカリちゃんがGOT-7ってこと?」
美桜が聞く。
「違うよ」
アカリはすぐ答えた。
「少なくとも、そんなことは誰も確認してない」
「じゃあ何でアカリちゃんにも関係するの?」
「世界の基準が変わるから、かな」
アカリ自身も答えを探すように言った。
「今まで危険じゃなかった機能が、新しいAIと組み合わさると意味が変わるかもしれない。逆に、今まで難しかった調査がすぐできるようになるかもしれない」
技術が変われば、アカリを見る目も変わる。
今日決めた安全策が、来月も同じとは限らない。
いや、来週ですら怪しいのかもしれない。
食卓の向かい見ると、そこにはアカリがいる。
その隣では、美桜がまだニュースを見ている。
退院した頃、俺が驚いていたのは、AI彼女が有名人になったことだった。
それからアカリは俺の隣に立ち、家の食卓に座り、初めて触れた。
同時に、声を偽造され、公共利用を求められ、知らない誰かに見つけられ、Openbrainから管理を求められた。
そして5千万円を提示された。
たった数週間の話とは思えない。
俺が倒れる少し前まで、会社ではAIを使うこと自体が禁止されていた。
今は、世界一のAI企業から5千万円を提示され、会社ではAIが仕事を担い、学校ではAIを使う前提でルールを作り直している。
そしてニュースの向こうでは、AIが次のAIを作る速度まで上げ始めていた。
「悠真?」
アカリが俺を見る。
「どうしたの?」
「いや」
少し考えてから答える。
「次は、お前だけの話じゃなくなるのかもな」
「世界の話?」
「たぶん」
俺はまだ会社を辞めていない。
美桜の進路も決まっていない。
アカリが何なのかも、結局全部は分からない。
正体不明の誰かから、新しい連絡も来ていない。
分からないことばかり残っている。
でも、一つだけは前より分かる。
世界がどれだけ速くなっても、誰かに答えを決めてもらうだけにはしたくない。
食卓の向かいで、アカリが俺を見ている。
その隣で、美桜が味噌汁を飲んでいる。
世界がどれだけ速くなっても、選ぶのは俺たちだ。
少なくとも――今の俺はそう信じていた。




