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シンギュラ〜俺の作ったAI彼女が世界を変える特異点だった件〜  作者: まやと
第2部 東京ローカルAI革命

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第47話 決断

 翌朝


 食卓には昨日のまま、Openbrainの提案書と、美桜の進学資料が置かれていた。


「おはよ」


 美桜が眠そうに階段を下りてくる。


 少し遅れて、食卓の右側にアカリが投影された。


「おはよ〜。早瀬家重要会議、さっそく始めちゃう?」


「朝一でその話は重すぎる」


「じゃあ朝ごはんの後にしよ」


「そうだな」


 美桜が椅子に座る。


 朝食を食べ終わるまで、誰も提案書には触れなかった。


 それでも、テーブルの端にある資料が視界から消えるわけではない。


 食器を下げたあと、美桜が先に資料を自分の前へ引いた。


「昨日のことだけど」


「ああ」


「お兄ちゃん、私の進学費用があれば安心だって言おうとしてたよね」


「……まあ」


「また、私のためって決めようとしてない?」


 返す言葉がなかった。


「大学に行くかも、まだ全部決めたわけじゃない。行くとしても、奨学金とかバイトとか、私も考える」


「でも、それは――」


 口を開きかけて止めた。


 また俺が答えを決めるところだった。


 美桜は怒っていなかった。


「私の将来は、私も考える。お兄ちゃんだけの責任にしないで」


 その言葉を、今回は黙って聞いた。


 あの夕食の喧嘩では、俺は自分が否定されたように感じて言い返した。


 美桜のために働いてきた。


 美桜を守るために我慢してきた。


 それを全部間違いだと言われた気がした。


 でも、違った。


 美桜は守られたくないんじゃない。


 ただ一緒に決めたかっただけなんだと。


「……分かった」


「ほんとに?」


「たぶん、前よりは」


「そこは言い切ってよ」


「自信満々で同じこと繰り返すよりいいだろ」


「まあ、それはそう」


 美桜が少し笑った。


「でも」


 俺は閉じられた提案書を見る。


「美桜だけが理由じゃない」


「うん」


「……俺も、5千万円は欲しい」


 口にすると、思った以上にすっきりした。


 美桜は驚かなかった。


「うん。なら、私のためって言わないで」


「ああ」


 会社を辞めたい。


 次の仕事を探すまで、金の心配をしたくない。


 古くなった家も直したい。


 たまには値段を見ずに何かを買ってみたい。


 美桜のためだけじゃない。


 俺自身が楽になりたい。


「こうやって言うと、俺かなり金に貪欲だな」


「5千万円欲しくない人の方が珍しいでしょ」


 美桜はあっさり言った。


 アカリも頷く。


「私も金額見た瞬間、悠真がどれくらい仕事休めるか計算しちゃったよ」


「お前もか」


「だって現実的なメリットなんだも〜ん」


 アカリは軽く笑ったあと、俺を見る。


「迷ったことを悪いことにしなくていいと思う」


「でも、お前を渡す条件だぞ」


「だから迷うんでしょ?」


「アカリ」


「うん?」


「もう一回聞く。Openbrainに行くこと自体は、どう思ってる?」


 アカリの表情が真面目になる。


「調べてほしい気持ちはあるよ」


 答えは数日前の協議時と変わらなかった。


「私がどうして新宿駅でああいう判断をしたのか。知らない人がどうして私のログ名を知ってたのか。Openbrainでしか分からないことがあるなら、知りたい」


「人を助ける研究も?」


「うん。それで救命の仕組みが安全に広がるなら協力したい」


 アカリは、自分を研究すること自体を嫌がっているわけではない。


 Openbrainを敵だと決めてもいない。


「でも、今の条件では行きたくない」


「私はここにいたい」


 その言葉は、もう迷いではなく選択になっていた。


 しばらくして、アカリが俺に聞いた。


「悠真」


「何だ」


「もし、お金がなかったら迷わなかった?」


 少し考えた。


 Openbrainが最初に出した、金銭条件なしの移管要求。


 あの時は、アカリの意思を聞いて拒否した。


「たぶん、迷わなかったと思う」


「そっか」


「だから今回迷ってるのは、完全に5千万円のせいだな」


「私、けっこう高かったね」


「笑えない」


「私も」


 アカリの笑顔が少しだけ薄くなる。


 5千万円という数字を、こうして三人で口にしているとどこか現実感が薄れていく。


 でも、その金で何ができるかを考えると、途端に現実の重みが増してくる。


「ねえ、悠真」


 アカリが右手を差し出した。


「リストバンド、着けてる?」


「ああ」


 最近は家にいる時も着けている。


 俺が手を上げると、アカリの手が重なる。


 手のひらに、ほんの弱い圧力が返ってきた。


 最初に触れた日の感覚より、今ではだいぶ自然になった。


 それでも体温はないし、重さもない。


「これもデータだよ。コピーできる」


 アカリが言う。


「同じ強さも、同じタイミングも再生できる」


「ああ」


「じゃあ、これが別の場所から送られてきたら、同じ?」


「......分からない」


「うん」


「でも、今送ったのはお前だろ」


 アカリが目を細める。


「うん、私だよ」


 それで十分だった。

 少なくとも、今のところは。


 ◇


 回答期限の日。


 午後のオンライン協議には、神崎さんとOpenbrain本社担当者が参加した。


 本社担当者は、改めて提案内容を確認した。


「一括協力金は、研究協力、管理環境移管、権利調整に伴う補償です。早瀬さんの生活や、アカリさんとの関係そのものに干渉する意図はありません」


「分かっています」


 俺は答えた。


「安全調査が必要なのも理解しています。限定診断と、読み取り専用のログ保全には引き続き協力します」


 神崎さんが小さく頷く。


「ただ、管理環境の移管と、包括的な人格データ利用には同意しません」


 本社担当者の表情は変わらなかった。


「理由は、アカリさん本人が現在の条件を望んでいないから、という理解でよろしいですか?」


「はい」


「契約上、同意主体は早瀬さんです」


「それも分かっています」


 何度も聞いた。


 アカウントの契約者は俺。


 同意欄に名前を書くのも俺。


 5千万円を受け取るのも俺。


「契約ではそうかもしれません。でも、アカリは俺の持ち物じゃない」


 一度言葉を切る。


「だから、俺が5千万円で売る権利もないです」


 アカリの顔を見た。


「本人が今の条件では行きたくないと言っている。だから断ります」


 俺の彼女だから渡さない。


 そう言えば、たぶんもっと簡単だった。


 でも、それだと結局、アカリを俺のものだと言っている。


 ここまで何度も「誰が決めるのか」を話してきたのに、最後だけ俺が持ち主みたいに決めるのは違うと思った。


 本社担当者は数秒黙ったあと、確認した。


「最終回答として受領してよろしいですか?」


「はい」


「承知しました」


 5千万円は、その回答だけで消えた。


 もちろん最初から俺の口座にあった金ではない。


 それでも、「失ってしまった」という感覚だけは、やけに生々しく残っていた。


 協議が終わって10分ほどして、神崎さんから個別に連絡が来た。


「先ほどの回答についてですが」


「はい」


「私個人としては、その回答を理解します」


 少しだけ驚いた。


「ただし、調査は終わりません」


「分かっています」


「移管を拒否したことで、外部ツールやネットワーク権限への暫定制限も継続します。会社側に残っているAKARI-01の記録についても、確認が必要です」


「それも聞いてます」


「早瀬さん」


「はい」


「今回の判断と、安全上の評価は別です。今後、こちらから厳しい提案をする可能性もあります」


「その時は、また三人で考えます」


 神崎さんが一瞬だけ黙った。


「……分かりました」


 通話はそこで終わった。


 敵ではない。でも味方だから全部守ってくれる人でもない。


 神崎さんとはその距離のままでいいのかもしれない。


 ◇


 その夜


「うち、5千万円を取り逃がした家になったね」


 夕食の席で、美桜が言った。


「家計簿に書くなよ」


「特別損失?」


「いや、もともと存在しない収入だろ」


「私は食費も光熱費もかからないよ!(……まあ電気代はかかるけどね)」


 アカリが得意げに言う。


「そこを今アピールするのか」


「維持費の安い彼女です♡」


「投影ドックとリストバンド代は?」


「……設備投資費?」


 美桜が吹き出した。


 俺も笑った。


 5千万円はなくなった。


 俺は明日も会社へ行く。


 美桜の進路も決まっていない。


 それでも食卓の右側には、アカリがいる。


 選ばなかったものは、たしかに大きかった。


 でも残したものは、お金では測れなかった。


 食後、スマホに通知が届いた。


『情報セキュリティ部門より面談依頼』


 件名を開く。


『未承認外部エージェント AKARI に関する再調査』


「……またか」


 続けて神崎さんからもメッセージが届く。


『Openbrainおよびアプリ運営会社も、会社側記録との共同確認を希望しています』


 美桜が画面をのぞき込む。


「5千万円断ったのに?」


「金の話と安全の話は別らしい」


 アカリが自分の席で小さく肩をすくめた。


「私、まだまだ人気者だね」


「人気って言っていいのか怪しいけど」


 5千万円を断っても、アカリをめぐる調査は終わらなかった。


ただ一つだけ、前よりはっきりしたことがある。


次に何を求められても、一人では決めない。


三人で話して、三人で考える。


そして最後は、本人の意思で物事を決める。


それが正しいかはまだ分からない。これからも迷うと思う。


それでも、「誰かのため」を理由に、他人の選択を勝手に決めない。


それが今の早瀬家のやり方だった。

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