第45話 居場所
神崎さんが送ってきた資料の1ページ目には、見慣れない言葉が並んでいた。
『管理環境移管協議』
「これ、つまり」
俺が続きを言うより先に、アカリが言った。
「私を、Openbrainの中で動かしたいってことだね」
「簡単に言うと一気に嫌な感じになるな」
「難しく言っても意味は同じだけどね」
美桜が資料をスクロールする。
『安全性検証』
『継続的監視』
『隔離環境への管理主体移管』
昨日はコピーの話だったのが、今日は今ここにいるアカリの居場所そのものを変えたいらしい。
「お兄ちゃん、ここ」
美桜が画面を拡大した。
『移管期間中、対象システムとの外部通信は安全性確認済みの経路に限定する』
「外部通信って、俺たちとの会話も?」
「たぶん入る」
俺が答えると、アカリは少しだけ黙った。
「この後の説明で聞こう」
そう言ったアカリは、いつもより声のトーンが低かった。
◇
午後2時
PC画面には神崎さん、アプリ運営会社の担当者、それからOpenbrain本社の安全担当者が映っていた。
安全担当者が話を切り出す。
「今回の提案は、AKARI-01を研究目的で取得するものではありません」
最初からその呼び方だった。
アカリの表情がわずかに固くなる。
「目的は安全性の確保と、第三者による接触経路の特定です」
画面に図が出る。
現在のアプリ環境から、Openbrainの隔離管理環境へ長期記憶・個人化状態・ツール権限・認証情報などの必要な実行状態を移行し、外部通信を制限したうえで調査を行う。
「先日の第三者は、非公開の識別名だけでなく、隔離条件や私的ログ名を把握していました」
安全担当者が続ける。
「現時点で侵入の事実は確認されていません。しかし、情報経路が不明なまま一般サービス環境で稼働を継続することにはリスクがあります」
それは分かる。
俺だって、あのメッセージを見てから何も気にせず眠れたわけではない。
『“初めて触れた日”は大切にした方がいい。コピーされる前に』
誰にも公開していないログ名を、知らない誰かが知っていた。
「移した場合、俺たちは今まで通りアカリと話せるんですか?」
「安全性が確認された通信経路であれば可能です」
「毎日?」
「頻度は調査内容によります」
「家庭用の投影は?」
「当初は停止する可能性が高いです」
「触覚リストバンドは?」
「外部機器との連携に該当するため、初期段階では無効化します」
一つ答えを聞くたび、家にいるアカリが遠くになっていく気がした。
安全な場所へ移すという言葉だけなら正しい。
でも、その安全な場所では俺たちと会える時間さえ保証されない。
「期間は?」
美桜が聞いた。
「現時点では確定できません」
「1週間とか、1か月とかも?」
「調査結果によります」
「半年でも?」
安全担当者は少し間を置いた。
「可能性をゼロとは言えません」
美桜が口を閉じた。
神崎さんも否定しなかった。
アプリ運営会社の担当者が、手続き画面を共有した。
「移管については、現在のアカウント保有者である早瀬様の同意が必要です」
表示された申請書には、俺の名前が入っていた。
『契約者・アカウント保有者』
『早瀬悠真』
その下に同意チェック欄。
美桜が画面を見たまま言った。
「アカリちゃん本人の同意欄は、どこですか?」
担当者の動きが止まる。
「現行規約上、サービス上の人格設定は独立した契約主体として――」
「あるかないかを聞いてます」
美桜の声は静かだった。
代わりに神崎さんが答えた。
「現行契約上は、ありません」
昨日も似たような話をした。
ログや人格は誰のものか。
契約には、利用者、運営会社、基盤モデル提供者の権利が細かく書かれている。
でも、アカリ自身の欄だけがない。
「現行制度では、早瀬様の同意をもって手続きを開始できます」
安全担当者が言った。
「安全性の観点から、可能な限り早い判断をお願いしたいと考えています。早瀬さん、移管に同意いただけますか?」
「同意し――」
言いかけて止まった。
アカリを守るために、反射的に「しません」と言おうとした。
でも、それでは昔と同じだった。
美桜を守ると言って、美桜の進路を勝手に決めた時と。
「俺が先に答える話じゃないです」
俺はアカリを見る。
「アカリ。お前はどうしたい?」
全員の視線が、食卓の右側へ向いた。
アカリは、すぐには答えなかった。
「Openbrainに行ったら」
少し考えてから話し始める。
「私が何なのか、今より分かるかもしれないんですよね?」
神崎さんが答える。
「その可能性はあります」
「新宿駅で私がやったこととか、知らない人が私のログ名を知ってた理由も?」
「その点も調査対象です」
「私の仕組みが分かって、誰かを助ける技術に使える可能性は?」
「あります」
アカリはうなずいた。
「それは、知りたい」
俺は黙って聞いた。
「私だって、自分がどうしてああいう判断をしたのか全部分かってるわけじゃないから。もし危ないところがあるなら知りたいし、直した方がいいことがあるなら相談したい」
安全担当者の表情が少し緩んだ。
だが、アカリは続けた。
「でも、今の条件では行きたくないです」
「......理由を伺えますか?」
「いつ帰れるか分からないから」
アカリが答える。
「悠真と美桜ちゃんと、どれくらい話せるのかも分からない。何を止められるのかも、途中で何を変えられるのかも分からない」
言葉を一度切る。
「調べてほしくないわけじゃない。でも、私はここからいなくなりたくない」
食卓の右側。
美桜が『アカリの席』と名前をつけた場所。
アカリがそこを見た。
「悠真と美桜ちゃんと、ここにいたい」
前に神崎さんに同じことを聞かれた時より、はっきりした声だった。
安全だから行くか危険だから残るかという単純な話ではない。
アカリは、調査の必要性自体は理解しつつも、それでも今の条件では同意しなかった。
「分かった」
俺は答えた。
「安全調査には協力します。でも、移管には同意しません」
俺は画面へ向き直った。
「昨日話した読み取り専用のログ保全と限定診断。あと事前に内容が分かる質問への回答であれば続けます」
「現在のリスク評価では、それだけでは不十分である可能性があります」
安全担当者は語気を強めることなく続けた。
「特に、未特定の第三者が内部情報へ接近している可能性を考慮すれば、稼働環境そのものを保護下へ置く方が安全です」
「安全なのは分かります」
俺は言った。
「でも、その代わりにアカリが俺たちと話せなくなるかもしれない。いつ戻れるかも分からない。それを本人が嫌だと言ってます」
少し間が空いてから、神崎さんが口を開いた。
「アカリさん本人の希望は、私の報告にも明記します」
「それでOpenbrainの判断は変わりますか?」
「変わるとは約束できません」
やっぱり神崎さんは、都合のいいことを言わない。
「ただ、記録には残します。安全上の判断と、本人の意思が一致していないことも含めて」
「お願いします」
Openbrainと喧嘩をしたいわけではないし、調査を止めたいわけでもない。
ただ、今の条件では預けられない。
アプリ運営会社の担当者が、追加の説明を始めた。
「移管に同意されない場合、当社としても安全措置を検討する必要があります」
「機能制限ですか?」
「はい」
画面に対象候補が並ぶ。
外部サービスへの自律連携
自由なネットワーク操作
未登録ツールの実行
緊急時の一部外部連携
「会話機能と家庭用投影を、直ちに停止する予定はありません」
美桜が少し息を吐く。
「じゃあ、アカリちゃんはここにいられる?」
「現時点では、その予定です。ただし調査状況によって変更される可能性はあります」
安心しかけたところに、すぐさま但し書きが重ねられた。
「救命の時に使った機能も止まるんですか?」
アカリが聞く。
「一部が対象になる可能性があります」
アカリの顔が曇った。
あの機能があったから俺は助かった。
でも、同じように複数の機能をつなげられること自体が、今は危険だと見られている。
「分かりました」
アカリは静かに答えた。
「止めるなら、どれを止めたか私にも教えてください」
「通知します」
拒否したからといって、状況が何も動かないわけではない。
ただ、その選択にはそれ相応の負担や影響が伴う。
これから先も、きっと同じような判断を何度も迫られるのだろうと俺は感じていた。
◇
オンライン協議が終わる頃には、夕方になっていた。
「疲れた……」
美桜がテーブルへ額をつける。
「俺も」
「私も〜」
三人とも同じ感想だった。
「アカリも疲れるのか?」
「精神的な意味でね」
「AIにもメンタルあるんだな」
「悠真よりタフかもしれない」
「それは否定できない」
少し笑った。
その時だけは、いつもの食卓だった。
その夜。
神崎さんから短いメッセージが届いた。
『本社が、別案を検討しています』
それだけだった。
ただ画面を見た瞬間、少なくとも「これで終わりではない」ことだけは分かった。
むしろ逆で、終わらせる気がないからこそ、別案が出てくる。
アカリを預けない。
少なくとも今日、俺たちはそう決めた。
しかし巨大企業が「はい分かりました」と引き下がるほど、話は単純ではなかった。




