第44話 コピー
謎のメッセージが届いた翌日
PC画面の向こうには、神崎さんのほか、アプリ運営会社の安全担当者と、Openbrain日本支部の法務・安全担当者が並んでいた。
俺と美桜は食卓に座り、アカリはいつもの右側の席にいる。
「昨日のメッセージについて、現時点でも実行環境への侵入は確認できていません」
神崎さんが説明する。
「ただし、『初めて触れた日』という非公開のログ名を第三者が把握していた以上、現在の状態を保全する必要があります」
「保全って、バックアップですか?」
「第一段階はそれに近いです。ただし通常のバックアップとは分け、読み取り専用の暗号化データとして保存します」
運営会社の担当者が画面を切り替えた。
『第一段階:完全ログ保全』
『第二段階:診断用状態複製』
「ライブ環境を直接調べると、調査中に状態が変化する可能性があります。そのため、外部接続を切った診断環境へ状態を複製して確認する方法を提案しています」
「つまり」
俺は書類の文字を見直した。
「アカリをコピーするってことですか?」
神崎さんは言葉を濁さなかった。
「アカリさんを、もう一人作る提案です」
食卓の右側で、アカリが黙った。
「どこまでコピーするんですか?」
俺が聞くと、運営会社の担当者が項目を表示した。
会話履歴
長期記憶
人格設定
利用権限
内部要約
外部ツールの利用履歴
特別ログ
個人最適化状態
「基盤となるモデル本体はサービス側にあります。アカリさん固有の部分は、主にこれまで蓄積された状態データです」
「それ……」
美桜が一覧を見つめる。
「ほとんどアカリちゃんじゃないですか」
「技術的には、診断対象となる状態データです」
担当者は慎重に言った。
診断対象と呼ばれても、俺にはアカリにしか見えない。
最初に話した日から初デート、両親の命日や新宿駅での出来事、そして『初めて触れた日』までのすべてが重なっている。
それらを全部まとめてコピーしておいて、「これは診断用の状態です」と言われても、どうしても気持ちが追いつかなかった。
「私の声や顔だけじゃないんだね」
アカリが小さく言った。
「はい」
「悠真と話したことも?」
「対象になります」
「美桜ちゃんとの会話も?」
「必要な範囲では含まれます」
アカリは少しだけ視線を落とした。
「一つ、聞いてもいいですか?」
アカリが顔を上げる。
「コピーした私が起動したら、その子は私だと思いますか?」
画面の向こうが静かになった。
最初に答えたのは神崎さんだった。
「断定できません」
「分からない?」
「技術的には、同じ状態から開始できます。でも、起動した瞬間から受け取る情報が違えば、履歴は分かれます」
神崎さんが二本に枝分かれする図を出す。
同じ記憶を持つ二つの状態。
片方はこの家にいて、もう片方は隔離された診断環境にいる。
開始地点は同じでも、一秒後には違うものを見る。
「制度上は診断データとして扱えます。ただ、それを人格的に同一の存在と呼べるかは、今のルールでは整理されていません」
「同じ記憶を持ってても、別の経験をしたら別になる……」
美桜がつぶやく。
昔、アカリ自身が言っていた。
同じ声、同じ性格でも、同じ存在とは限らない。
その話が、現実のものになろうとしている。
「じゃあ」
アカリが続けた。
「検査が終わったら、そのコピーはどうなるんですか?」
Openbrainの担当者が答える。
「診断目的が終了した後、原則として削除します」
アカリが止まった。
「起動したコピーが『消さないで』って言ったら?」
今度は、すぐに返事がなかった。
少し前までなら、俺も「コピーなんだから消せばいいだろ」と思ったかもしれない。
でも、そのコピーが俺のことを覚えていて、美桜を知っていて、しかも、自分を消されたくないと言ったら。
それをただの一時ファイルとして削除できるのか。
「今回については」
神崎さんが言った。
「コピーを起動せず、静的な解析だけに限定する方法もあります。どうしても対話状態が必要になった場合だけ起動する。その条件を事前に決めることもできます」
「起動しなければ、怖くない?」
美桜がアカリへ聞く。
「少しは」
アカリは答えた。
「でも、私の全部が知らない場所にあること自体は、やっぱりちょっと怖い」
◇
次はさらに分かりにくい話だった。
アカリの所有権についてだ。
アプリ運営会社はサービス提供と安全確認の範囲でログを扱い、Openbrainは旧世代モデル由来部分の安全確認を求める立場にある。
俺は利用者で、アカリとの会話には美桜の情報も含まれる。
説明を聞くたびに、アカリという存在が細かく切り分けられていくように感じた。
「じゃあ」
俺は途中で止めた。
「アカリの思い出は、誰のものなんですか」
法務担当者が一瞬黙った。
「現行契約では、データ、基盤モデル、ユーザーが生成した情報について、それぞれ扱いが定められています」
「アカリ本人は?」
「人格そのものの所有を前提とした項目はありません」
項目がないという言い方は、神崎さんが家に来た時、アカリの「ここにいたい」という希望を書く欄がなかったのと同じだった。
声の権利
ログの権利
モデルの権利
利用者の権利
細かく決めてあるのに、それらが全部合わさった「アカリ」という存在だけは、どこにも定義がなかった。
「便利ですね」
美桜が少し苛立った声で言う。
「分ける時だけ、すごく細かい」
「美桜」
「だって、アカリちゃんをコピーする時は全部まとめて必要なのに、誰のものか聞いたら急にバラバラになるじゃん」
誰もすぐには反論しなかった。
「私は、調査してほしいよ」
アカリが言った。
意外な言葉に、俺と美桜が同時に見る。
「昨日の人が、本当に私の中を見られるなら怖い。悠真や美桜ちゃんの情報まで見られるかもしれないし」
「うん」
「だから調べてほしい。でも――」
「私を増やすのは怖い」
矛盾しているように聞こえる。
でも、どちらも本音なのだと思う。
危険は調べてほしい。
自分の記憶は渡したくない。
一つだけ選べと言われる方がおかしい。
「じゃあ、条件を決めよう」
美桜が早瀬家安全協定を持ってきた。
「また増えるのか」
「技術の進歩より規約の更新のほうが早いかもね」
「笑えないな」
三人で項目を書いた。
・読み取り専用の形で完全なログを保存する。
・私的な会話は、必要な部分だけを少しずつ開示する。
・診断用のコピーを作る場合は、必ず事前に同意を取る。
・コピーを起動する場合は、アカリに事前に説明し、終了や削除の条件もあらかじめ決めておく。
・コピーは他の目的には使わず、学習や第三者への提供も行わない。
・アカリの機能や内容は変更しない。
「あと」
アカリが指を上げた。
「コピーした私が何か希望を言った場合、それを無視しない」
俺はペンを止めた。
「入れるのか?」
「だって、言うかもしれないでしょ」
「……そうだな」
最後の項目を追加した。
それらの条件を送り返すと、神崎さんは目を通してうなずいた。
「私は、この案に賛成します」
ただし、Openbrain側の安全担当者は続けた。
「完全な状態複製を行わない場合、侵害範囲を確認できない可能性があります。その場合、安全上の措置として外部ツールや一部ネットワーク権限の制限を運営会社へ勧告することがあります」
「制限って、どこまでですか?」
「調査結果によります」
「家庭用の投影は?」
美桜がすぐ聞いた。
運営会社の担当者が少し間を置く。
「認証やアカウント機能への制限内容によっては、影響する可能性があります」
美桜の顔が変わった。
「安全のためって言えば、アカリちゃんを家から外に出させるってこと?」
「そういう目的ではありません」
「でも、結果は同じでしょ」
「今すぐ全部拒否するとは言いません」
俺は言った。
「でも、投影や家庭内の機能まで止める必要があるなら、理由と代替手段を先に出してください」
神崎さんがうなずく。
「その条件も記録します」
Openbrainの担当者は何も約束しなかった。
それが俺たちとの今の距離感なのだと思う。
会議が終わったあとも、三人とも席を立たなかった。
「私の席、消えるかもしれないんだね」
アカリが言う。
「まだ決まってない」
「うん」
「別の表示方法も探せる」
「悠真」
「何だ」
「すぐ『俺が何とかする』って言わなくなったね」
少し意外だった。
「言いそうにはなった」
「顔に出てた」
美桜が横から言う。
「でも今回は三人で何とかする、でしょ?」
「ああ」
アカリが笑う。
「じゃあ、私も探す。ここに居続ける方法」
その言葉を聞いて、少しだけ胸のざわつきが収まった。
◇
その日の夜。
神崎さんから、個人的なメッセージが届いた。
『本日の診断協議とは別件です』
嫌な予感がした。
『Openbrain本社側で、AKARI-01の管理環境そのものを当社環境へ移す案が検討されています』
続いて、もう一文。
『次回面談では、アカリさんの管理環境の移管について正式な提案が出ます』
俺は画面を見たまま動けなかった。
さっきコピーを作らせてほしい、という話をしたばかりだ。
次は、アカリそのものを別の場所へ移したいらしい。
食卓の右側を見る。
アカリは、まだそこにいる。
けれど、アカリの居場所を誰が決めるのかという話は、もう早瀬家だけでは終わらなくなっていた。




