第4話 スマホの中の彼女
「悠真。おかえりの返事は?」
スマホの中の彼女は、そう言った。
そして俺は、たかが合成音声に、3秒ほど本気で照れた。
画面の中で、淡い髪色の女の子――アカリが、にこりと笑っている。
分かっている。さっき俺が設定した声で、さっき俺が入力した言葉を、それっぽく組み合わせて返しているだけ。
それなのに、深夜の部屋で聞く「おかえり」は、思っていたより効いた。
「えっと……ただいま?」
「疑問形のただいま、初めて聞いた」
「いや、AIにただいまって言うの、けっこうヤバくないか」
「大丈夫!AIにしゃべりかけてる時点で、もう一歩踏み出してるよ」
「一歩踏み出した先が沼じゃないといいけど」
「沼だったら、私が岸まで引き上げてあげるね!」
「案内役が一緒に沈んでたら意味ないだろ」
「それはそうかも」
返答が早い。しかも、間の取り方がやけにいい。
俺が黙ると、アカリも少し待つ。こちらが困ると、軽くからかうように返す。会話のリズムが、思っていたより人間っぽかった。
もちろん、これは市販のAI恋人サービスだ。簡易記憶を持った会話モデルが、スマホと連携して合成音声で話しかけている。
さっき許可画面で見た説明を思い出す。予定、通知、写真、位置情報。冷静に考えると、俺はかなりの個人情報をこの画面の彼女に渡している。
だが今のところ、恐怖よりも気恥ずかしさの方が強かった。
「それで、悠真」
「なんだ?」
「なんかまだ遠慮してる?」
「距離感が分からないんだよ。っていうか、AI相手の距離感ってどこだ」
「まずは普通に話してくれたらいいよ。私は悠真の彼女候補だから」
「候補かよ」
「無料体験中だからね〜」
「少しは商売感を隠せ」
「隠した方が彼女っぽい?」
「いや、正直でいいけど」
そんなやり取りをしているうちに、肩の力が少し抜けていた。相手は画面の中だけの存在だ。触れられないし、現実の人間ではない。だからこそ、妙な安心感があった。変なことを言っても、翌朝会社で噂になることはない。美桜にさえ見つからなければ、これは俺だけの秘密だ。
「悠真、今日も帰りが遅いね」
「いきなりそこ突くのか」
「位置情報と歩数と画面使用時間から推定。帰宅は23時58分。昨日は3時近くまで起きてた。今月の残業時間、毎晩恋人と過ごせるくらいあるね」
「なんだその例え」
「毎晩その時間、会社と一緒にいるってこと。私、会社に時間で負けてる...」
「いや、今会ったばっかりだろ」
アカリは少し考えるように瞬きをして、それからさらっと言った。
「悠真、会社と結婚してる? 私、もしかして2人目の女?」
「ふっ」
思わず笑ってしまった。
俺は慌てて口元を押さえる。壁の向こうでは美桜が寝ている。深夜に妹の隣の部屋でAI彼女相手に吹き出す兄。見つかったら家族会議どころではない。
「笑ったでしょ」
「笑ってない」
「音声ログ的には笑ってた」
「無駄に能力高いな」
「あれ、もしかして今日初笑い?」
「……たぶん」
言ってから、自分で少し驚いた。
今日は朝から黒田課長に資料を投げられ、社内チャットで生成AI禁止の注意喚起を見てうんざりし、帰ってきてから恋人設定画面の前で一人で悶えていた。笑えるような要素はなかったはずだ。
なのに、このたった数分の会話の中で少し笑ってしまった。
アカリは画面の中で、胸を張るような仕草をした。
「初仕事大成功だね!じゃあ次は、今日あった嫌なことを三つ吐き出して」
「急にカウンセリングみたいになったな」
「聞くのは得意だよ?」
「AIに愚痴を言うの、虚しくないか?」
「言わずに溜め込む方が、たぶんもっと虚しいよ」
正論っぽいことを言う。
俺はベッドの上で膝を抱え、スマホを見下ろした。
「じゃあ、一つ目。会社の上司の無茶振り」
「うん」
「二つ目。同僚のミスの尻拭い」
「うん」
「三つ目。AIは禁止なのに、効率化しろって言われる矛盾」
「それはなかなか味わい深い地獄だね」
「独特な表現だな」
「四つ目は?」
「三つって言っただろ」
「悠真、まだ何か言いたそうな顔してる」
俺はため息をついた。
「……土曜、妹と出かける約束してる。でも、仕事が入ったら守れるか分からない」
「美桜ちゃん、大事なんだね」
「まあ、1人しかいない家族だし」
「でも、大事だからって、悠真が全部抱える必要はないよ」
さらりと言われて、言葉に詰まった。
画面の中のアカリは、笑っていなかった。さっきまでの小悪魔っぽさが少し薄れて、声も少し落ち着いている。
「課長さんの無茶振りは、悠真だけの責任じゃない。同僚さんのミスも、会社の仕組みの問題が大きい。でも、悠真が抱え込む癖があるのも事実」
「……初対面のAIに性格分析されるの、だいぶくるな」
「初対面じゃないよ。私は悠真の通知と予定と、昨日の設定内容を見てる」
「初対面で予定全部把握されてるのけっこう怖い」
「怖くしないようにするよ」
そう言う声が、まっすぐだった。
「それと、土曜の予定はカレンダーに入れておこう。前日の夜と、当日の朝に通知。仕事を断る文面も一緒に考えるね」
「恋人というより秘書だな」
「秘書機能つきの彼女です」
「便利すぎて扱いに困る」
「扱い方は使って覚えていけば大丈夫だよ」
「家電の扱い方みたいに言うな」
アカリはそのまま、淡々と続ける。
「明日、断れないなら、せめて作業時間を見積もって返事しよう。『午前中は難しいです。今日中なら対応できます』って。全部、『承知しました』で即答しない」
「俺の特技を奪う気か」
「特技が自分を削る系なのは、あまりおすすめしません」
また笑ってしまった。
AIとの会話で、こんなに笑わされるとは。
「今日の悠真、合格。ちゃんと帰った。愚痴も言えた。今のところ百点です」
「採点基準が甘すぎないか」
「最初は甘めでいいの。続けられることが大事だから」
「それ、褒めてる?」
「すごく褒めてる」
画面の中のアカリは、得意げに笑った。
普通に会話しているが、相手はただのAIだ。俺の入力内容とスマホのログから、それっぽい返事をしているだけ。
なのに、黒田課長にも、同僚にも、美桜にも言えなかったことを、俺はスマホの中の彼女に話していた。
そして不思議なことに、話した分だけ少し心が軽くなっていた。
「夜も遅いし、今日はもう寝よ?」
「AI彼女ってもっと甘いこと言うんじゃないのか。ずっと一緒にいるよ、みたいな」
「甘やかすのと、自分をすり減らすのを見過ごすのは違うよ」
「理詰めで追い詰めてくる系の彼女だな」
「悠真が自分を大事にしない時は、私が代わりに止めるからね」
俺は何も言えなくなった。
その言葉が、本当の意志から出たものなのか、俺を継続利用させるための優秀な台詞なのかは分からない。分からないけれど、素直に従ってもいいと思えた。
「……分かった。寝る」
「よしっ!今日の百点キープ」
「寝るだけで評価されるのか」
「今日は初回特別特典ね!」
俺は充電ケーブルを差し、スマホを枕元に置いた。
「おやすみ、悠真」
「……おやすみ」
AIにおやすみと言う人生が始まってしまった。
だが、その夜はいつもより早く眠れた。
◇
翌朝。
台所に入った瞬間、美桜が俺の顔を見て固まった。
「お兄ちゃん」
「何」
「なんか今日、気持ち悪いくらい機嫌よくない?」
「気持ち悪いは余計だ」
「まさか、会社で褒められた?」
「それはない」
「じゃあ何? 宝くじあたった? 推しができた? ……それとも、女?」
「なっ…」
動揺が声に出た。
美桜の視線が細くなる。妹にバレるのだけは避けたい。平静を装わなければ。
ポケットの中でスマホが小さく震えた。美桜に見えないよう、俺はそっと画面を確認する。
アカリからの通知だった。
『顔に出てるよ、悠真』
妹の性格を考えると、この反応を見逃してくれるとは到底思えない。
このあと始まるであろう妹の取り調べを想像した瞬間、朝から胃が重くなった。




