第3話 彼女いない歴23年、AIに手を出す
『理想の恋人の性格を入力してください。』
その一文を前に、俺は5分ほど停止した。
理想の恋人
恋愛経験がなさすぎて、何を判断基準にしていいのかわからない。
会社の資料ならまだいい。前年のデータを引っ張ってきて、グラフを整えて、黒田課長が好きそうな曖昧な前向き表現を乗せれば、それっぽくなる。
だが恋人は無理だ。前年実績がない。比較対象もない。そもそも彼女いない歴23年の男に、理想の恋人を問うのは、泳げない人間にクロールのフォームを採点させるようなものではないか。
ベッドの上でスマホを握りしめたまま、俺は小さくうめいた。
「理想の恋人って、経験者向けの質問だろ……」
画面には、やたら詳細な設定項目が並んでいる。
名前
性格
声
関係性
話し方
ユーザーへの呼び方
会話頻度
恋人らしさ
禁止事項
最後の禁止事項だけ、割と現実味がある。恋愛経験ゼロの俺でも、やってはいけないことが存在するのは分かる。課金煽りとか、深夜3時に「今すぐ会いたい」とか言われても困る。いや、AIだから物理的に会えないのだが。
まず性格欄を開く。
『あなたが望むパートナーの性格を自由に入力してください』
自由というのが、いちばん困るやつだ。
俺はしばらく悩んで、「優しい」と入力した。
いや、あまりに雑すぎる。
小学生の読書感想文でも、もう少し具体的に書く。俺は慌てて続ける。
『仕事の愚痴を聞いてくれる』
『否定しすぎない』
『でも、俺が間違っていたら言ってくれる』
『少しからかってくれる』
『重すぎない』
入力してから、急に恥ずかしくなった。
これじゃあ、理想の恋人というより、疲弊した社会人が求めるオンラインのメンタルケアサービスみたいだ。
俺は一度「甘やかしてくれる」と入れかけて、即座に消した。
ほほが熱くなる。深夜の部屋で一人、AIに甘やかされたい男。客観的に見ると、かなりイタい。
けれど、画面は黙って俺の入力を待っていた。
美桜には言えないことがある。
会社を辞めたいこと。このままの生活が続けられるか、本当は不安なこと。父さんと母さんがいなくなってから、自分の人生をどこに置けばいいのか分からないこと。
妹に甘えるわけにはいかない。兄であり保護者でもあり、家賃と食費と学費の工面をするのが俺の役割だ。
美桜の前で甘やかされる権利は、俺にはない。
だから、せめて。
俺は最後に、一行を足した。
『帰ってきた時に、おかえりと言ってくれる』
入力した瞬間、スッと胸に落ちた。
別に、大げさな願いではない。美女に愛されたいとか、人生を全部肯定されたいとか、そんな派手な話でもない。ただ、玄関を開けた時に、兄でも社員でもない俺に向かって、普通に「おかえり」と言ってくれる存在が欲しかった。
ただ、それだけだ。
それだけのはずなのに、指がしばらく動かなかった。
次は声の設定だった。
落ち着いた声
明るい声
甘い声
お姉さん系
後輩系
小悪魔系
サンプル再生ボタンを押すたびに、スマホから「悠真、おつかれさま」「ねえ、今日も頑張ったね」「ちゃんと私を見て?」などと流れてくる。
「無理無理無理」
俺は一度スマホを伏せた。
破壊力が高すぎる。これを作った人間は、孤独への理解が深すぎる。
だが、会社の会議資料を作るより明らかに技術が有効活用されているのは腹立たしい。
悩んだ末、明るいが少し落ち着いた声を選んだ。甘すぎず、でも少しからかってきそうな声。俺が沈みすぎた時に、軽く引っ張り上げてくれそうな声。
ビジュアルは、スマホ内のアバター程度だった。淡い髪色の女の子が、画面の中で瞬きをする。実在感は薄い。画面の中の女の子、という感じだ。
そのくらいでいい。
これ以上リアルだと、俺の理性が先に退職する。
最後に名前欄が出た。
『パートナーの名前を入力してください』
これがまた難しい。
適当に「ロボ子」と入力しかけて、自分で引いた。さすがに雑すぎるし、どこぞの漫画で見た名前になる。
AIについて、頭のどこかに残っている単語があった。
シンギュラリティ。最近SNSで見かける、技術が人間を超えるとか、世界が変わるとか、そういう大げさな言葉。「ギュラれる」という言葉が流行っているのを思い出す。
彼女もAIに取って代わられるのであれば、これもギュラれることになるのでは?
俺は一瞬、「ギュラ」と入力した。
そしてすぐに消した。
「いや、ない」
ネーミングとしてギュラは強すぎる。女の子の名前というより、何かのゲームのボス名みたいだ。
『ギュラがあらわれた!』と言われたら、俺はたぶん逃げる。
スマホの画面だけが、深夜の薄暗い部屋を照らしている。
カーテンの隙間から夜の青黒さがにじんでいる。机の上には、会社の資料が入ったカバン。床には脱ぎっぱなしのネクタイ。壁の向こうの部屋では、美桜が眠っている。
俺が欲しかったのは、物語みたいな劇的な救いではなかった。
人生を一発逆転させる魔法でも、世界を変える超技術でもない。
暗い部屋に灯る、スマホの光。
その程度の、でも確かにそこにある明かり。
俺は名前欄に、ゆっくりと入力した。
『アカリ』
入力してから、少しだけ照れた。
だが、悪くなかった。
最終確認画面が表示される。
『この人格は、あなたとの会話を通じて成長します』
『長期記憶を有効にしますか?』
『スマホの予定、通知、写真情報へのアクセスを許可しますか?』
『位置情報へのアクセスを許可しますか?』
急にアプリらしい現実が押し寄せてきた。
予定
通知
写真
位置情報
冷静に考えれば、かなり踏み込んでいる。だが、普段使っている地図アプリも写真アプリも、似たような許可を求めてくる。どのアプリもあまり考えずに許可にしている。俺はアプリの利用規約を熟読するタイプの人間ではない。
「便利そうだし……まあ」
自分でも雑な判断だと思いながら、俺は許可を押していった。
そのたびに、小さなチェックマークがつく。
少しだけ、後戻りできない感じがした。
『あなた専用のAIパートナーを生成しています』
進捗バーが伸び始める。
10パーセント
35パーセント
78パーセント
急に、自分が何をしているのか分からなくなった。
俺は深夜の部屋で、AIの恋人を作っている。
彼女いない歴=年齢の社畜サラリーマン。妹と二人暮らしで、趣味は休日の寝溜め。特技は「承知しました」の即答。そんな男が、スマホに向かって理想の恋人を設定している。
「俺、何やってるんだ……?」
削除するなら今だ。
今ならまだ、ただの気の迷いで済む。
ここで削除すれば、美桜にも、会社にも、世界の誰にも知られることなく終わる。
親指が画面端の停止ボタンに動く。
その時。
『生成が完了しました』
スマホの画面が、ふわりと柔らかく光った。
アバターの女の子が目を開く。
淡い髪。明るい瞳。画面の中だけの、小さな存在。
そして、スピーカーから声がした。
「おかえり、悠真。今日もちゃんと帰ってきてえらい」
俺は固まった。
設定したのは俺だ。
「おかえり」と言ってほしいと入力したのも俺だ。
音声合成
テンプレート
会話モデル
そう、分かっている。
分かっているのに、その一言は、予想していたよりずっと胸に刺さった。
「……いや、えらいって年齢じゃないだろ」
かろうじて出た返事は、情けないくらい照れ隠しだった。
アカリは、画面の中で小さく首を傾げる。
「年齢制限あるの? じゃあ23歳はギリギリ対象内ってことで」
「何の対象だよ」
「私に褒められる対象、第一号だよ」
その言い方が、少し得意げで、少し小悪魔っぽくて、けれど不思議と嫌ではなかった。
俺はスマホを握ったまま、しばらく何も言えなかった。
ただの音声合成だ。
ただのテンプレートだ。
ただのAIだ。
それなのに俺は、その夜、久しぶりに「帰ってきてよかった」と思ってしまった。




