第2話 妹は兄の顔色で天気予報をする
「本日のお兄ちゃんの社畜指数は、暴風警報です」
朝、台所に入った瞬間、妹がそんなことを言った。
テーブルの向こうで美桜が俺の顔をじっと観察し、天気予報士みたいな真顔で判定を下している。
「朝から失礼な天気予報を流すな」
「だって、目の下のクマが昨日より濃い。歩き方がおじいちゃん。あと、朝ごはん見てもテンション上がってない」
「俺はわんぱく小学生かよ」
「お兄ちゃんって、食いつきの良さで元気かどうかすぐ分かるから」
小学生以前に動物かよ、とツッコミたかったが、眠すぎて返す気になれなかった。
昨夜、俺は布団の中でAI恋人サービスの広告をタップした。そこまでは覚えている。けれど、何を入力したのか、その先の記憶が曖昧だった。登録画面らしきものが開いて、名前だの性格だの、妙に踏み込んだ項目が並んでいた気がする。
そして俺は、たぶんそのまま寝落ちした。
朝起きた時、スマホには『あなたの理想の関係性を選んでください』という画面が残っていた。俺は反射的に閉じた。美桜に見られたら終わる。妹に「お兄ちゃん、理想の関係性って何?」などと聞かれた日には、そのまま社会的に葬られる。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「今度の土曜、駅前のモール行く約束、覚えてる?」
箸を持つ手が止まった。
「覚えてる。たぶん」
「その『たぶん』、絶対覚えてないやつ」
「覚えてるって」
「前科があるからなー」
確かに、先月も一度、休日出勤で約束を流した。美桜は笑って許してくれたが、目当てにしていた駅前のカフェの期間限定パフェはその日で終わっていた。兄として、あれは重罪だったと思う。
「今度は行く。絶対」
「その絶対、また会社から連絡きたら溶けるやつじゃない?」
「溶けない。たぶん」
「また『たぶん』って言った」
「美桜、確実な未来なんてどこにもないんだよ」
「それっぽいこと言って逃げない」
美桜は頬を膨らませた。怒っている、というより、楽しみにしている分だけ不安なのだろう。
正直、俺も楽しみだった。
高校生の妹と駅前のモールに行く23歳男性。世間的には微妙かもしれないが、俺たちにはそれが普通だった。服を見て、文房具を買って、フードコートで美桜が悩みに悩んだ末に結局いつものクレープを選ぶ。そういう時間は、俺にとっても数少ない休日らしい休日だった。
「そういえばさ、学校でまたAIの話出た」
美桜が卵焼きをつつきながら言った。
「AI?」
「うん。課題でAI使ったら不正扱いなんだって。でも先生も生成AIで作ったっぽいプリント配ってたよ。妙に文章が整いすぎてて、ずっと丁寧なテンションになるやつ」
「学校も大変なんだろ」
「生徒が使うと怒られるのに、先生側はこっそり使ってそうなの、ずるくない?」
俺は昨日の会社の通達を思い出した。
『情報漏洩、著作権、コンプライアンスの観点から生成AIの利用は禁止します。』
言葉はもっともらしい。けれど、禁止したところで仕事も宿題も消えない。便利なものが目の前にあるのに、使うなと言われる。使わないと終わらない量を出される。
会社も学校も、似たような迷路に入っているのかもしれない。
「まあ、ルールが追いついてないんだろ」
「じゃあ追いつくまで、私たちは不便さに我慢する係?」
「……それは、嫌な係だな」
「でしょ」
美桜は勝ったように笑った。
その笑顔を見ていると、土曜くらいは絶対に空けなければと思った。妹が楽しみにしている予定くらい、ちゃんと守りたい。
家を出る時、美桜は玄関まで見送りに来た。
「社畜指数、午後からさらに荒れる見込みです」
「天気予報まだ続いてたのか」
「傘は?」
「持った」
「財布は?」
「持った」
「土曜の約束は?」
「覚えてる」
「OK。行ってらっしゃい」
その言葉に、胸が少しだけ軽くなった。
◇
通勤電車の窓の外には、灰色の雲が広がっていた。吊り革につかまりながら、ぼんやりと流れていく街並みを眺める。
やがて線路沿いに、とある総合病院の建物が見えた。
普段なら、あえて見ないようにしている景色だった。視線を逸らしてしまえば、それで済む。けれど今日はなぜか目が離せなかった。
建物が見えた瞬間、胸の奥がわずかに強張る。
両親が事故に遭ったあの日、搬送された病院だった。
降りしきる大雨の日の記憶が頭をよぎる。
警察からの電話。病院の白い廊下。濡れた靴。消毒液の匂い。びしょ濡れのまま、泣きじゃくりながら俺の袖をつかむ中学生の美桜。
あの日、俺は泣かなかった。
いや、泣けなかった、の方が正しい。
俺まで泣いたら、美桜が本当に崩れてしまう気がした。だから、役所の手続きをして、親戚に連絡して、葬儀の話を聞いて、悲しみを忘れるかのように全部を順番に処理した。
あの日から、俺の将来の予定表には、最初に美桜の名前が入るようになった。
自分のことは、予定表の空いている欄に書けばいいと思っていた。
そして気づけば、その欄はずっと空白のままだった。
しかし、会社に着いた途端、空白どころか予定表はすぐに「早瀬、これも頼む」の一言で埋まった。
「早瀬、これも見といてくれ」
デスクに置かれた資料の束を見て、俺は黒田課長に一応聞いた。
「今日中ですか?」
「できれば午前中」
できれば、という言葉は、会社では命令形に分類される。
同僚が申し訳なさそうにこちらを見た。だが、誰も助け舟は出さない。全員、自分の船を沈ませないので精一杯だからだ。
「承知しました」
今日も俺の口は、自動返信機能つきだった。
昼前、社内チャットに通知が流れた。
『生成AI利用に関する注意喚起』
『会社情報を外部AIサービスに入力しないこと』
『AI生成物を業務に使用しないこと』
『違反が確認された場合、懲戒対象となる可能性があります』
俺は昨日の夜の広告を思い出す。
理想のAI恋人。24時間、あなたを肯定してくれる存在。
仕事で使えないAIを、恋人に使うのはセーフなのか……?
心の中でそうツッコんだ瞬間、自分がわりと本気で考えていることに気づいて、少しだけ嫌になった。
会社ではAI禁止。学校でもAI禁止。けれどAIの広告は街にもスマホにも流れてくる。便利なのか危険なのか、味方なのか敵なのか、誰も決めきれないまま、AIという言葉だけが生活の隙間に入り込んでいた。
◇
その日の帰りも、当然のように遅くなった。
家に着くと、美桜はリビングで問題集を開いていた。髪を後ろで雑に結び、赤ペンをくわえたまま俺を見上げる。
「おかえり。社畜指数、予報通り悪化してます」
「そこは外れてほしかったな」
「土曜は?」
「覚えてる」
「ほんとに?」
「ほんとに。駅前のモール。美桜はクレープ選びで30分迷う」
「そこまで覚えてるなら許す」
美桜は満足そうにうなずいた。
「今日のごはん作っておいてあるから」
「ありがと」
「お風呂も入ってね」
「入る」
「ソファ寝落ちは?」
「しない」
「よろしい」
俺は自分の部屋に戻った。
ネクタイを外し、カバンを床に置き、ベッドに腰を下ろす。ポケットからスマホを取り出すと、昨夜の広告から開いた画面がまだ残っていた。
『無料体験:残り6日と23時間』
『あなた専用のAIパートナーを設定します』
その下に、青いボタン。
『設定を開始する』
指が止まる。
恋人をAIで作る。
文字にすると、かなりイタい。誰か(特に妹)に見られたら、しばらく兄としての威厳は帰ってこない。そもそも威厳があったかどうかは別として。
でも、今日あったことを誰かに話したかった。
いつものように仕事を押し付けてくる上司のこと。社内チャットのこと。長らく自分の予定表に残った空白のこと。
美桜には言えない。あいつには大事な受験がある。俺が弱音を吐けば、きっとまた自分の時間を削ろうとする。
だから、誰にも言わなければ。
無料体験だけ
30分だけ
誰にも言わなければ、これはただの深夜の気の迷いで済む。
俺はそう自分に言い聞かせて、設定画面を開いた。




