第1話 終電の窓に映る俺
終電の窓に映った俺は、人生に敗北した中年みたいな顔をしていた。
まだ若い。たぶん若い。少なくとも、免許証の年齢欄だけはそう主張している。
けれど窓ガラスの向こうの男は、よれたスーツに緩んだネクタイ、充電残り3%のスマホを握りしめた、どこからどう見ても疲れ切った社畜サラリーマンだった。
車内には、似たような顔の会社員が並んでいる。吊り革に体を預けて眠る人。膝の上でノートPCを開いたまま固まっている人。スマホを見ながら、魂だけ先に帰宅していそうな人。
俺、早瀬悠真は今日も終電帰りだった。
辞めたい。
そう思った気がしたけれど、疲れすぎて思考が曖昧になっている。辞めたいのか、寝たいのか、いっそ異世界に転生したいのか、自分でも判別できない。
電車が揺れた瞬間、昼間の黒田課長の声が脳内で再生された。
「早瀬、悪いけどこれ今日中で」
悪いと思っている人間は、今日中なんて言葉をそんな軽さで投げない。
「若いんだから、多少無理しても大丈夫だろ」
若さを何だと思っているのか。若いから体力が無限にあるわけではない。
押しつけられたのは、同僚の田辺さんが作った営業資料の修正だった。数字は古い。グラフは崩れている。誤字は取引先名にまで到達している。もはや資料というより、Excelで作られた地雷原だった。
田辺さんは「ごめん、子ども熱出してて」と本当に申し訳なさそうに頭を下げた。それを責める気にはなれない。責めるべきは、そういう仕事を俺指名で押し付けてくる上司の方だ。
隣の席の後輩が、小声で言った。
「これ、AI使えば下書きくらいは早いんじゃないですか」
その瞬間、黒田課長は眉をひそめた。
「AI?うちは禁止だ。情報漏洩したら誰が責任取るんだ」
そのあと課長は、俺の肩を叩いて言った。
「責任持って直してくれ」
AIは責任を取れないから禁止。俺は責任を取れるから残業。なるほど、この理屈なら、俺の残業時間はまだまだ増やせるらしい。
社内掲示板にも、でかでかと通達が出ていた。
『生成AIサービスの業務利用については、情報漏洩、著作権、コンプライアンス上の観点から原則禁止とします』
原則禁止
そのくせ、納期は短く、人数は増えない。効率化は求められるが、その最たる手段は奪われる。
なのに、どうやって今日中に仕上げろというのか。
まるで禅問答のように答えが見えない。
結局、定時を過ぎても俺の机の上は昼間みたいに明るかった。蛍光灯は白く、周囲の席の明かりは一つずつ暗くなっていく。帰り際の同僚が「お先に失礼します」と言うたびに、俺の中の何かが少しずつ削れていった。
別に、誰かが悪人なわけじゃない。田辺さんには事情がある。後輩には権限がない。黒田課長にも、たぶん上からの圧力がある。
だから都合よく使える俺が、全部飲み込む。
飲み込み続けた結果、胸の奥には言葉にできない疲れだけが積もっていく。それが何なのかは、あまり考えないようにしている。
終電の中で、スマホが震えた。
『ごはん温めておく? それともお兄ちゃんごと温める?』
妹の美桜からだった。
思わず口元が緩み、俺は慌てて手で隠した。終電で一人にやける男は、社会的にだいぶ危ない。
『ごはんだけでお願いします』
『お兄ちゃんは要冷蔵だから?』
『人を傷みやすい食品みたいに言うな』
『でも今日も鮮度悪そう』
相変わらず容赦がない。
早瀬美桜。18歳の高校3年生。俺の妹であり、この世で俺の生存確認をする唯一の人間である。口は悪いが、たぶん優しい。たぶん、というのは、優しさがだいたい毒舌に包まれて届くからだ。
最寄り駅から10分ほど歩き、古い一軒家の玄関を開けると、美桜が作った味噌汁の匂いがした。
「ただいま」
小さく言うと、リビングの方から物音がした。
美桜がソファから顔を上げる。制服ではなく部屋着で、テーブルには英単語帳と模試の問題集が広がっていた。眠そうな目なのに、俺の顔を見た瞬間、妙に鋭くなる。
「先に寝てろって言っただろ」
「顔色確認するまで寝られません」
「俺は入荷した鮮魚か」
「鮮度落ちてるよ」
「じゃあ返品できる?」
「賞味期限切れてる」
相変わらずの毒舌。だが、そのやり取りだけで、胸の奥が少し軽くなった。
美桜は立ち上がり、台所を指さす。
「ごはん、ラップしてある。味噌汁は鍋。温めて食べて」
「ありがとな」
「お風呂も入って。ソファで寝たら、明日の味噌汁の具、全部わかめにする」
「地味に嫌な罰だな」
「あと、無理してない?」
不意に声の温度が変わった。
俺は答える前に、テーブルの端を見た。小さな仏壇。父さんの湯呑み。母さんが使っていた花柄の茶碗。家族写真の中で、四人はまだ笑っている。
親父と母さんがいなくなってから、この家の夜は少し広くなった。広くなったぶん、美桜の声だけがやけに響く。
両親を失った交通事故から3年。大学を辞めて働き始めた理由を、俺は誰かに説明したことがほとんどない。説明すると、妹を必死に養うためだったなんて、立派な兄みたいに聞こえてしまうからだ。
いや、違う。
俺はただ、他にやる人間がいなかったから働いているだけだ。
「無理はしてない」
「嘘」
「社会人ってのはだいたい嘘で固められた生き物なんだよ」
美桜は納得していない顔をしたが、それ以上は言わなかった。
「……おやすみ、お兄ちゃん」
「おやすみ」
美桜の部屋のドアが閉まる。
一人になったリビングで、俺は夕飯を食べた。冷めた焼き魚をレンジで温め、味噌汁をすすり、母さんの茶碗をあまり見ないようにしながら、黙々と食べ進めた。
台所の壁には、母さんが貼ったままの古いメモが残っている。味噌は最後に入れること。冷蔵庫の奥のものから使うこと。字は少し丸くて、見ているだけで台所に立つ母さんの姿が浮かぶような、どこか温かい字だった。
父さんの湯呑みは、誰も使わないのに食器棚の同じ場所にある。片づけようと言い出せないまま、3年が過ぎた。
風呂場に入ると、ようやく体から力が抜けた。
シャワーの音が、余計なものを全部かき消してくれる。鏡に映った顔は、終電の窓と同じだった。目の下のクマ。落ちた肩。23歳にしては、だいぶ未来に希望がない。
「……辞めたい」
声は、湯気の中に落ちた。
誰にも聞かせるつもりのない言葉だった。聞かせたところで、何かが変わるわけでもない。明日も黒田課長は無茶を言うし、俺は「承知しました」と二つ返事で仕事をするだけだ。
風呂を出て布団に入っても、眠れなかった。
スマホを開く。SNSのタイムラインには、仕事術、AI絵の炎上、生成AI使用禁止の是非、アプリの広告が流れていく。
そこで、一つの広告が目に止まった。
スマホの画面は、薄暗い深夜の部屋ではひどく眩しかった。薄暗闇の中に小さな窓が開いて、そこだけ別の世界につながっているみたいだった。
『理想のAI恋人を作りませんか?』
鼻で笑った。
いよいよ人類、孤独の外注まで始めたか。
広告の下には、さらに甘い言葉が並んでいた。
『24時間、あなたを肯定してくれる存在』
『初回7日間無料』
無料とは危険な言葉だ。人間は無料に弱い。特に、心が弱っている人間には。
普段なら、すぐに閉じていたと思う。AIを恋人に見立てるなんて、寂しいやつみたいじゃないか。
いや、実際寂しいやつなのだが。
でも、それを自分で認めるのかどうかは別問題だ。
画面の中の少女は、こちらに向かって微笑んでいた。
『おかえりなさい』
たった6文字。
合成された、誰にでも向けられた言葉。
それなのに、胸の奥に引っかかった。
美桜に甘えるわけにはいかない。兄として、あいつを守る側でいなければならない。だから、たまには誰かに、兄でも社員でもない俺のまま「おかえり」と言われたいと思うくらい、許されてもいいんじゃないか。
そう考えた自分が、少し情けなかった。
無料体験だけなら、まあ、どうということはないだろう。
そう思って、俺は画面をタップした。
このことが、これから先の運命を大きく変えることになるなんて、その時の俺は知るはずもなかった。




