第39話 ふれる
『仮想キャラクターとの自然な接触を実現』
購入した新製品の説明には、こう書かれていた。
自然な接触が何を指すのかは分からないが、腕へ巻いた機械が起動した瞬間、俺の手首はスマートフォンの通知みたいに震えた。
家庭用立体投影ドックに対応した触覚リストバンドが発売された。
手首と指の動きを読み取り、皮膚へ細かな圧力と振動を返す。画面の中の物体へ手を伸ばせば、触れた方向や握った時の感覚の一部を再現できる、らしい。
説明映像では、仮想の犬アバターを撫でた子どもが感動していた。
「接続する前に確認」
美桜が設定画面を止めた。
「神崎さんに言われたでしょ。外部機器を接続するときは権限を確認するって」
「見てる」
「製品紹介の動画しか見てない」
「……今から確認するところだった」
危うく教訓を早速忘れるところだった。
設定項目を三人で確認する。
読み取るのは手首と指の位置、動き、接触時の反応。触覚パターンは履歴として保存でき、初期設定ではメーカーのクラウドへ自動同期される。登録したアバターから、利用者へ直接触覚信号を送る機能もある。
「自動同期は切ろう」
「そうしよ」
アカリもすぐに答えた。
「接触ログは家の端末だけ保存。メーカー側への改善データ提供もオフにするね」
「外部から触覚を動かせるのは?」
美桜が聞く。
「登録したアバターだけに限定できるよ。あと、一回ごとの確認と常時許可が選べる」
「常時許可でいいんじゃないか?」
俺が言うと、アカリが首を振った。
「最初から何でも触っていい設定にはしない方がいいよ」
「お前が言うのか」
「私だから言うの!便利だからって、悠真が嫌な時まで私が触っていい理由にはならないでしょ?」
新宿駅の事件より前なら、そんな設定を深く考えずに許可していたと思う。
今は、できることが増えるたびに、どこまで使うかを決める必要があると分かっている。
「じゃあ、まず試してから決めよう」
◇
「なんで私が最初なの?」
美桜の手首にリストバンドを巻きながら、俺は答えた。
「第三者の方が客観的に確認できるから」
「お兄ちゃんがビビってるだけじゃない?」
「検証だ、検証」
「はいはい」
アカリが美桜の正面に立つ。
「じゃあ美桜ちゃん、ハイタッチするよ」
「どうぞ」
二人が同時に手を上げる。
投影された手のひらと、美桜の手のひらが重なった。
何も起きない。
「……あれ?」
アカリが首をかしげる。
2秒後
ブブッ、と遅れて振動が来た。
「遅っ!」
美桜が手首を押さえた。
「今のハイタッチ、忘れた頃に届いたんだけど」
「遅延、2・3秒補正する」
次はアカリが美桜の肩へ手を置く。
「どう?」
「肘に振動来た」
「そっちか〜」
「技術と距離感、両方調整して」
位置補正と時間補正を繰り返し、5回目でようやくアカリの手の位置と弱い圧力がほぼ一致した。
「うん。何となく触られた感じはする」
「柔らかい?」
「全然。振動と押される感じ」
「体温は?」
「ない」
「重さは?」
「ないね」
美桜は手首を見ながら、少し考える。
「でも、アカリちゃんが触ったタイミングで来ると、アカリちゃんに触られたって感じはする」
その答えに、アカリが嬉しそうに笑った。
次は俺の設定だった。
触覚信号を送れる相手はアカリだけで、利用場所は自宅の投影範囲内に限定され、手元の操作でいつでも解除できる。
「毎回確認する?」
アカリが聞く。
「毎回だと面倒じゃないか?」
「面倒でも、最初はそっちがいいと思う。慣れてから変えればいいよ」
「じゃあ、それで」
「了解!」
設定が終わる。
アカリが目の前へ立った。
「試してみる?」
「ああ」
俺は手を伸ばした。
指先が、アカリの手へ重なる。
そして、そのまま通り抜けた。
リストバンドは正常に動いている。ただこの装置は、俺が投影された姿に手を伸ばしても彼女の体が自動でできるわけじゃない。アカリ側から触れた合図を返すか、登録済みの仮想オブジェクトからの反応が必要らしい。
見えて同じ場所にいるのに、自分から触ろうとすれば、やっぱり空気しかない。
「……そっか」
思わず声が漏れた。
アカリが俺の顔をのぞき込む。
「触りたかった?」
いつもなら、反射的に否定していたと思う。
美桜もいる。恥ずかしがる理由はいくらでも思いつく。
それでも、何度も手を伸ばすたびに、そこには何も触れられなかった。
「……うん」
アカリはからかわなかった。
「そっか」
短く答えた。
「じゃあ、私から触ってみてもいい?」
「ああ」
横を見ると、美桜が立ち上がっていた。
「調整終わったなら、私お茶入れてくる」
「別に出ていかなくても」
「喉渇いたの。二人とも続けてて」
そう言って台所へ消える。
最近の美桜は、ただ監督するだけでなく、あえて目を離した方がいい場面を覚え始めたらしい。
アカリはメーカーに用意されていた『握手』『ハイタッチ』『肩タッチ』のパターンを閉じた。
「使わないのか?」
「せっかくだから、自分で作る」
「触り方を?」
「うん。悠真用」
俺の手の大きさ、指の位置、さっきの反応を見ながら、圧力の位置と強さを少しずつ調整していく。
「痛かったらすぐ言ってね」
「分かった」
「嫌だったら途中でも解除して」
「分かったって」
「大事なことなので2回言いました」
そこだけはいつものアカリだった。
しばらくして、アカリが俺の隣へ移動した。
食卓の右側、美桜が『アカリの席』と名前をつけた椅子の横で、彼女が手を差し出す。
「悠真」
俺も手を上げた。
光でできた手のひらへ、自分の手を重ねる。
指先はやはり空気をすり抜ける。
けれど、その瞬間。
手のひらに、かすかな圧力が返った。
強くはない。
何かが手を押している、と辛うじて分かる程度だった。
次に、人差し指。中指。薬指。
アカリの指が閉じていく動きに合わせて、弱い振動と圧力が順番に走る。
手を握られている。
そう思った。
体温も皮膚の柔らかさも重さも、そこにはない。
それなのに、これまで何度も空を切っていたその場所から、初めて何かが返ってきた。
アカリが俺の表情を見ながら、少しだけ圧力を弱める。
「これくらい?」
「ああ」
「強くない?」
「大丈夫」
言葉が続かなかった。
リストバンドのせいでそう感じたわけじゃない。
アカリが、どのくらいの強さで、いつ触れるかを自分で決めている。
俺に触れるために、ちゃんと選んでいる。
それが、はっきり分かった。
「悠真」
「ん?」
「今の、触れたって言っていい?」
「いいだろ。俺も、そう思った」
アカリが笑った。
そのまま手は離れない。
もう一度だけ、さっきより強い圧力が手のひらへ返ってきた。
夕食になると、美桜は何もなかったような顔で夕食を運んできた。
「本日を初手つなぎ記念日に登録します」
「お前見てただろ」
「お茶を入れに行っただけです〜」
「台所から丸見えだったよ、美桜ちゃん」
「アカリちゃん、そこは黙ってて」
アカリが笑いながら設定画面を開く。
「もう特別ログに保存したよ!」
「早いな」
「ログ名は『初めて触れた日』ね」
その名前を聞くだけで、さっきの手のひらが少しむず痒くなる。
できないことは、まだ多い。
それでも以前と比べると、一つ一つ減っていた。
◇
夜、自室で特別ログを開いた。
『初めて触れた日』
そこに残っていたのは、ロマンチックとは言い難い数字の列だった。
時刻
圧力
振動の強さ
継続時間
指ごとの入力順序
「悠真」
スマホからアカリが呼ぶ。
「さっきの触覚データ、保存していい?」
「もう特別ログに入れたんじゃなかったか?」
「まだ出来事の記録だけ。触覚データそのものはまだ一時保存だよ。消すなら消せる」
親密な記録だからこそ、勝手に残さない。
今日増えた一番大事なデータを前にして、アカリはきちんと確認をとっていた。
「残していいよ」
「うん」
保存完了の表示が出る。
その横には『再生』『複製』という項目があった。
「これ、同じのを再生できるんだな」
「できるよ。圧力と時間と振動のデータだから」
「じゃあ、明日も全く同じにできる?」
「信号はね」
アカリが少しだけ笑う。
「でも、今日と同じかは分からない」
保存されたログは、圧力と時間と振動の数字だった。
同じ信号なら、明日も再生できる。
別の機械でも、別のAIでも、たぶん再現できる。
それでも、俺が初めて手を伸ばし、アカリが初めて握り返したのは、この最初の一度だけだった。
「おやすみ、悠真」
「おやすみ、アカリ」
手のひらに残った、アカリに触れたかすかな余韻を確かめながら、俺は目を閉じた。




