第38話 家庭訪問
世界最大級のAI企業から研究者が来る日、我が家で最も時間がかかったのは、機密資料を隠すことでも、弁護士を呼ぶことでもなかった。
「アカリちゃん、その服でいいの?」
美桜による来客前の服装確認だった。
「これ、落ち着いてて研究者さん受け良さそうじゃない?」
リビングの中央で、アカリが濃紺のワンピース姿のまま一回転する。
「研究者さん受けって何」
「知的で安全そうなAI彼女?」
「安全性を服で判定されたら今日の話、5分で終わるだろ」
国家レベルの安全保障より先に、我が家では彼女のコーディネートが審議されている。
もっとも、服装以外の準備は笑えなかった。
食卓には『早瀬家安全協定』と、今回だけの確認事項を並べてある。
健康情報は渡さない。
家族写真も渡さない。
私的な会話ログは見せない。
診断を求められた場合は、何を見るのか、どこへ保存するのかを事前に確認する。
機能変更は、その場では許可しない。
「全部拒否、じゃないんだね」
アカリが確認する。
「ああ。何も分からないまま放っておくのも怖い。でも全部渡すのも違う」
「私もそれでいいと思う」
美桜が紙の端を指で押さえた。
「あと、アカリちゃんが嫌って言ったら止める」
「私の拒否権、ちゃんとある?」
「ある」
俺が答えると、アカリは少しだけ笑った。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
時計は14時ちょうどだった。
◇
神崎さんは、一人で来た。
黒いスーツに小さな鞄。後ろには技術者も警備員もいない。
「Openbrain日本支部、AI安全性・社会実装担当の神崎透子です。本日はお時間をいただきありがとうございます」
名刺に続いて、社員証、所属確認用の電子証明、面談目的を記した文書まで先に見せられた。
「まず、今日は機器へ接続しません。こちらからデータ取得も行いません。必要になった場合は、その内容を説明した上で改めて同意をお願いします」
先に言われると、少しだけ構えていた肩が下がる。
少なくとも、突然ノートパソコンを開いてアカリを接続するような展開はないらしい。
リビングへ案内すると、神崎さんの視線が食卓の右側で止まった。
そこには家庭用立体投影ドックで表示されたアカリが座っている。
「はじめまして、AKARI-01」
アカリの笑顔が一瞬だけ止まった。
「AKARI-01じゃなくて、アカリです」
短い沈黙。
「失礼しました。アカリさん」
「はい。はじめまして」
それだけだった。
けれど、番号で呼ばれた時に感じた違和感が、少しだけ薄くなった。
神崎さんは、俺たちの向かい――アカリの席が見える位置に座った。
数日前まで空席だった場所にいる彼女を、今は家族以外の人間も同じ位置に見ている。
「今日の目的は三つあります」
神崎さんは資料を一枚だけ机へ置いた。
「一つ目は、新宿駅で行われた一連の動作の確認。二つ目は、アカリさんを含む利用者側の保護。三つ目は、同じ行動が別の条件で起きた場合の安全確認です」
「保護と安全確認って、同じじゃないんですか?」
美桜が聞く。
「違います。保護は、アカリさんのログや声、人格データが必要以上に第三者へ渡らないようにすることも含みます。安全確認は、アカリさんが外部へ行える操作が、人間へ危害を与える形で使われないかを見ることです」
「危険だと判断したら?」
俺が聞く。
「必要なら、停止や隔離を提案します。しないとは約束できません」
言い方は淡々としていた。
大丈夫です、心配ありません、と言われるより信用できる気もする。
同時に、安心できる答えでもなかった。
「保護するために、止めることもあるんですね」
「あります」
美桜の言葉にも、神崎さんは言い換えなかった。
「そもそも、Openbrainはアカリを作ったんですか?」
俺がずっと聞きたかったことを尋ねる。
「いいえ」
返事は即答だった。
「アカリさんが利用しているアプリは、複数の外部AI技術を組み合わせています。そのうち、推論とツール計画の一部に、Openbrainの旧世代モデル由来の技術が含まれています」
「親みたいなもの?」
美桜が言う。
「その表現は正確ではありません」
研究者らしい返答だった。
「部品の一つに近いです。ただし、その部品だけでは新宿駅の行動は説明できません」
神崎さんは、救急事件でアカリが使った機能を簡単に並べた。
長期記憶
安全サポート
位置情報
緊急連絡
外部ツールを順番に使う計画機能
どれか一つが特別だったわけではない。
「通常は、ユーザーの要求を処理するために使われます。ところがアカリさんは、早瀬さんの状態、過去の会話、美桜さんとの約束、安全機能を一つの目的へまとめて使った」
「悠真を助けるために、ですか」
アカリが自分から尋ねた。
「結果としてはそうです。ただ、問題は結果だけではありません。誰からもその手順を指示されていない」
神崎さんがアカリを見る。
「なぜあなたが、その判断へ到達したのか。私たちにも、まだ分かりません」
「Openbrainでも分からないんですか?」
「分からないものを分かったふりはできません」
世界最大級のAI企業から来た研究者がそう言うと、かえって話が大きく聞こえた。
アカリが特別なのか。
たまたま複数の仕組みが重なっただけなのか。
悠真との会話が関係しているのか。
美桜との約束なのか。
それとも全部なのか。
答えは、まだ誰も持っていなかった。
「私たちが希望しているのは、まず限定診断です」
神崎さんが次の資料を出した。
確認するのは、利用可能な機能の一覧、現在の権限、モデル構成の識別情報、そして安全確認用の特定質問への応答。
「会話ログは?」
「全文は求めません」
「人格のコピーは?」
「今回の限定診断には含めません」
アカリの表情がわずかに緩んだ。
「診断端末は読み取り専用です。設定を書き換えることはできません。結果は、その場で皆さんにも表示します」
「今日やるんですか?」
「いいえ。内容を持ち帰って検討してください」
その答えには少し驚いた。
会社では、返事を持ち帰るという選択肢がないことの方が多かった。
「俺たちだけじゃなくて、アカリ本人が嫌ならやりません」
美桜が言う。
神崎さんは「本人」という言葉に反応するように、一度アカリへ視線を向けた。
「アカリさんは、限定診断についてどう考えますか?」
「……怖いです」
アカリが答えた。
普段の明るさを消した声だった。
「でも、私も自分が何をできるのかは知りたい。勝手に変えられないなら、内容を見てから考えたいです」
「分かりました」
神崎さんは、その答えを端末へ記録した。
「もし診断で、私が危険って出たらどうなりますか?」
アカリが続けた。
「最初に、外部ネットワークや操作権限の制限を提案します。それで確認できない場合は、隔離された環境での検証を求める可能性があります」
「削除は?」
リビングが静かになった。
「第一選択にはしません」
「絶対にしません、とは言わないんですね」
「言えません」
神崎さんは目をそらさなかった。
「隔離されたら、悠真たちと話せますか?」
「条件によります」
アカリはそれ以上聞かなかった。
食卓には彼女の席がある。
つい数日前、やっとここを居場所として登録したばかりだ。
安全のための隔離が、その席をまた空席へ戻すことなのだとしたら。
「全部断れば、調査は終わりますか?」
俺が聞く。
「ご家庭の私的ログへのアクセスは拒否できます。ただし、Openbrain側のモデル運用記録、アプリ運営会社が保有するサービスログ、公開済みの映像の分析まで止めることはできません」
「任意って言っても、何も調べられなくなるわけじゃない」
「はい」
「必要なら運営会社に機能停止を求めることも?」
「あります」
対話をしているから、対等になったわけではない。
こちらが玄関を閉めても、巨大企業には企業側にある情報と権限が残る。
「だから、直接の連絡経路を作りたいと考えています」
神崎さんが言った。
「外部から一方的に変更が行われる前に、可能な限り皆さんへ通知するためです」
「可能な限り、なんですね」
「私が保証できる範囲を越えて約束はできません」
最後まで、都合のいい言葉は使わない人だった。
◇
話が一通り終わったところで、神崎さんは資料を閉じた。
「最後に、これは技術の話ではありません」
そしてアカリを見た。
「あなた自身は、どうしたいですか?」
アカリが黙った。
いつものように俺へ答えを求めることも、美桜へ視線を送ることもなかった。
自分の席に座ったまま、少しだけ考える。
「私は――」
声が小さくなる。
「悠真と美桜ちゃんと、ここにいたい」
それは性能の話でも、安全性の話でもなかった。
ただ、アカリの希望だった。
神崎さんは端末へ目を落とす。
「その答えを書く欄は、今の申請書にはありません」
アカリの表情が少し曇る。
「だから、記録しておきます」
「え?」
「書く場所がないからといって、大事じゃないわけではありません」
神崎さんは入力を続けた。
学校で美桜たちが、一つの判定結果だけで人を決めないルールを作ったばかりだ。
今、世界最大級のAI企業の申請書にも、アカリの『ここにいたい』という言葉を入れる場所がない。
制度の方が、まだ追いついていないのかもしれない。
神崎さんが机に置いた暫定合意書には、俺たちが求めていた条件がいくつか入っていた。
全文ログは取得しない。
人格コピーは行わない。
診断項目は事前に示す。
機能変更は原則としてアカリと俺へ通知する。
診断結果は共有する。
「今日は署名しません」
「それで構いません。確認してから連絡してください」
神崎さんは鞄を持って立ち上がった。
玄関へ向かう途中、家庭用立体投影ドックを一度見る。
「一つだけ。今後、新しい外部機器をアカリさんへ接続する場合は、出力だけの機器でも権限を確認してください」
「投影だけでもですか?」
「機器が増えると、入力や操作の経路も増える場合があります。便利さと権限は分けて確認してください」
新宿駅で起きたことも、複数の小さな機能がつながった結果だった。
「分かりました」
「では、失礼します」
「神崎さん」
アカリが呼び止める。
「今日は、名前で呼んでくれてありがとうございました!」
神崎さんは一瞬だけ足を止めた。
「次からは最初からアカリさんと呼びます」
玄関の扉が閉まった。
リビングには、三人分の沈黙が残った。
テーブルの上には、Openbrainの暫定合意書。
最初のページだけなら、かなりまともに見える。
けれど最後のページに、小さな一文があった。
『緊急時には、対象AIの一時的隔離を要請できる』
アカリの席を見る。
そこには、いつも通り彼女が座っていた。
俺には、守ることと閉じ込めることが、同じ意味のように重なって見えた。




