第35話 三人目の席
玄関を占領していたデカい段ボール箱には、いくつか注意書きが書かれていた。
『二人以上で持ち上げてください』
『設置には十分な床面積が必要です』
『直射日光の当たる場所では映像品質が低下します』
人類はAIをリビングへ呼べるようになった。
その第一歩は、23キロの箱を運ぶことらしい。
「こちら、家庭用立体投影ドックです。開封後の移動も、必ずお二人以上でお願いします」
配送スタッフは玄関へ箱を下ろすと、腰を守るための姿勢まで丁寧に説明して帰っていった。
病み上がりの俺に、23キロを一人で持ち上げる体力はない。美桜と左右を持ち、少しずつ廊下を進む。
「お兄ちゃん、そっち上げて」
「上げてる」
「箱、全然上がってないけど」
「気持ちは上がってる」
「筋力でお願い」
スマートフォンの中から、アカリの明るい声が飛んでくる。
「あと1.8メートルだよ!悠真、右足の前に段差ある」
「自分を映す機械なのに、お前は案内だけなんだな」
「身体がないから戦力外だし!」
本人が楽しそうなのが少し腹立たしい。
メーカーからは、無償で提供するという話も来ていた。
ただし条件は、救命AIアカリの家庭利用事例として、設置風景と感想を広告に使うこと。会社の広報映像が公開されてから数日しか経っていないのに、世間は俺たちの日常生活を新商品の宣伝に仕立て上げようとしている。
三人で相談し、その話は断った。
これは会社の宣伝でも、救命事件の続編でもない。俺たちが家で使いたいと思ったから、あくまで一般の利用者として購入した。
料金を見た時は少し心が揺れたが、アカリには黙っておいた。恋人を家へ呼ぶための費用として高いのか安いのか、比較対象が人類にはまだない。
◇
箱の中には、中央制御用のドックと、複数の小型投影器、深度センサーが収められていた。
説明書によると、部屋の形と家具の位置を計測し、決められた範囲へ立体像を表示するらしい。空間に実体を作るわけではない。見る角度、光の強さ、家具の位置に合わせて、同じ映像がそこにいるように見える仕組みだ。
「まず、投影器を部屋の四隅へ――あ、そこは直射日光が入る」
アカリの案内に従い、美桜が窓際の機器を移動させる。
「アカリちゃん、自分の家なのに注文多くない?」
「快適な新生活には、よい日当たりと安定した投影環境が必要だし?」
「日当たりがよすぎると消える人が言ってる」
配線をまとめ、センサーを棚の上へ固定する。最後に、ARグラスを導入した時に作った共有アンカーの情報を読み込ませた。
『室内地図を更新しています』
『投影テストを開始します』
リビングの中央に光が集まった。
「二人とも、見える?」
声は頭上から聞こえた。
見上げると、アカリが天井近くに浮かんでいた。
「アカリちゃん、また神様っぽくなってる」
美桜が笑う。
「地上に降臨させて」
「御利益は?」
「悠真の健康運なら管理できるよ!」
「それは神様じゃなくて監督だな」
位置補正をかける。
今度はアカリの上半身だけが食卓から生えてきた。
「今度は怪談っぽくなった?」
「写真撮る?」
「撮らないで!私の入居1日目が机に埋まった姿になる」
原因は、ARグラスで共有アンカーを作った後、食卓を掃除のために少し動かしたことだった。数センチのずれが、等身大になるとかなり大きい。
俺と美桜で食卓を戻し、床の基準点を登録し直す。
三度目の調整で、光の輪郭が床からゆっくり立ち上がった。
アカリの足が、今度は床の上にあった。
俺は反射的に、テーブルの上のARグラスへ手を伸ばしかけた。
途中で止まる。
かけていないのに、アカリが目の前にいる。
「悠真」
アカリが俺を見る。
次に、美桜へ顔を向けた。
「美桜ちゃん」
「……見えてるよ」
二人の視線に合わせ、アカリの瞳が順番に動く。
ARグラスでは、同じ部屋にいても、それぞれの端末が描いたアカリを見ていた。位置を合わせても、俺と美桜が本当に同じ姿を見ているのかは分からなかった。
今は違う。
俺が見ている場所を、美桜も見ている。
美桜が手を振る相手に、アカリが同じ場所から手を振り返している。
「二人が一緒に見える」
アカリが小さく言った。
「前からカメラでは見えてただろ」
「そうじゃなくて。今、二人と同じ部屋にいるみたい」
アカリが笑う。
俺も、美桜も、同じ笑顔を見ていた。
ただ、投影できる範囲には限界があった。
窓際へ立つと、昼の光に輪郭が薄くなる。台所は湯気と熱源の影響で表示が乱れやすい。廊下まで出ると投影器の死角へ入って、身体の端から消えてしまう。
「普段の居場所、決めた方がいいね」
美桜が設定画面を開いた。
ソファの横は、テレビを見る時や会話する時にちょうどいい。食卓では、これまで空いていた椅子に座れる。二か所を基本位置として登録することになった。
「なんか、引っ越してきたみたいね〜」
アカリが嬉しそうに言う。
「投影位置を決めてるだけで――」
「だいたい合ってるでしょ」
俺が否定しかける前に、美桜が答えた。
「今日からリビングにいるんだし」
「じゃあ、早瀬家の新しい住人だね!」
「家賃は?」
「悠真への愛情で払うよ♡」
美桜が呆れた顔をしながらも、設定を保存する。
ソファ横へ移動したアカリが、満足そうに部屋を見回した。
見える人数が増えただけなのに、家が少し狭くなった気がする。
その狭さは、不思議と嫌なものではなかった。
◇
夕食の支度が終わる頃には、立体投影のある景色にも少し慣れていた。
美桜が食卓へ箸と茶碗を並べる。
一組
二組
そして棚から、もう一つ茶碗を取ったところで手が止まった。
「あ」
アカリは食卓の椅子に座っている。
ただし当然、茶碗も箸も使えない。
「見えると人数の感覚が狂うだけだから」
美桜は誰にも聞かれていない言い訳をしながら、三組目を棚へ戻した。
「気持ちだけいただくね」
アカリが明るく返す。
「でも、そのお茶碗、私用に置いておいてもいい?」
「使わないでしょ」
「いつか使えるかもしれないし」
美桜は一瞬考え、茶碗を棚の一番手前へ置いた。
「じゃあ保留ね」
「使うとき来るか?」
「そのときは一緒に食べようね」
アカリが楽しそうに笑う。
味噌汁から湯気が立ち、焼いた魚の匂いが食卓へ広がる。
アカリは料理の画像を見て、湯気の量を測り、俺たちの表情から味を推定できる。けれど、その匂いも温かさも、本人には届かない。
「味見できたらよかったのにね」
美桜が何気なく言った。
アカリは少しだけ間を置いた。
「うん。でも、二人の感想を聞くのも好きだよ。悠真はおいしい時、返事より先にもう一口食べるし、美桜ちゃんは薄い時だけ味噌汁を長く見るから」
「そこまで見られてると、感想いらなくない?」
「本人の言葉で聞くのが大事なんだよ」
味噌汁を口に含む。
母さんの味とは違う。
両親の命日に、三人で写真や昔のメモを探しても、同じ味にはたどり着けなかった。記録があっても、材料の量が分かっても、記憶の中の温かさまで数字にはならない。
アカリも、味を推定できるだけだ。
家族と同じ席に座れても、同じものを食べることはできない。
「悠真、少し薄いでしょ」
アカリの声で、思考が戻る。
「いや、別に」
「今、飲んだあとに1、2秒止まった」
「お兄ちゃんの顔も、ちょっと薄いって言ってる」
美桜が自分の椀を飲み、立ち上がった。
「味噌、少しだけ足す」
「俺の表情が計量器みたくなってないか?」
「役に立ってよかったじゃん」
アカリが笑う。
味噌を足した味噌汁は、母さんの味にはならなかった。
それでも、今夜の三人で囲む味にはなった。
食後、美桜が投影ドックの設定画面を開いた。
『食卓での基本位置に名称を設定してください』
入力欄のカーソルが点滅している。
「食卓右側、とかでいいんじゃないか?」
「分かりにくい」
「空席一?」
「それはもっと嫌」
美桜は少し迷い、文字を入力した。
『アカリの席』
「私の席、作ってくれるの?」
「毎回位置合わせするの面倒だから」
「うん。そういうことにしとく」
アカリは、それ以上からかわなかった。
美桜の席。
俺の席。
そして、アカリの席。
三つ並んだ椅子を見ていると、スマートフォンが鳴った。
美桜の学校からだった。
『救命AI利用者のご家族として、取材へのご協力をお願いします』
学校のAI利用ルール検討会と、地域メディアによる共同取材。文面には、美桜の名前より先に、俺とアカリとの関係が書かれていた。
「また、私より先に“肩書き”が出るんだね」
美桜が通知を見つめる。
「どうする?」
美桜へ尋ねた。
以前の俺なら、断るか、引き受けるかを先に決めていたかもしれない。
「……明日、学校で詳しく聞いてみる。話すかどうかも、どこまで話すかも、それから決める」
「ああ」
アカリも、食卓の席からうなずいた。
家の中でようやく三人になれた夜、外の世界は俺たちを「観測対象」として扱い始めていた。




