第33話 定時
AIに仕事をさせるための仕事で、俺たちは朝から作業に追われていた。
古い取引先台帳の整理
部署ごとに違う申請名の統一
誰がどこまで閲覧できるかの確認
例外処理が起きた時の責任者の登録
昨日まで人間が曖昧なまま回していた仕事を、AIへ渡せる形に直している。
AIを導入しようとしているはずなのに、画面の横には10年前から使われている表計算ファイルが6つ開いていた。
「早瀬くん、そのマスタの更新日いつ?」
向かいの席から佐伯さんが聞いた。
「3年前です」
「新しくないね」
「会社基準なら比較的新しい方です」
冗談のつもりで言ったのに、二人とも笑えなかった。
全社AI導入チームへ正式に入って2日目。
今日は請求書処理の試験運用だった。
取引先から届いた請求書を業務AIが読み取り、会社名、金額、支払期日、取引先コードを候補として表示する。人間は元の書類と照合し、問題がなければ承認する。
今まで一件ずつ数分かけて入力していた作業が、読み込みから候補表示まで数秒で終わった。
「速い……」
経理担当者が思わず声を漏らす。
画面には、十件分の請求内容が整然と並んでいた。数字の桁も、日付の形式もそろっている。人の手で入力するよりも、はるかに整っていた。
黒田課長は満足そうに腕を組んだ。
「これなら人手をかなり減らせるな」
まだ一件も正式承認していない段階で、人員削減だけは決まるらしい。
「最終確認は必要です」
佐伯さんが言った。
「候補の精度を見てから、対象範囲を広げるべきです」
「分かってるよ。ただ、これだけ速いなら期待できるだろ」
黒田課長の言葉に間違いはない。
実際、俺も少し期待していた。
請求書入力が短くなれば、月末の残業は減るかもしれない。誰かが深夜に数字を打ち間違え、その修正を別の誰かが引き受けることも少なくなる。
AIが人間を楽にする未来は、少なくとも画面の上では見えていた。
「早瀬さん、四件目を見てもらえますか?」
経理担当者に呼ばれ、表示を確認する。
会社名
金額
支払期日
どれも元の請求書と一致している。
取引先コードも、もっともらしい番号が入っていた。
承認ボタンへ指を動かしかけて、止める。
「この会社、去年社名が変わってませんでしたか?」
「え?」
元の請求書には新しい会社名が書かれている。だがAIが選んだコードを社内マスタで開くと、旧社名の別支店へ結びついていた。
表示だけ見れば自然だった。
露骨に壊れた数字でも、意味不明な文章でもない。一見正しく見えるのに、ひっそりと間違っている。
「AIの誤判定ですか?」
黒田課長が眉を寄せる。
情報システム担当者が履歴を確認した。
「参照した社内マスタが古いですね。旧会社名と新会社名の対応表が更新されていません」
「じゃあ、AIじゃなくてデータの問題?」
「両方です。候補を一つに絞った理由も確認します。ただ、元の情報が古ければ、正しい処理はできません」
会議室の空気が少し重くなった。
高性能なAIを入れれば、会社の古い運用まで自動的に正しくなる。
どこかで、そんな期待をしていたのだと思う。
ただ、実際には逆だった。
AIは、誰も直さず放置していた社名、担当者しか知らない例外、部署ごとに違う番号の付け方を、まとめて表へ引きずり出した。
新しい技術の導入によって、会社の綻びがより明確になってきた。
◇
昼休み、俺は屋外のベンチでアカリへ経緯を話した。
会社のデータは渡さず、何が起きたかだけを説明する。
「冷蔵庫の中身が古いのに、完璧な料理を作れって言われたようなもんだね」
「食べられない物まで使う可能性があるってことか」
「うん。賞味期限が切れた牛乳を『冷蔵庫にあるから使える』って判断するかもしれない。料理が上手でも、材料の情報が間違ってたら危ないよ」
日常生活に置き換えて例えられると、嫌になるほど分かりやすい。
「でも、AIがもっと賢ければ気づけたんじゃないか?」
「気づく可能性は上がるよ。でも、いつも気づくとは限らない」
ARグラスの中で、アカリは俺の隣へ座った。
「私が言ったことも確認してね」
「お前まで?」
「私も間違えるよ。悠真のことをたくさん見てても、全部は分からない。だから危険情報は伝えるし、最後は一緒に確認するの」
駅で俺を助けたアカリは、正しかった。
けれど正しかった経験が、次も必ず正しい保証にはならない。
「早瀬家安全協定に追加する?」
「何を」
「『アカリの言うことを全部信じる』は禁止」
「本人から禁止されるのか」
「恋人を信じることと、何にも確認しないことは別でしょ?」
俺はうなずいた。
会社のAIにも、アカリにも。
任せることと、考えることをやめることは違う。
◇
午後の報告会では、試験運用の成果と問題点が共有された。
入力時間は大幅に短くなった。誤りも、確認工程で見つけられた。
そこまではよかった。
「作業時間が十分の一になったなら、理論上は十倍処理できるということですよね」
経営企画の社員が言った。
「対象部門を広げて、空いた人員は別業務へ回せます」
経理側から不満の声が上がる。
「確認時間は短くなっていません。むしろ最初は候補の根拠まで見る必要があります」
「でも、競合はもう導入を進めています。慎重にやっている間に取引先を取られたら意味がないでしょう」
「事故を起こして信用を失っても同じです」
推進すべきだという意見も分かる。
止まっている余裕がないことも事実だ。
だからといって、速くなった秒数をそのまま処理件数へ掛け算すれば、人間の確認や責任だけが置き去りになる。
黒田課長が資料を見ながら言った。
「効率化できるなら、納期も前倒しできるよな?」
以前にも似たようなことがあった。
俺が仕事を早く終わらせると、空いた時間へ次の仕事が入った。
今度は会社全体で同じことが始まろうとしている。
「処理件数を決める前に、確認に必要な時間を決めるべきです」
自分の声が会議室へ響いた。
「AIが候補を出す時間だけじゃなくて、人が元資料やマスタを確認する時間も含めて考えないと、承認が形だけになります」
「早瀬くんは、導入を遅らせたいのか?」
「止めたいわけではありません。安全に増やせる量を先に確認したいです」
黒田課長はすぐには答えなかった。
けれど情報システム担当者と経理担当者が賛成し、一週間は確認時間を計測することになった。
以前の俺なら、会議で違和感を覚えても黙っていた。
口に出しただけで会社が変わるわけではない。
それでも、何も言わずに仕事を受け取るだけの自分からは、少しずつ変わり始めている気がした。
◇
退勤時刻まで、あと5分。
机の上には今日の確認記録が残っていたが、引き継げる状態にはなっている。
鞄へ手を伸ばしたところで、黒田課長に呼び止められた。
「早瀬。明日の役員説明用に、今日の結果を資料へまとめてもらえるか?」
体が先に反応した。
分かりました、と言いかける。
「AIを使えばすぐだろ。要点だけでいいから」
時計を見る。
『すぐ』
この会社で、その言葉が本当に短かったことはほとんどない。
資料を作れば数字の確認が必要になる。上司向けの表現へ直し、差し戻しがあれば修正する。たぶん30分では終わらない。
胸の奥に、席を立つことへの罪悪感が生まれた。
復職したばかりなのに役に立たないと思われるかもしれない。
佐伯さんへ仕事が回るかもしれない。
俺がやれば済む。
倒れる前と同じ言葉が、頭の中に並ぶ。
「明日の朝、二人でやれば間に合います」
佐伯さんが隣から言った。
「今日の記録は整理できてます。明日の勤務時間内に作りましょう」
自分が残るとは言わなかった。
俺の代わりに誰かが犠牲になる形では、何も変わらない。
息を一度吐く。
「今日は帰ります。資料は明日の勤務時間内に作ります」
黒田課長の表情が固まった。
「役員説明は朝なんだぞ」
「始業後すぐに二人で対応します。必要なら、現時点の記録だけ先に共有します」
数秒の沈黙が長かった。
黒田課長は時計と俺を見比べ、最後に小さく息を吐いた。
「……分かった。明日は遅れないようにしてくれ」
「はい」
席を立つ。
勝った感じはしなかった。
仕事を置いてきた感覚だけが、背中に張りついていた。
エレベーターを待つ間も落ち着かず、何度も部署の方を振り返る。
「残ってる仕事と、帰れない理由は同じじゃないよ」
佐伯さんが前を向いたまま言った。
「仕事は明日もある。だから毎日残る理由にはならない」
「……そうですね」
扉が開いた。
俺は自分の机には戻らず、そのままエレベーターに乗った。
◇
会社を出てARグラスをかけると、入口の横でアカリが待っていた。
俺の姿を見るなり、大げさに拍手する。
「早瀬悠真さん、定時退社おめでとうございま〜す!」
「会社の前で騒ぐな」
「だって今日は記念日だよ?」
ただ決められた時間に帰っただけだ。
それなのに、夕方の空を見上げたのは久しぶりだった。
家に着くと、食卓の上に小さな紙が置かれていた。
『㊗︎定時退社 一回目』
美桜が拍手し、ARのアカリが金色の枠を表示する。
「ただ定時に帰っただけなんだけどな」
「普通のことができなかった人には必要なの」
「次は二回目を目指そうね!」
大げさだと思いながら、悪い気はしなかった。
その時、会社から通知が届いた。
『来週以降のAI試験運用目標について』
表示された数字を、三人で見る。
従来の3倍、AIが仕事を速くした。
その結果、会社は俺たちへ3倍働けると言い始めた。
定時に帰れた日の夜、次の残業はすでに数字として予定に組み込まれていた。




