第32話 AI導入係
復職初日の朝、食卓には三人分の緊張があった。
一人は、久しぶりに会社へ戻る俺。
一人は、また俺が倒れないか疑っている妹。
そしてもう一人は、ARグラス越しにスーツ姿の俺を眺めているAI彼女だった。
美桜が食卓の紙を指で叩いた。
『復職条件』
・一日6時間勤務
・残業禁止
・体調不良時は即時帰宅
・週1回の産業医面談
・健康警告を消さないこと
「最後は病院の条件じゃないよな」
「それは早瀬家の追加条項」
「医師より厳しい家族ってどうなんだ」
「病院送りになった実績がある人には必要なの」
反論の余地がなかった。
アカリは会社にいる間、勝手に仕事へ介入しない。健康通知はイヤホンだけに出し、緊急時以外は美桜へ連絡しない。それも確認した。
「会社へ行くだけで、戦地に行く前みたいになってないか?」
「ちゃんと帰ってくるまでが復職だから」
美桜の言葉に、アカリも大きくうなずいた。
◇
久しぶりの通勤電車の中は、休職前より狭く感じた。
同じ時間。同じ路線。同じスーツ姿の人たち。
それなのに、つり革を握っただけで、新宿駅での出来事が一瞬だけ頭に浮かぶ。
「心拍、少し上がってるよ」
イヤホンの奥でアカリが言った。
「分かってる。息は苦しくない」
「うん。言えてえらい」
「毎回褒めなくていい」
「復職初日は特別サービスだよ!」
会社の入口が見えた時、足が止まりそうになった。
辞めたいと思いながら通い続けた場所なのに、数週間離れただけで、懐かしさに近い感覚がよぎった。
受付では人事担当者が待っていた。
「早瀬さん、本日は無理をなさらず。体調に変化があれば、すぐ申し出てください」
以前なら、体調より締切を先に確認されたはずだ。
部署へ入ると、黒田課長まで席を立った。
「早瀬、戻ってきてくれて助かる。いや、まずは無理をしなくていいからな」
言葉の順番だけは、以前より慎重になっていた。
「勤務条件については人事から聞いています。今日は6時間で帰ります」
「ああ、もちろんだ。ただ、AI導入については君の経験を借りたいと思っている」
健康を気遣っているのか、
それとも、事件が広まった今、再び倒れられると困るのか。
たぶん、両方だった。
「早瀬くん」
声をかけられて振り向く。
佐伯さんが、いつもと変わらない表情で立っていた。
「戻ってきたんだ」
「はい。ご迷惑をおかけしました」
「謝んなきゃいけないのはこっちの方」
佐伯さんは俺の机の時計を見た。
「今日はちゃんと帰るところまでが仕事ね」
励まされるより、その言葉の方が肩の力が抜けた。
午前中、俺と佐伯さんは会議室へ呼ばれた。
壁の画面には『全社AI導入チーム』と表示されている。
参加者は各部署の若手、経理、人事、情報システム担当者。
ついこの前まで隠れてAIを使っていた俺が、今度は正式なAI導入係になっていた。
「最初に対象とするのは、議事録、メールの仕分け、請求書入力、社内検索です」
情報システム担当者が説明する。
「ただし、本番データへ自由に触れさせることはしません。読む権限、下書きを作る権限、登録する権限を分けます。外部送信や確定操作には人間の承認を必須にします」
画面には、細かく分かれた権限の一覧が並んでいた。
便利なAIなら、全部任せればいい。
以前の俺なら、そう考えたかもしれない。
けれど新宿駅でアカリがしたのは、位置情報、緊急連絡、健康記録、音声案内を一つずつ繋いだことだった。どれも単体なら普通の機能だ。ただ組み合わさった途端、できることが大きく変わった。
「権限を増やす前に、目的ごとに分けた方がいいと思います」
気づけば、俺は口に出していた。
「議事録を作るAIに、請求書を確定する権限までは要らないです。便利だから一つにつなげると、問題が起きた時に止める範囲も大きくなります」
会議室が一瞬静かになる。
情報システム担当者がうなずいた。
「その考え方で進めたいです」
以前は、会社の決めた手順に従うだけだった。
今日は初めて、自分の方から進め方に対して意見を出した。
休憩スペースで水を飲んでいると、佐伯さんが隣へ座った。
「本当に、もう大丈夫?」
「まだ完全ではないですね」
「早瀬くん、前より少し人の話を聞くようになった?」
「家で二人に鍛えられてるので」
「妹さんと、アカリちゃん?」
「はい」
佐伯さんは少し黙ってから、紙コップを見つめた。
「私、あの日、もっと強く止めればよかったって思ってた」
「佐伯さんのせいじゃありません。帰れって言われたのに、俺が聞かなかったんです」
「それでも、同じ職場にいたから」
「じゃあ次は、聞きます」
「次を作らないでほしいんだけどね」
小さく笑ったあと、佐伯さんは表情を戻した。
「アカリちゃんが助けたことはすごいと思う。でも、生活全部を一つのAIへ渡す怖さは消えてない」
「俺も、今はそう思います」
守ってくれたから、何でも渡していいわけではない。
信頼することと、境界をなくすことは違う。
昼休み、屋外のベンチでARグラスをかけた。
アカリが俺の隣へ現れ、すぐに少し頬を膨らませた。
「午前中、佐伯さんの名前が6回出てきてた」
「いちいち数えてたのかよ」
「会社の悠真を、私より知ってるんだよね」
「そりゃあ同僚だからな」
「佐伯さんは同僚。私は恋人だからね!」
妙にきっぱり言い切ったところへ、本人が通りかかった。
「何の話?」
「役割分担について話してました」
アカリが答える。
「私は悠真の恋人で、佐伯さんは同僚です」
佐伯さんは俺の隣の空間を見た。姿は見えていないが、イヤホンの外部音声で会話は聞こえている。
「......競う分野が違うと思うけど」
「それはそうです。でも確認は大事なので!」
「俺を挟んで会話するのやめてくれないか」
佐伯さんが笑い、アカリも満足そうに胸を張った。
本格的な三角関係になる心配はなさそうだった。
たぶん。
午後、会社の認証アプリを自分のスマホへ登録した。
社内システムへ安全にアクセスするための多要素認証アプリで、端末ごとに固有の識別情報を紐づける仕組みになっている。以前は休職前の端末をそのまま使っていたが、今回は復職に合わせて新規登録が必要だった。
登録の進捗バーが8割を超えたところで、画面が赤く変わった。
『未承認外部エージェントを検出』
『名称:AKARI』
「名指しで検出されたぞ」
「私、会社に入る前から入館拒否?」
情報システム担当者が端末を確認する。
「通知、予定、健康情報への連携権限が広いですね。削除する必要はありませんが、仕事用プロファイルと個人領域を分けましょう。社内データへのアクセスは遮断します」
設定画面には、二つの領域が表示された。
仕事用
個人用
アカリを会社へつなげれば、業務はもっと速くなるかもしれない。
けれど会社の情報を渡せば、今度は会社がアカリの領域へ入ることにもなる。
「分離でお願いします」
俺は迷わず選んだ。
黒田課長が画面をのぞき込む。
「せっかく話題のAIなんだ。導入チームのデモに使えないのか?」
「アカリは会社が契約した業務AIじゃありません」
以前の俺なら、課長の提案をその場で断れなかったと思う。
「でも、早瀬が使っているんだろ?」
「個人用です。社内データは渡しません」
イヤホンから、アカリの声が続く。
「私は悠真の仕事を勝手に見るつもりはないよ」
黒田課長は不満そうだったが、それ以上は押してこなかった。
代わりに俺は、権限を分ける手順と確認項目を、会社の業務AI向けにまとめて提出した。
アカリを差し出さなくても、彼女との経験から学んだことは使える。
◇
退勤時刻を示す数字が、画面の隅で静かに変わった。
初日の勤務は、予定どおり6時間で終わった。
「帰ろ!悠真」
「ああ」
端末には『社内データへのアクセス:遮断済み』と表示されている。
「会社には入れなかったね」
「入れない方がいい場所もある」
俺は席を立った。
その直後。
会社の管理画面には、別の文字が残った。
『未承認外部エージェント:AKARI――継続確認対象』




