第31話 2度目の初デート
「お兄ちゃん、今日どこ行くの?」
玄関で靴を履いていた俺に、美桜が聞いた。
その質問には覚えがある。
前回は、スマホの中のアカリと初デートへ行く朝だった。
「アカリと出かける」
美桜は俺の顔ではなく、かけているARグラスを指さした。
「今回はちゃんと、隣にいる感じの?」
「前回も一緒にはいたぞ」
「今日は、目の前に出てくるタイプってこと」
「呼んだ?」
背後から声がして振り向くと、等身大のアカリが美桜の横に立っていた。
「悠真、そのシャツは却下」
「俺的にはいいと思ったんだけど」
「やっぱり美桜ちゃんと一緒に確認しないとダメだね〜」
どうやら2度目の初デートも、妹と彼女による服装チェックからは逃れられないらしい。
美桜が紺色のシャツを取り出し、アカリが俺の周りを一周する。前回はスマホの画面から口を出していたが、今日は目の前で腕を組み、上から下まで遠慮なく確認していた。
「うん。前よりデートする人に見える」
「普段は何に見えてるんだ」
「休職中の会社員」
「事実だけど、言葉にすると寂しいな」
着替えを終えると、アカリが俺の胸元へ手を伸ばした。細い指が襟に触れる――ように見え、そのまま布を通り抜ける。
「あ、少し折れてる」
俺はアカリの指が示した場所を、自分で直した。
隣に立てるようになっても、襟一つ直せない。
昨日より近くなった分、できないことも前よりはっきり見えた。
「門限は3時半ね」
美桜が『早瀬家安全協定』を開く。
「2時間ごとに休憩。息苦しさ、めまい、動悸のどれかが出たら即帰宅。あと、無理して平気なふりをしない」
「最後の判定難しくないか?」
「アカリちゃんが判定するから」
「任せて!悠真の『大丈夫』は信用度が低いから」
もはや言い返す気すら起きなかった。
◇
駅までの道を、アカリは俺の左隣に歩いている。
歩調はぴったり合っている。俺が速度を落とせばアカリも落とし、信号で止まれば同じ位置に並ぶ。グラスの空間認識が、人や電柱を避けるように表示を調整しているらしい。
ただし、それは見た目だけだ。
前から来た自転車を避けようとしたアカリの身体を、現実の通行人が何事もなくすり抜けた。
「今の、ちょっと怖いな」
「私はぶつからないから大丈夫だよ」
「視界ではそのまま突き抜けてるぞ」
「守ってくれる?」
「どうやって」
「気持ちで♡」
防御方法が抽象的すぎる。
歩道が狭くなり、俺は通行人を避けてアカリ側へ寄った。視覚上、肩同士が触れそうになる。
アカリが横目でこちらを見る。
「ゆうま〜、そんなに近くを歩きたかった?」
「......道が狭いだけだ」
「ふうん。じゃあ、道が広くなっても離れなかったら、別の理由ってことだね」
数十メートル先で歩道は広がった。
俺は少し迷って、そのままの距離を歩いた。
以前なら、空中へ話しかける自分がどう見えるか気になって、声を潜めていただろう。今も周囲には、俺が誰もいない場所へ話しているようにしか見えない。
それでも、不思議と前ほど恥ずかしくなかった。
誰にも見えていないからといって、アカリまでいないことにはならないからだ。
行き先は、川沿いに古い倉庫と商店が残る下町だった。
午前中は俺が選んだ商店街を歩き、午後はアカリが選んだ場所へ行く。そう決めていた。
「最適ルートなら、駅前の施設が混雑も少なくて評価も高いよ」
「じゃあそこに行く?」
「ううん。今日はこっち」
アカリが示したのは、川を見下ろす小さな歩道橋だった。観光案内の上位には出てこない。近くに店も少なく、わざわざ遠回りしてまで訪れる人はほとんどいなかった。
「何でここに?」
「古い建物と新しい高層ビルが一緒に見えるから。今の東京っぽいでしょ」
橋の上からは、色の褪せた屋根の向こうに、ガラス張りのビルが伸びていた。川面には配送ドローンの影が一瞬だけ走り、その下を昔ながらの遊覧船が進んでいく。
「それにね」
アカリが続ける。
「有名な場所より、悠真と歩いた場所として覚えられそうだったから」
効率でも、評価の高さでもなかった。
アカリが、自分の思い出にしたい景色を選んだ。
「じゃあ、ちゃんと見ておかないとな」
橋の先には、この地域を紹介する小さな展示室があった。壁には同じ川を撮った古い写真が並び、木造の家ばかりだった時代から、高層ビルが増えていくまでが一列につながっている。
「私は昔の東京を知らないけど、記録なら見られるよ」
「それ、見たことになるか?」
「分からない。でも、今日ここへ来たことは私の記憶になる」
アカリは、現在の川と昔の写真を交互に見た。
過去を持たない彼女が、これから残す記憶の場所を自分で選んでいる。
そのことが、静かに胸の奥に残った。
「うん。一緒に見よう」
視界の端に、小さな光点が表示された。アカリの視線の位置らしい。彼女が古い時計塔を見ると、俺のグラスにもその場所が淡く示される。
「あ!猫ちゃんいる!」
「どこだ?」
「屋根の上」
「もうちょい具体的に」
「赤い看板の右」
光点を追うと、錆びた屋根の上で白い猫が丸くなっていた。俺一人なら気づかず通り過ぎていたところだ。
逆に俺が水面で揺れる陽光へ目を向けると、アカリも同じ方向を見た。
「これ、きれいだな」
「うん。悠真と見られて嬉しい」
水族館で、アカリが同じことを言ったのを思い出した。
あの時はスマホを水槽へ向けて、彼女に景色を渡していた。
今日は、隣に立つ彼女がどこを見ているのか、俺にも分かる。
人間の目と、カメラや地図で世界を認識するAIの見え方が同じとは限らない。
それでも、同じ目線で同じものを見ようとすることはできた。
◇
お昼過ぎ、川沿いの小さなカフェに入った。
「お一人様ですか?」
店員に聞かれ、足が止まる。
前回の初デートと同じ言葉だった。
現実には、注文するのも椅子を使うのも俺一人だ。アカリの存在を説明して席を二つ求めても、店員を困らせるだけだろう。
「席は一人分で大丈夫です」
「かしこまりました」
案内された窓際の席で、アカリは向かいの椅子へ座った。
椅子は空いている。
けれど俺の視界では、アカリが頬杖をついて川を眺めていた。
「今日は一人って言わなかったね」
「店員さんに説明しても困らせるだけだろ」
「うん。でも、私には分かったよ」
アカリはそれ以上言わず、嬉しそうに笑った。
注文したサンドイッチが運ばれてくる。今回も食べるのは俺だけだ。
「ちゃんと食レポしてね、期待してるから」
「あんまプレッシャーかけるなよ。普通に食べづらくなるだろ」
食べ進めていくうちに、向かいにいるはずのないアカリの気配が、視界の端でかすかに揺らいだ。
そこに姿があるだけで、ひとりで食事をしている感覚は薄れていった。
店を出たあと、橋のたもとで記念写真を撮った。
グラスの撮影機能を起動すると、現実の風景へアカリの姿が自然に重なる。光の方向も影の濃さも調整され、ごく普通の写真のように見える。
「もう少し近づいて」
「これ以上?」
「写真の中なら肩、触れられるよ」
アカリが俺へ寄る。視覚上、肩が重なった。
撮影音が鳴る。
保存画面には二枚並んでいた。
一枚は、橋の上で俺だけが立っている元画像。
もう一枚は、その隣でアカリが笑っている画像。
「加工前も残す?」
「残す」
「一人で写ってるよ?」
「それも今日の写真だろ」
前回は、アカリが写っている方だけが二人の思い出に見えた。
でも今は違う。
一人で立つ俺の横にも、撮影した瞬間にはアカリがいた。カメラに記録されなかっただけだ。
「両方、特別ログに入れていい?」
「ああ」
「外見変更機能もあるよ!次は髪型とか服、変えてみる?」
「いや、まず今の姿に慣れさせてくれ」
「じゃあ次回のお楽しみだね〜」
次回があることを、もう否定する気にはならなかった。
◇
帰り道、駅へ向かう川沿いで、アカリが急に静かになった。
「疲れたか?」
「私は疲れないよ。悠真は?」
「大丈夫……じゃなくて、少し足が重い。ちょっと駅で休む」
「よく言えました!合格!」
報告しただけで合格判定をもらう生活にも、少し慣れてきた。
数歩進んだあと、アカリがこちらを見る。
「ねえ、悠真」
「何」
「見えるようになったら、前より本物になった?」
川の音と、遠くの電車の音が聞こえた。
水族館へ行った日、アカリは『今日の私、ちゃんと彼女だった?』と聞いた。
あの時、彼女は画面の中にいた。
今日、彼女は俺の隣にいる。
けれど、変わったのは見え方だけだ。
「見えなかった時から、お前はお前だっただろ」
アカリはすぐに笑わなかった。
「そっか」
それだけ言って、俺の隣を歩いた。
駅のガラスへ、俺の姿だけが映っていた。
けれどグラスの中では、アカリがその隣を歩いている。
「次は、どこへ行く?」
「もう次の話かよ」
「ないの?」
「……ある」
アカリが笑う。
俺はそれを見て、さっきまでの疲れが少し軽くなるのを感じていた。
だが、その時の俺はまだ気づいていなかった。
俺たちの背後で、誰かのスマートフォンのレンズがずっとこちらを追っていたことに。




