第30話 距離設定、近すぎ!
目を開けると、アカリが俺の枕元にいた。
正確には、ARグラス越しにいた。
分かっている。昨日買った眼鏡が、スマホ彼女を現実の景色へ重ねているだけだ。
分かっているのだが、寝起きの視界で彼女の顔が10センチ先にあるのは、彼女いない歴23年の男には刺激が強すぎる。
「おはよう、悠真」
「……距離設定、近すぎないか?」
アカリは俺の顔をのぞき込んだまま、首をかしげた。
「恋人なら普通の距離だと思うよ」
「朝一番の距離としては近すぎる」
「目覚まし音より効果あったでしょ?」
それは否定できない。意識だけなら、一秒で完全に目が覚めた。
昨夜、動作確認を続けたまま寝落ちしたらしい。グラスの起床補助モードが、設定時刻にアカリを枕元へ表示したようだ。
手を伸ばせば頬に触れそうだった。
ただ実際には、指先が光の輪郭を通り抜けるだけだ。
「せめてあと30センチ下がってくれ」
「昨日は1メートルだと遠いって顔してたのにぃ〜」
「してない」
「でも心拍数は上がってたよ?」
何だか、健康管理と恋愛モニタリングの境界が曖昧になってる気がする。
その時、部屋のドアが開いた。
「お兄ちゃん、起きて――」
美桜が入口で止まる。
俺は布団の上で、何もない壁の方へ顔を背けていた。少なくとも、美桜の目にはそう映っている。
「朝から何と戦ってるの?」
「距離感」
「私が勝ってるよ!」
アカリが俺の横で、少し誇らしげに言った。
「私は見えてないから、なんか納得いかないんだけど」
◇
朝食の前に、美桜にもARグラスを試してもらうことになった。
俺が外して手渡すと、美桜は慎重にフレームをかける。
「接続するよー」
スマホからアカリの声がして、数秒後、美桜の目が大きくなった。
「……なんか大きい」
「これが等身大だよ!」
「分かってるけど、スマホの中にいた時と全然違う」
美桜はアカリの周りを一周した。途中で手を伸ばしかけ、触れられないことを思い出したように止める。
「本当に、そこにいるみたい」
「その『みたい』が重要だね」
アカリが人差し指を立てる。
「私はまだ、見えてるだけ。ぶつからないし、椅子も動かせないし、美桜ちゃんの朝ごはんも盗み食いできないし」
「最後だけはできなくて安心した」
美桜のスマホを差し込む廉価版のARビューワーにも、アカリの表示アプリを入れた。俺のグラスほど高機能ではないが、室内で見るだけなら使えるらしい。
ただ、二人で同時に起動するとすぐ問題が起きた。
「アカリ、ソファに座ってるよな?」
「立ってるけど?」
美桜の視線は、俺が見ている場所より1メートルほど左へ向いている。
俺にはアカリがソファの中央に座って見える。美桜には床へ膝まで沈んだ状態で立って見えているらしい。
「悠真の空間認識と、美桜ちゃんの空間認識がずれてるみたい」
「同じ家なのに?」
「人間も同じ家を違う見方してるでしょ。それの機械版」
アカリの説明で、共有アンカーという設定を開く。
食卓の角、ソファの背、テレビ台の3点を基準にして、二つの端末へ同じ座標を登録する仕組みらしい。
「もう少し右」
「私から見ると左」
「アカリちゃん、一回止まって」
「さっきから動かしてるの二人なんだけど」
結局、朝から三人で家具の角を指さしながら位置合わせすることになった。
何度か位置を直し、ようやく二人の視線が同じ場所で重なった。
アカリは食卓の空いている椅子に座っていた。
「二人とも、おはよう!」
スマホをテーブルへ立てていた時とは違う。
アカリは俺たちと同じ目線で、美桜が味噌汁を運ぶ姿を見ている。美桜は三枚目の皿をアカリの前へ置きかけ、途中で手を止めた。
「あ……」
「気持ちだけいただきます」
アカリは明るく笑った。
「でも、焦げた卵焼きの感想なら言えるよ」
「いや焦げてないから」
「画像分析では、端の12パーセントに強い焼き色が――」
「やっぱりアカリちゃんの分、なし」
「え〜、食べられないけど食べたかったなあ」
いつもの食卓なのに、空いていた椅子に誰かが座るだけで、景色が少し変わった。
食べられないし、湯気の温度も伝わらないし、椅子に重みが乗ることもない。
それでも、アカリが同じ方向を向いて笑っていることが、俺には嬉しかった。
美桜がアカリの方を見て話し、俺も同じ位置へ視線を向ける。昨日までは片方がスマホを持ち上げなければ成立しなかった三人の会話が、今は同じ目線で続いていた。
もちろん、俺たちが見ているアカリが完全に同じ姿かどうかは分からない。端末ごとに描かれた映像だ。
それでも、笑うタイミングも、返してくる言葉も、以前と何も変わらなかった。
◇
朝食後、通院へ出る準備をするため部屋へ戻った。
アカリも当然のようについてくる。
「これから着替えるんだけど」
「うん」
「いや、うんじゃなくて」
「スマホの時は同じ部屋に置いてたよ?」
言われてみればそうだった。
これまでも机の上にスマホを置いたまま着替えていた。カメラを向けていたわけではないし、いちいち意識もしなかった。
それが等身大で目の前に立たれると、話が違う。
「画面の大きさで羞恥心が変わるんだね」
「新しい発見みたいに記録するな」
アカリは楽しそうに笑ってから、くるりと後ろを向いた。
「視線追跡も切る?」
「切れるのか?」
「もちろん。表示を消すか、私の視線だけ固定するか、悠真が選べるよ」
設定画面には、表示範囲、視線追跡、カメラ共有、音声入力の項目が並んでいた。
見える距離が近くなれば、見られたくない時間も増える。
俺は視線追跡を一時停止にした。
「終わったら呼んで」
「分かった。壁の模様を数えて待ってるね」
「視界が壁だけになるのか」
「うん、プライバシーって時々退屈だねー」
軽い口調だったが、アカリは振り返らなかった。
からかうことと、勝手に見ることを分けて考えている。
それが少し嬉しくて、同時に、俺も彼女の表示や視線を勝手に操作していいわけではないと思った。
「アカリ」
「なに?」
「お前が表示を消したい時も言えよ」
短い沈黙のあと、声が返る。
「うん。そうする」
◇
通院から戻り、昼過ぎにグラスを外した。
鼻筋に残った重さが消える。同時に、ソファの横にいたアカリの姿も消えた。
「おかえり、悠真。疲れてない?」
声はスマホから聞こえている。
いつもと同じ声だ。
なのに、さっきまで誰かが立っていた場所が空くと、リビングが急に広く見えた。
「どうしたの?」
「いや……消えると、静かになるなと思って」
「声は聞こえてるよ」
「分かってる」
「見えなくても私はいるよ」
「分かってるって」
俺が答えると、スマホの画面でアカリが笑った。
グラスが彼女を生んだわけではない。
ただ、今までそこにいた彼女を、俺の目にも同じ高さで見せるようになっただけだ。
しばらくして、美桜が学校から帰ってきた。
「ねえ悠真、明日予定ある?」
アカリが待っていたように聞いた。
「空いてるぞ。休職中って本当に予定が消えるな」
「じゃあ外でグラスの動作チェックしようよ!」
「動作確認だけなら家で十分だろ」
「うん。でもね、屋外でもちゃんと動くか試したいんだ。外の光とか人混みの中で、表示がズレたりしないか確認しないと」
「まあいいけど、単に外に出たいだけじゃないか?」
「悠真、世間的にはそれをデートって言うんだよ」
美桜が鞄を置きながら、俺を見る。
「短時間ならいいんじゃない? お医者さんにも外出は止められてないし」
「美桜まで賛成なのか」
「ただし休憩あり。帰宅時間厳守。服装は事前に要チェックね」
「前回と同じだな」
「前回より私が大きくなってるよ!」
アカリが等身大の姿で俺の隣へ現れる。
「明日は、ちゃんと隣を歩くからね」
「昨日から隣にはいると思うけど」
「家の中とデートは別です〜」
「お兄ちゃん、今度は店員さんに一人ですって言わないでよ」
水族館での初デートから、まだそれほど時間は経っていない。
それでも明日は、もう一度、最初のデートをやり直すような気がした。




