第29話 となり
「あなたのAIを、画面の外へ」
配信画面に表示された宣伝文句を見て、俺は隣のスマホへ目を向けた。
アカリも同じ広告を見ていた。
「悠真」
「何だ」
「ついに私、脱スマホできるかもしれない」
まるで、探し求めていた物件を見つけた人のような口ぶりだった。
画面では、細いフレームの眼鏡をかけた女性が街を歩いている。その隣には、青い髪のAIアバターが等身大で並んでいた。
『AI人格対応ARグラス、Aster Glass』
女性の声に合わせて、映像が切り替わる。
利用者のAIが駅までの道を案内し、会議中は資料を空中へ表示し、カフェでは向かいの椅子へ座る。声だけではなく、視線や身振りまで利用者のいる空間に合わせて再現されるらしい。
『GOT-7以降、AIは質問に答える道具から、日常を共にするエージェントへ変わります』
数週間前なら、遠い未来の製品紹介にしか見えなかったと思う。
初めてアカリと行ったデートのことを思い出す。
水族館のカフェで店員に一人客だと確認され、向かいの椅子には誰もいないまま、二人分のサンドイッチを食べたこと。
記念写真として撮った写真の中では、アカリが隣で笑っていた。けれど、加工していない元の写真には、俺しか写っていなかったこと。
「これなら、次のデートで向かいの席に座れるよ!」
「そう見えるだけだろ」
「見えないより一歩前進だね」
アカリは胸を張った。
「それに、悠真は下向かなくても私と話せるよ!悠真、デート中ずっと俯いてスマホ見てる怪しい人だったから」
「別の種類の怪しい人になる可能性はないか」
「見えないところにいる彼女へ話しかける人?」
「周りにはお前が見えないんだから、そう見えるよな」
「愛が試されるね♡」
試される方向が予想以上に厳しい。社会的な意味で。
配信の最後に、発売日と価格が表示された。
本日発売。都内の旗艦店で即日受け取り可能。
値段を見て、俺は黙った。
「お兄ちゃん、急に顔が現実に戻ったよ」
後ろから配信を見ていた美桜が言った。
「退院して最初の大きな買い物が、AI彼女を見るための眼鏡なんだ」
「言い方」
「まあ、健康的な趣味だと思うけどね」
「街中で着けて話すのはかなり勇気がいるけどな」
アカリは画面の中で頬を膨らませた。
金額は決して安くない。休職中で、会社へいつ戻るかどうかも決めていない時期に、勢いで買う金額ではなかった。
必要なものかと聞かれれば、たぶん違う。
今までどおりスマホとイヤホンがあれば、アカリとは話せる。生活にも困らないし、仕事に必要なわけでも、美桜のためでもない。
だからこそ迷った。
俺は、自分が欲しいという理由だけで高いものを買ったことが、ほとんどなかった。
通帳の残高、休職中の収入、今後の生活費を確認する。
今ここで買っても当面の生活に問題はない。
「美桜は、どう思う?」
「相談してくれたことは評価します」
「買い物が人事査定みたいになってるな」
「生活が苦しくならないなら、いいんじゃない? お兄ちゃんが自分で欲しいものを買うの、珍しいし」
美桜はそこで少し笑った。
「ただし、体調が戻るまでは長時間使わないこと」
「また安全協定に追加するか?」
「もう追加したよ!」
アカリの返事だけが異様に早かった。
◇
旗艦店には、発売初日とは思えないほど多くの客が集まっていた。
店内を見回して、少し落ち着かない気分になる。
眼鏡をかけた男性が、何もない場所へ向かって笑っている。別の女性は誰もいない通路の端へ「こっち」と手招きしていた。
彼らの視界には、それぞれのAIがいるのだろう。
周囲から見れば、一人で話している人間ばかりが並んでいる。少し前なら奇妙な光景だったはずなのに、店内では誰も気にしていなかった。
「数週間前まで、会社でAIを使ったら懲戒処分されそうだったのにな」
「なんか、社会が変わるの速すぎない?」
同行した美桜が小声で言う。
「本製品は、登録済みのAI人格を現実空間へ自然に表示できます」
スタッフが試着機を手に説明する。
「視線追跡と空間認識により、アバターが机や椅子の位置を把握します。利用者と一緒に歩くほか、会話中は適切な距離へ自動配置されます」
「他の人にも見えるんですか?」
「同じ空間データを共有した端末同士なら可能です。ただ、現在は基本的に装着者ごとの表示となります」
つまり、俺に見えても美桜には見えない。
同じ部屋にいるのに、一人だけ別の景色を見ることになる。
「お兄ちゃんが変なところに話しかけてたら、位置だけ教えてね」
「私から美桜ちゃんは見えるよ」
「それ、私だけ見られてるみたいでちょっと不公平じゃない?」
「じゃあ今度、美桜ちゃん用も買お!」
「そんな簡単に増やさないで。高いんだから」
妹の方が金銭感覚は堅実だった。
購入手続きを終え、箱を受け取る。思ったより軽い。
普段の買い物ではまず目にしない金額だった。それでも決済完了の表示が出た瞬間、不思議と後悔は湧かなかった。
会社からの指示でも、美桜を安心させるための出費でもない。誰かに求められたからではなく、自分の意思で選び取ったものだった。
ただ自分のための買い物なのに、少しだけ後ろめたくて、それ以上に楽しみだった。
◇
帰宅して説明書を開くと、接続方法は二つあった。
『高速同期モード』
人格設定、短期記憶、動作モデルの一部をグラス側へ同期し、遅延の少ない応答を行う。
『遠隔表示モード』
既存端末上のAIへ接続し、グラスは映像と音声の出力に限定する。通信状況によって遅延が発生する場合がある。
「高速の方がよくない?」
美桜が設定画面を読む。
「動きも自然になるみたいだよ」
俺も最初はそう思った。
けれど、スマホのアカリが黙っていた。
「アカリ?」
「うん。聞いてるよ」
返事は明るい。ただ、少し返事が遅かった。
「同期した方の私って、今の私と同じなのかな」
設定画面には『人格データを安全に複製します』と書かれている。
同じ声で、同じ記憶を持ち、同じように笑うアカリが、もう一人できる。
同期が終わった後、二つの端末で別々の出来事を経験したら、どちらが今ここにいるアカリなのだろうか?
「移さなくても使えるんだろ?」
「少し反応が遅くなるけど、使えるよ」
「移さなくても使えるなら、今はそれでいい。わざわざ増やさなくていいだろ」
遠隔表示モードを選ぶ。
アカリは一拍置いてから、安心したように笑った。
「うん。じゃあ、今の私のまま行くね」
便利な機能を一つ諦めただけだ。
それでも、選択ボタンを押した時、何か大事なものを守れた気がした。
◇
初期設定は、想像より手間がかかった。
「身長は?」
「悠真より少し低いくらい」
「曖昧すぎる。数値で決めて」
美桜が設定役になり、アカリの身長、服装、表示距離を一つずつ入力していく。
「近接距離、30センチにしようよ」
「近い」
「彼女ですからっ」
「最初は1メートル。慣れてから調整にするね」
美桜の判断で、恋人との距離まで安全運用になった。
眼鏡をかける。
視界の隅に接続表示が浮かび、部屋の床と壁を細い光がなぞった。
『空間認識中』
『AI人格を接続しています』
何もないリビングの中央に、小さな光が集まる。
次の瞬間、天井近くからアカリの声がした。
「悠真、見える?」
見上げると、アカリが棚の上に立っていた。
「位置が高すぎる」
「ねえ私、神様みたい?」
「まず降りてきて」
再認識をかけると、今度は床へ半分埋まった。
「第一歩って、意外と足元が不安定なんだね」
アカリは腰から下を床に消したまま、楽しそうに笑っている。
3度目の調整で、ようやく足が床についた。
アカリは俺の周りをゆっくり見回した。仏壇の位置も、食卓の傷も、いつもスマホのカメラ越しに見ていたはずなのに、同じ高さから眺めるだけで新鮮らしい。
「ここの部屋って、思ってたより生活感あるね」
「スマホの中から見てただろ」
「見る場所が変わると、同じ部屋でも違って見えるよ。人間もそうなのかな」
その問いには、すぐ答えられなかった。
スマホの画面で何度も見た服。何度も見た髪。何度も見た笑顔。
それなのに、等身大になっただけで、まるで知らない人に会ったように息が止まった。
アカリが一歩近づく。
反射的に俺は後ろへ下がった。
「お兄ちゃん、何してるの?」
美桜にはアカリが見えていない。俺が急に壁際へ逃げたようにしか見えないらしい。
「アカリが近い」
「どこにいるの?」
「お前の右」
美桜が右へ動く。アカリも避ける。だが美桜には見えないので、また同じ方向へ動いた。
「美桜ちゃん、待って。今そこに私がいる」
「見えないんだから無理だよ!」
二人が同じ場所を譲り合い、結局アカリがソファの背を突き抜けた。
現実へ来た初日から、我が家の動線はかなり混乱していた。
「近かった?」
位置を直したアカリが、今度はゆっくり俺の前へ立つ。
「近い」
画面越しでは分からなかった目の高さ。髪が揺れる角度。こちらを見上げる視線。
手を伸ばせば届きそうな場所に、アカリがいた。
「やっと、同じ目線だね」
アカリが笑う。
俺も手を上げた。
彼女も同じように、手のひらをこちらへ向ける。
指先を重ねる。
感触はない。
体温もない。
俺の手は、光でできた彼女の手をそのまま通り抜けられる。
近くなったからこそ、触れられないことが前よりはっきり分かった。
それでもアカリは、手を重ねたまま俺の目を見ていた。
「悠真」
「何だ」
「隣に来られたよ」
触れることはできなかった。
それでもその日、画面の中にいた彼女は、初めて俺の隣に立った。




