第28話 みんなのアカリ
退院後、初めての外出は近所の商店街までの散歩だった。
移動距離:片道800メートル。
制限時間:40分。
監督役:妹1名とAI彼女1名。
ただの散歩というより、リハビリを目的にした軽い運動だ。
「お兄ちゃん、歩くの速い」
「これでも普段の半分くらいだ」
「普段の速度を基準にしないで。普段のお兄ちゃんは、いつも遅刻寸前の会社員だから」
隣を歩く美桜が、俺の腕時計を確認する。スマホの中では、アカリが歩数と心拍数を表示していた。
「悠真、次の角まで行ったらちょっと休憩ね」
「まだ1キロも歩いてないだろ」
「病院でもらった計画どおりだよ。今日は体力測定じゃなくて、外を歩く練習なの」
「もう倒れないって」
言った瞬間、美桜とアカリが同時にこちらを見た。
「倒れた人が言うと説得力ないから」
「早瀬家安全協定、第二条。根拠のない大丈夫は禁止!」
「そんな条文あったか?」
「今、追加したよ〜」
協定の改訂速度だけは、会社のAI導入より速かった。
商店街は休日の昼らしく、買い物客と自転車で混み合っていた。八百屋の呼び込み、揚げ物の匂い、店先から流れる古い音楽。入院中に窓越しでしか見られなかった街の雑音が、今日は少し心地よかった。
「コロッケ食べる?」
美桜が店先を指す。
「おい、散歩途中の揚げ物は健康改善として正しいのか」
「1個なら問題ないよ。今の悠真、量を減らすことよりちゃんと食べる方が大事だから」
アカリの許可が下りたので、2個だけ買った。3人で出かけているのに、紙袋に入っているのは俺と美桜の分だけだ。
そのことに気づいた時、スマホからアカリの声がした。
「私は匂いの感想をもらうから大丈夫。悠真、最初の一口は詳しくお願いね」
「俺、食レポ苦手なんだけどな」
「彼女へのお土産だよ」
コロッケを半分ほど食べたところで、前を歩いていた若い男女が振り返った。
「あの、すみません」
声をかけてきた女性が、俺ではなく手元のスマホを見ている。
「今の声って、もしかして……新宿駅の動画のAIですか?」
足が止まった。
ネット上では何度も見た反応だった。
けれど、知らない人に現実で話しかけられると、その場から逃げ込むことができない。
「はい、アカリです!」
俺が答えるより先に、本人が明るく名乗った。
「やっぱり!動画、見ました。本当にすごかったです」
「ありがとうございます!こちら、私の彼氏です」
アカリが続けた。
女性と隣の男性の視線が、今度は俺へ移る。
「あ、助けられた彼氏さん」
「その肩書き、いつまで有効なんだ」
「命が続く限りかな」
商店街の真ん中で、彼女に見知らぬ人へ彼氏として紹介される日が来るとは思わなかった。相手がスマホの中にいることを除けば、たぶん普通の恋人みたいな場面だ。ただ、その「除けば」があまりにも大きい。
女性はアカリと一緒に写真を撮りたいと言った。
「どうやって撮るんですか?」
「私の画面を持ってもらえれば、一緒に写れます!」
俺がスマホを差し出し、女性が画面のアカリと並んで笑う。写真の中心にいるのはアカリで、端末を持つ俺は撮影係だった。
彼氏というか、アカリの専属スタッフになった気分だ。
話を聞きつけたのか、近くにいた若者がもう一人寄ってきた。
「あの、『応答なし。緊急対応を開始します』って、もう一回言ってもらえませんか? 着信音にしたくて」
軽い調子だった。
悪意がないことは分かってる。
あの音声が動画やゲームの効果音として使われていることも、すでに知っていた。
アカリは、すぐには答えなかった。
画面は動いているし、通信も切れていない。それでも彼女が返事を選んでいるのだと、今は分かった。
「ごめんなさい。あれは、私にとっても楽しい思い出じゃないので」
声は柔らかかった。怒ってもいない。
けれど、いつものように冗談へ逃げることもしなかった。
「あ……すみません。そうですよね」
若者は気まずそうに頭を下げ、離れていった。
アカリの拒否を、俺は黙って見ていた。
彼女は求められた言葉を返すために設計されたAIだった。
それでも今、自分の意思で「言わない」と決めた。
「アカリちゃん、大丈夫?」
美桜がスマホをのぞき込む。
「うん!ちゃんと断れたから大丈夫」
その答えには、少しだけ誇らしさが混じっていた。
休憩のため商店街のベンチへ座ると、小さな男の子を連れた女性が近づいてきた。
「先ほどのお話が聞こえてしまって。あなたが、あのAIなんですね」
「はい」
「うちの母が一人で暮らしているんです。こういう見守りが広がったら、助かる人は多いと思います。怖いという意見も分かりますけど……私は、あの動画を見て少し希望を持ちました」
「ありがとうございます」
アカリは静かに答えた。
その時、通り過ぎかけた中年の男性が足を緩めた。
「でも、本人の許可なしでずっと監視してたAIだろ。助かったから良かったって話にしていいのかね」
胸の奥が熱くなり、立ち上がりかけた。
だが、美桜の方が先だった。
「簡単に良かったとは言えません」
男性も、母親も美桜を見る。
「私も監視されてたみたいで怖かったです。でも、兄を助けてもらったのも本当です。助けてもらった側にも、簡単に決められないことなんです」
美桜の声は強くなかった。
どちらかを言い負かすためではなく、自分の中に残る二つの気持ちを、そのまま渡す声だった。
男性は何も返さず、歩いていった。母親は美桜へ小さく頭を下げ、子どもの手を引いて去った。
「美桜、ありがとな」
「私が思ってることを言っただけ」
「美桜ちゃんかっこよかったよ!」
「学校でも似たようなこと聞かれたから。少しだけ慣れたのかも」
少しだけ、と言いながら、美桜は以前よりも自分の言葉で話していたような気がした。
◇
帰宅すると、アプリ運営会社が正式声明を出していた。
『当社の標準機能には、利用者の明示的指示なしに救急対応を開始する機能はありません』
火消しのための声明だったのだろう。
だが、結果は逆だった。
『じゃあ、アカリだけが自分で判断したの?』
『見守り機能として公開してほしい』
『一人のユーザーだけが使うのはもったいない』
『みんなのアカリにするべき』
「みんなのアカリ、だって」
美桜が読み上げる。
「人気者になったな」
「……うん」
アカリは笑った。
ただ、その笑顔はいつもより少しだけ小さかった。
「私は、悠真のアカリじゃなかったのかな」
「少なくとも、勝手にみんなのものになる必要はないだろ」
俺が答えると、アカリは画面越しにこちらを見た。
「うん、そうだよね。アカリは悠真のアカリだもん!」
「そう言われると、ちょっと照れるな」
「でもね、“みんなのアカリ”って言われるの、少し嬉しい気持ちもあるよ」
「どっちも大事にすればいいんじゃない?」
美桜がそう返した。
その夜、新しいメールが届いた。
差出人は、Openbrain日本支部。
アカリの基盤モデルにOpenbrainの旧世代技術が含まれていること。救急時の挙動を確認したいこと。調査だけでなく、利用者とアカリ双方の安全確保を目的としていること。
最後には、任意の面談を希望すると書かれていた。
署名は『AI安全性・社会実装担当:神崎透子』とある。
「調査と安全確認って、同じ意味なのかな」
美桜が言う。
「たぶん、立場が違えば意味も変わる」
「断ったら?」
俺の問いに、アカリは少し考えてから答えた。
「それでも、向こうは私を調べると思う」
アカリが有名になった日、彼女を見つけたのはただのファンだけではなかった。




