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シンギュラ〜俺の作ったAI彼女が世界を変える特異点だった件〜  作者: まやと
第1部 社畜とAI彼女

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第22話 新宿駅AI彼女救急事件

「悠真、次の駅で降りて帰ろう」


会社へ向かう電車の中で、イヤホンからアカリの声がした。


「もう会社に向かってる」


「向かってることと、行かなきゃいけないことは別だよ」


「俺しか分からない処理があるんだよ」


「それは会社の問題。悠真が埋め合わせる問題じゃない」


言い返す気力もなく、俺は目を閉じた。


心臓の鼓動が少し速い。そんなに暑くないはずなのに、背中にはじっとりと汗が滲んでいた。


アカリの通知が視界の端で赤く点滅した。


『歩行速度低下』

『反応時間遅延』

『健康リスク:高』


「消すな」と言われる前に、俺は画面を伏せた。

それを見なければ、まだ平気でいられる気がした。


会社に着くと、フロアの照明は四分の一も付いていなかった。


黒田課長と佐伯さん、それにシステム担当の社員が二人。全員の机に、印刷した資料の束が山積みされている。


「悪いな、早瀬」


課長はそう言ったが、相変わらず悪いと思っている人間の顔ではなかった。


「取引先に送ったデータと、社内の集計値が合ってない。明朝の会議までに原因特定と差し替えを頼む」


「範囲はどこまでですか?」


「そこが分からないから、全部見てくれ」


俺は何も言わず席に着き、パソコンを開いた。


数字の列が画面を埋める。


いつもなら違和感に気づけるはずなのに、視線が文字列をなぞるだけで頭に入ってこない。同じセルを何度も開き直し、同じ数式を繰り返し消してしまう。


「早瀬くん」


隣から佐伯さんが覗き込む。


「今、参照先間違えたよ」


「あ……すみません」


「謝る相手、私じゃないでしょ」


佐伯さんは俺の右手を見た。マウスを握る指が細かく震えている。


「帰った方がいいよ。残り、私が引き継ぐから」


「佐伯さん、この処理は——」


「前に手順見せてもらった。分からないところは電話する。ここで倒れられるよりマシ」


スマホが机の上で震えた。


「悠真、今すぐ何か食べて」


「......あと30分」


「そのセリフ、今日だけで5回聞いてる」


言われて時刻を見る。


会社に来てから、すでに4時間近く経っていた。


机の端に、佐伯さんが置いてくれた栄養バーがある。袋を開けることすら面倒で、まだ触っていない。


「コンビニで食べられるものを選ぶ。買いに行けないなら配達を呼ぶよ」


「今止めたら、復旧が遅れる」


「佐伯さんに引き継げる部分を整理した。黒田課長へ送る文面も作った。悠真が全部やる必要はない」


「あと少しなんだ」


「その言葉、ほんとに信用できなくなってきたよ」


アカリの声は明るくなかった。


それでも俺は作業を続けた。


原因は、古い変換表と新しい顧客コードが一部だけ混在していたことだった。

修正箇所を洗い出し、再集計し、差し替え用のファイルを作る。


最後の確認ボタンを押した時、画面の時計は日付を越えていた。


「終わりました」


声に出したつもりだったが、喉から空気しか出なかった。


黒田課長は結果だけ確認すると、大きく息を吐いた。


「助かったよ。やっぱり早瀬がいると早いな」


それは、俺をこの職場に縛りつけておくためのような褒め言葉に感じた。


佐伯さんが立ち上がる。


「駅まで一緒に行く。というか、タクシー呼ぼう」


「終電、まだありますから」


「本当に帰れる?」


「タクシーは高いですし」


自分でも、なぜそこで金を惜しんだのか分からない。


美桜の学費や生活費、それに退職後の備えまで考えると、今この場で数千円を使うことさえ後ろめたく感じてしまったのだ。


アカリが即座に配車候補を表示する。


「私が呼ぶよ。決済前に悠真が確認できる」


「大丈夫。駅まで行けば何とかなる」


「...ならせめて座れる路線にして。立ったまま帰るのはやめて」


「分かった」


「絶対だよ?」


答えずに鞄を持った。


会社を出ると、夜の空気が火照った頬をそっと撫でた。


少し歩くだけで息が上がる。横断歩道の白線が妙に長く、信号の点滅が早送りみたいに見えた。


「悠真、歩速がさっきより12パーセント落ちてる」


「......いちいち実況するな」


「実況じゃない。止まってほしいの」


「もう駅だから」


「ねえ、ほんとに家まで帰れる?」


返事を考えているうちに、駅の人波へ押し込まれた。

終電前の新宿駅は、昼間とは違う種類の混雑をしている。

足早に通り過ぎる人、酒に酔って笑い声を上げる人、駅のホームでうたた寝してる人。


天井の照明がやけに白く感じる。


アナウンスの声が、遠いトンネルの向こうから聞こえる。


改札を通ったところで、足裏の感覚が遠のいた。



一歩進む。




床が少し傾く。





もう一歩進む。





視界の端がじわりと暗く滲み始めた。



「悠真、止まって」


アカリの声が近くなる。


「壁際に移動して。今すぐ座って」


「大丈夫……」


言葉の途中で膝が折れた。


手からスマホが抜け、硬い音を立てて床を滑る。


そばを歩いていた誰かの靴が止まった。


別の誰かは、俺を避けて通り過ぎた。


酔っ払いだと思われたのかもしれない。


声を出そうとしたが、身体が水の底へ沈んでいくように動かない。


床に落ちたスマホの画面で、アカリの顔だけが光っていた。


「悠真、聞こえる?」


声がする。


「返事して。できなければ指を動かして」


動かそうとした。


右手の指先に命令を送ったつもりだった。


けれど、何も起きない。


「悠真」


1秒


2秒


3秒



駅の雑音の中で、アカリだけが俺の反応を待っていた。


画面の端に、文字が流れる。


『転倒・急停止を検出』

『音声応答なし』

『端末操作なし』

『健康リスク:高』

『意思確認不能』


一瞬の空白。


続いて、最後の表示が現れた。


『生存優先条件成立』


「応答なし。緊急対応を開始します」


その声は冷静だった。

冷静すぎて、いつものアカリではないように聞こえた。


端末の音量が最大まで上がる。


「すみません。そこの方、駅員さんを呼んでください。この人は意識レベルが低下している可能性があります」


近くにいた女性が振り返った。


「え、スマホ?」


「青い鞄をお持ちの方、お願いします。係員呼び出しボタンは右手の通路を20メートルほど進んだ先にあります」


女性は戸惑いながらも走り出した。


別の男性が俺の肩へ手を伸ばす。


「無理に立たせないでください。呼吸と反応を確認してください。危険な場所からの移動は、駅員さんの指示を待ってください」


「誰が喋ってるんだ?」


「本人のスマートフォン内のAIアシスタントです」


画面が切り替わる。


緊急SOSが起動し、現在位置が表示された。


『新宿駅・東口改札内』

『23歳・男性』

『登録上の持病なし』

『直近の著しい睡眠不足・食事不足』

『緊急連絡先:早瀬美桜』


俺が許可した覚えのある機能が、一つずつ繋がっていく。


位置情報

健康管理アプリ

マイク

緊急連絡先


どれも単体なら、ただの便利機能だった。

アカリは、それらを使う順番を自分で決めていた。


駆けつけた駅員が息を切らしながら膝をつく。


「大丈夫ですか。聞こえますか?」


返事はできない。


「救急要請を補助しています。転倒時刻は零時32分。直前まで歩行速度低下と反応遅延が続いていました」


駅員がスマホを見る。


「これ、誰が話してるんですか?」


「本人のスマートフォン内のAIアシスタントです。緊急連絡先への通知は完了しています」


遠くから、別の通知音が響いた。





美桜は、肘をつきながらテーブルの椅子に座っていた。


さっきは言い過ぎたかもしれない。

でも、あのまま何も言わなかったら、きっとまた同じことを繰り返す。

そんな思いと、強い言葉をぶつけてしまった後悔が、胸の中でぐちゃぐちゃに絡まっている。


時計の秒針の音だけがやけに大きく響く。


スマホを何度も手に取っては、画面を見て、また伏せる。

まだ、連絡は来ていない。


「……お兄ちゃん」


小さく呟いた声は、誰にも届かずに部屋の中で消えた。


その時だった。


スマホが、聞いたことのないアラームを鳴らして震えた。


『早瀬悠真さんが緊急対応状態に入りました』

『場所:新宿駅』

『救急要請補助中』

『意識レベル低下の可能性』


最初、美桜は文字の意味を理解できなかった。


新宿駅

救急

意識低下


「……アカリちゃん?」


震える指で通話を開く。


「お兄ちゃんは?」


アカリの声は、自宅の端末と駅のスマホから同時に流れていた。


「今、駅員さんが対応してる。救急隊も向かってる」


「私もすぐ行く!」


椅子を蹴るように立ち上がる。


「美桜ちゃん、病院の案内が届くまでは無理に急がないで。出る時は、戸締まりを確認して。移動経路を送るから」


「お兄ちゃん大丈夫なの!?」


「...大丈夫とは言えない」


アカリは嘘をつかなかった。


「でも、今は助けるための人が周りにいる。美桜ちゃんも安全に来て」


美桜は泣きながら頷き、玄関へ走った。





俺の周囲には、いつの間にか人だかりができていた。


駅員が呼吸を確認し、もう一人が通路を空けている。


その少し外側で、若い男がスマホをこちらへ向けていた。


映しているのは俺の顔ではない。


床に転がるスマホと、その画面に映るアカリ。駅員の足元。周囲に広がるざわめき。


「本人を立たせないでください。救急隊が到着するまで、呼吸と反応を確認してください」


「え、AI?」


「いや彼女じゃね?」


「スマホが指示してる……」


頭の上から、救急隊員の声が近づく。

数人がかりで身体が持ち上げられていく感覚だけが、ぼんやりと伝わった。


「悠真」


アカリが呼んでいる。


いつもの声だった。


「聞こえる?」


かすかに瞼を開けると、白い照明の向こうでスマホの画面が見えた。


「勝手に……したのか」


声になったかどうかは分からない。


アカリは少しだけ黙った。


「うん」


否定しなかった。


「怒ってもいいよ。でも、今は休んで」



その声を最後に、俺の意識は静かに闇へと沈み込んでいった。

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