第21話 兄妹喧嘩
妹の視線は、テーブルの真ん中に置かれたスマホに釘付けになっていた。
画面には、夜に俺とアカリが見ていた退職シミュレーションがそのまま表示されている。
『案B:美桜の高校卒業後に退職』
『継続勤務時の健康リスク:高』
『美桜本人の希望:未確認』
その三行が、薄暗くなりつつある部屋の中で、ひどく浮いて見えた。
画面の端には、アカリが作った小さな注記も残っている。
『このシミュレーションは収支・健康・進路条件を比較した参考情報です。本人の希望を代行するものではありません』
昨夜の俺は、その文章を読み飛ばした。都合のいい数字だけを確認して、当の本人の希望を聞かずに決めた内容だ。
「これ、どういうこと?」
美桜の声は静かだった。怒鳴られるより、言い逃れできないような圧があった。
「......そのままの意味だよ。卒業までは今の会社で働いて、その後に辞める」
「私、そんなこと頼んだ?」
「頼まれたかどうかじゃない。進学するにしても就職するにしても、決まるまでは生活を安定させておく必要があるだろ」
言いながら、胸の奥が冷やついた。正しいことを言っているはずなのに、言葉を重ねるほど言い訳に近づいていく。
美桜は画面を指でなぞった。
「『私の希望未確認』って書いてあるけど」
「そこは、これからちゃんと聞くつもりだった」
「もう全部決めた後で?」
言い返せなかった。
アカリは画面の隅で黙っていた。いつもなら場の空気を軽くする言葉を返すのに、今日は俺たちの間へ無理に割り込まない。
「大学の費用だってかかる。奨学金を借りたら返すのは美桜だ。俺が働いて払えるなら、その方がいい」
「私、大学に行くって決めたっけ?」
「行けるなら行った方が——」
「そういうとこ!」
美桜が強めにテーブルを叩く。乾いた音が、部屋に鋭く響いた。
「守るって言うけど、お兄ちゃん、私の話を聞いてないよね」
「聞くまでもないだろ。金の心配をさせないのが俺の役目だ」
「それが嫌だって言ってるの!」
美桜の目が揺れた。
「大学に行くかもしれない。専門学校かもしれない。働くかもしれない。奨学金だって、自分で返す方法だってある。まだ何も決めてないのに、お兄ちゃんが先に私の人生を決めて、自分が会社に残る理由を作らないでよ」
「理由を作ってるわけじゃない」
「じゃあ何?」
「お前が困らないようにしたいだけだ」
「それでお兄ちゃんが困り続けるのはいいの?」
「じゃあ、私がいなかったら、今すぐ辞められるの?」
喉の奥で答えが止まった。
辞めたい。何度もそう思った。アカリに退職後の生活を計算してもらい、貯金も当面の暮らしも、数字の上ではどうにかなると分かった。
それでも俺は、退職を美桜の卒業という時点に置いた。
その方が安心だからだ。
美桜が、ではない。
俺が、だ。
「……家族なんだから、支えるのは当然だろ」
「家族って言えば、私が何も言えなくなると思ってる?」
「そんなつもりじゃ——」
「私がいるから辞められないってことでしょ?」
「そういう言い方するなよ!」
声が強くなった。美桜の肩がわずかに縮む。それを見ても、熱くなった言葉は止まらなかった。
「父さんも母さんもいないんだぞ!俺がやるしかないだろ!生活費も学費も、何かあった時のことも——」
「私は、お兄ちゃんに親の代わりをしてほしいんじゃない!」
胸の奥を、鋭い刃で突き刺されたような感覚がした。
「墓参りの時も言ってたよね。私のことは自分が守るって。でも、それはお父さんとお母さんにした約束でしょ。私は頼んでない」
「じゃあ、俺は何のために今まで——」
言い切る寸前で、気づく。
美桜のために毎日必死に働いた。
美桜のためにやりたいことを我慢した。
美桜のために、自分のことをすべて後回しにした。
それを否定されたら、俺には何が残る?
美桜は唇を噛んだ。怒っているのに、泣くのをこらえている顔だった。
「私のために生きてるみたいに言わないで」
「美桜……」
「私、お兄ちゃんの人生を奪いたくない」
その言葉で、ようやく分かった。
美桜が怒っているのは、俺に守られたくないからではない。守られるたびに、その代償として俺の時間や体力が削られていくのを見せられてきたからだ。
それでも、それを受け入れる余裕が今の俺にはなかった。
「二人とも」
アカリの声が静かに割って入った。
「悠真は、美桜ちゃんを守りたい。美桜ちゃんは、悠真に自分を守ってほしい。目的は同じだよ」
「同じじゃない」
美桜がすぐに返す。
「私は、自分のことくらい自分で決めたい」
「うん」
アカリは否定しなかった。
「そこを悠真が聞かないまま、未来を決めたのが問題だと思う」
「アカリまで俺が悪いって言うのか」
「悪いとは言ってないよ」
明るさを抑えた、柔らかい声だった。
「悠真は、美桜ちゃんの未来を守ろうとして、美桜ちゃんが未来を選ぶ権利を忘れてる」
画面には、複数の人生案が並んでいた。今すぐ退職する未来。卒業後まで働く未来。休職してこれからを考える未来。
アカリは数字を出せる。貯金が何ヶ月持つか、収入がどれだけ減るか、健康リスクがどう変わるか。
けれど『美桜はどうしたいか』という空欄だけは、どんな計算をしたとしても埋まらない。
目の前に未来を何通り並べられても、選ぶのは自分自身だ。なのに俺は、誰に人生を決められたわけでもないのに、自分から一つの未来へと逃げ込んでいた。
「お兄ちゃんが辞めるのが嫌なんじゃない」
美桜は俯いたまま言った。
「家にずっといてほしいわけでもない。私のために何もかも捨ててほしいわけでもない」
指先が、膝の上で震えていた。
「お兄ちゃんが、辞める前に壊れそうなのが嫌なの」
「それを私の卒業まで待つくらいなら、明日辞めてくれた方がいい」
今度こそ、何も言い返せなかった。
美桜の言葉が正しいからではない。ずっと前から、美桜もアカリも同じことを言っていたのに、俺が聞こうとしなかったからだ。
「……悪かった」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど弱かった。
「俺、美桜がどうしたいか、ちゃんと聞いてなかった。守ってるつもりで、勝手に決めてた」
美桜が顔を上げる。目の縁が赤い。
「じゃあ、これからは聞いて」
「……ああ。ちゃんと——」
食卓のスマホが震えた。
画面上部に、黒田課長の名前が表示される。
嫌な予感しかしない。
着信に出ると、課長は挨拶もなく早口で言った。
『早瀬、悪い。取引先向けの基幹データに不整合が出た。明日の朝一までに差し替えが必要なんだ』
「......今からですか?」
『俺も上に説明しないといけない。全体の処理を分かってるの、早瀬しかいないだろ。今から来られるか?』
必要とされている。
以前なら、その言葉で頑張れたのかもしれない。
けれど今は、会社が俺を守らないまま、俺に依存しているだけだと分かってしまった。
「悠真、行かなくていいよ」
アカリがすぐに言った。
「体調不良を伝える文面を作った。佐伯さんへの引き継ぎ案もある。今の悠真の状態では出社を勧められない」
電話の向こうで、課長が急かす。
『早瀬? 聞こえてるか?』
美桜は俺を見ていた。
「行くの?」
怒りではなかった。
もう答えを知っている声だった。
「……これだけは、俺が行かないと」
「どうして?」
「終わったら、ちゃんと話す」
美桜の目から、光がすっと抜け落ちた。
「その『終わったら』って、いつになるの?」
墓前でアカリに聞かれた言葉が、今度は美桜の声で返ってきた。
答えを持たないまま、俺は立ち上がった。
すぐにスーツへ着替えて玄関で靴を履く。指がうまく動かず、紐を一度結び損ねた。
「悠真」
背後のスマホから、アカリが呼ぶ。
「行かないで」
冗談も、軽口もなかった。
俺は聞こえなかったふりをして、ドアノブに手をかけた。
閉まる直前、美桜の顔が見えた。
怒っている顔ではなかった。
また一人になることを、もう受け入れてしまっているような顔だった。




