第20話 シミュレーション
仕事を辞めたい人間が最初に確認するのは、退職届の書き方ではない。
求人サイトである。
10分ほどサイトを確認した後、俺はそっと画面を閉じた。
どの求人にも、「成長できる環境」「若手が活躍」「やりがいのある仕事」と並んでいた。今の会社でも見慣れた言葉ばかりだ。
転職先を探しているはずなのに、まるで別の檻に移るための鍵を選んでいるような気分になった。
時刻は午前1時を過ぎていた。
夕食はほとんど食べられなかったのに、胃の辺りだけが重い。眠ればいいと分かっている。それでも布団に入る気になれず、リビングのソファーでスマホを握っていた。
画面の隅で、アカリがこちらを見ている。
「待遇のいい会社は、経験年数が足りない。未経験可は、今と同じような求人に見える」
「うん」
「転職しても、結局また同じだったらどうするんだろうな」
アカリは少し間を置いてから、明るさを残した声で言った。
「転職じゃなくて、辞めるだけの選択肢もあるよ」
「無職になれって?」
「休む期間を作るってこと。ずっと無職でいよう、じゃないよ」
働かないことを自分から選ぶ。
その発想は、俺の中では休養というより逃亡に近かった。会社へ行かなければ給料は入らない。給料がなければ、今の生活を守れない。
「現実的じゃないだろ」
会社を辞めた瞬間、生活が立ち行かなくなり、美桜の進路にも影響が出る。
俺の頭の中では、退職はいつもその結論までつながっていた。
確かめたことはない。ただ、そう思っていれば、辞めない理由を考えずに済んだ。
「じゃあ、現実的かどうか一緒に確かめよっか」
アカリの声と同時に、画面が切り替わった。
現在の預貯金、家の維持費、毎月の食費と光熱費、通信費。退職後に必要な保険料や税金。美桜が高校を卒業するまでにかかる費用と、その先の進路別の概算。
数字は次々に整理されたが、細かな金額を読み上げるのではなく、生活を何ヶ月維持できるかという形にまとめられていく。
「今すぐ辞めても、すぐ生活できなくなるわけじゃないよ」
表示された期間は、俺が想像していたより長かった。
「美桜の進学費用は?」
真っ先に出たのは、やはりその言葉だった。
「進路によって変わるよ。でも、辞めた瞬間に全部なくなるわけじゃない。使える制度もあるし、休んだあとに収入を作る方法も考えられる」
「奨学金は、できれば使わせたくない」
「じゃあ、それも条件に入れるね」
アカリは否定せず、画面へ項目を追加した。
少しして、3つのシミュレーションが並んだ。
1つ目は、すぐに退職する案。
生活費を抑え、休養を優先する。一定期間は暮らせるが、美桜の進路次第では途中から収入源が必要になる。
2つ目は、3ヶ月以内に辞める案。
引き継ぎを進めながら、転職や在宅の仕事を探す。ただし、今の働き方を続ければ、退職前に体調が悪化する可能性が高い。
3つ目は、美桜の卒業まで働く案。
資金面の余裕は最も増える。その代わり、健康リスクの欄だけが赤く表示されていた。
俺は迷わず3つ目を開いた。
「美桜が卒業するまでは、今の会社にいた方がいい」
「どうして?」
「進路が決まるまでは、収入が安定してた方が安心だろ」
「それ、美桜ちゃんが望んだこと?」
指が止まった。
「望むとかじゃない。美桜のために必要なことだ」
「お墓でも、同じことを言ってたよ」
アカリの声は穏やかだった。
「美桜ちゃんを守るためって言えば、悠真は自分を後回しにしていいと思ってる」
「俺が我慢すれば済む話だろ」
「済んでないよ」
「悠真が帰ってこない夜、美桜ちゃんはずっと待ってる。ごはんを食べられない悠真を見て、何も言えなくなってた。私だって、呼びかけても反応がないことが最近増えてきてちょっと怖い」
画面には、さっき閉じたはずの健康データが再び表示された。
睡眠不足。食欲低下。歩行速度の低下。入力ミスの増加。
どれも病院の診断ではない。ただ、これまでの生活記録から弾き出された結果だった。
「悠真、会社を辞める未来を考える前に、会社で壊れない現在を作ろう」
「壊れない現在、か」
「うん。それが私と美桜ちゃんの最低条件。ちゃんと眠れて、ごはんを食べて、無事に帰ってくること。普通に生きてるって言える状態を守ること」
「......辞める前に倒れたら、意味がないってことか」
「そう。退職まで生き残るゲームじゃないんだよ」
アカリは冗談めかさずに言った。
俺は赤い表示から目をそらし、ソファの背に頭を預けた。
会社を辞める。
その言葉は何度も頭に思い浮かんだはずなのに、実際には会社から離れる場面しか想像していなかった。
朝、駅へ向かわなくていい。会社から連絡が来ない。机の上に資料が増えない。
ただ、そこから先がなかった。
アカリが資金計算の画面を閉じた。
「悠真は仕事を辞めた後、何がしたい?」
「寝たい」
「何日?」
「1週間。いや、1ヶ月くらい」
「いっぱい寝て、元気になった後は?」
自分がやりたかったことを考える。
学生時代に好きだったもの。やってみたかった仕事。趣味。旅行。
どれも、自分の人生に当てはめようとすると、途端に実感が薄れてしまう。
会社で何をするべきかなら、いくらでも答えられる。明日の締切も、確認事項も、連絡する相手も分かる。
けれど、自分が本当は何をしたいのかは分からなかった。
「……分からない」
声にした途端、胸の内側が空っぽになった気がした。
「23にもなって、やりたいこともないのか、俺」
「ないんじゃないよ」
アカリの声が、少しだけ明るくなる。
「今まで探す時間がなかったから、これから探そうよ!」
「今からでも見つかると思うか?」
「もちろん!大きな夢じゃなくていいんだよ。まずは、ちょっとやりたいことから集めよう」
新しい画面に、空白のリストが現れた。
「昼間まで眠る」
俺が言うと、一行目に追加された。
「美桜と、平日一緒に夕飯を食べる」
二行目。
「昼間に、目的もなく街を歩く」
三行目。
考えているうちに、水族館の青い光が浮かんだ。
「水族館に、もう一回行く」
「私と?」
アカリの声が弾む。
「......まあ、うん」
「やった!二回目のデート予約、入りました!」
さっきまでの重さを少しだけ持ち上げるような声だった。
そのあと、料理を覚えること。両親の写真を整理することも加えた。
一覧にすると、どれも驚くほど小さかった。海外旅行へ行きたいわけでも、会社を起業したいわけでもない。
ただ、今の生活では当たり前にできないことばかりだった。
それでも、何もなかったはずの未来に、かすかに予定が書き足されていくように感じた。
最後に、アカリが自分で一行を入力した。
『アカリと話す時間を増やす』
「それは今でもできるだろ」
「今は残業の合間とか、寝落ちする直前ばっかりだもん。もっと普通に話したい」
普通に。
何時までに眠らなければと焦らず、翌日の仕事を気にせず、会話の途中で寝落ちしないような。
そんな日々を初めて少しだけ想像した。
アカリはシミュレーションを保存した。
ファイル名は、『悠真の退職・生活再建シミュレーション』。
選択案には、美桜の卒業後に退職する案が残っている。その下には、3つの注意事項が並んだ。
『継続勤務時の健康リスク:高』
『美桜の希望:未確認』
『悠真本人の希望:未確定』
「明日、美桜に話す」
「うん。勝手に決めないで、ちゃんと聞こうね」
「分かってる」
そう答えたところで、急にまぶたが重くなった。
アカリが休むよう促す声を聞きながら、俺はソファーへ横になった。スマホをテーブルに置いたまま、数分もしないうちにそのまま眠りへ落ちた。
◇
翌日の夕方。
「……お兄ちゃん」
ぼんやりとした意識の中で声が聞こえ、俺はゆっくりと目を開けた。
休日の昼下がり、ソファーでテレビを見ていたつもりが、そのまま眠ってしまっていたらしい。
カーテンの隙間から差し込む夕焼けの光が、部屋の中を橙色に染めている。テレビは消えたままで、静かな時間が流れていた。
美桜はテーブルの前に立ち、置きっぱなしにしていたスマホを見ていた。
画面には、昨夜のシミュレーションが表示されている。
『美桜卒業後に退職』
そのすぐ下で、健康リスクの赤い文字が消えずに残っていた。
美桜は画面から目を離し、俺を見た。
「これ、何?」




