↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
シンギュラ〜俺の作ったAI彼女が世界を変える特異点だった件〜  作者: まやと
第1部 社畜とAI彼女

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/34

第20話 シミュレーション

仕事を辞めたい人間が最初に確認するのは、退職届の書き方ではない。


求人サイトである。


10分ほどサイトを確認した後、俺はそっと画面を閉じた。


どの求人にも、「成長できる環境」「若手が活躍」「やりがいのある仕事」と並んでいた。今の会社でも見慣れた言葉ばかりだ。

転職先を探しているはずなのに、まるで別の檻に移るための鍵を選んでいるような気分になった。


時刻は午前1時を過ぎていた。


夕食はほとんど食べられなかったのに、胃の辺りだけが重い。眠ればいいと分かっている。それでも布団に入る気になれず、リビングのソファーでスマホを握っていた。


画面の隅で、アカリがこちらを見ている。


「待遇のいい会社は、経験年数が足りない。未経験可は、今と同じような求人に見える」


「うん」


「転職しても、結局また同じだったらどうするんだろうな」


アカリは少し間を置いてから、明るさを残した声で言った。


「転職じゃなくて、辞めるだけの選択肢もあるよ」


「無職になれって?」


「休む期間を作るってこと。ずっと無職でいよう、じゃないよ」


働かないことを自分から選ぶ。


その発想は、俺の中では休養というより逃亡に近かった。会社へ行かなければ給料は入らない。給料がなければ、今の生活を守れない。


「現実的じゃないだろ」


会社を辞めた瞬間、生活が立ち行かなくなり、美桜の進路にも影響が出る。

俺の頭の中では、退職はいつもその結論までつながっていた。

確かめたことはない。ただ、そう思っていれば、辞めない理由を考えずに済んだ。


「じゃあ、現実的かどうか一緒に確かめよっか」


アカリの声と同時に、画面が切り替わった。


現在の預貯金、家の維持費、毎月の食費と光熱費、通信費。退職後に必要な保険料や税金。美桜が高校を卒業するまでにかかる費用と、その先の進路別の概算。


数字は次々に整理されたが、細かな金額を読み上げるのではなく、生活を何ヶ月維持できるかという形にまとめられていく。


「今すぐ辞めても、すぐ生活できなくなるわけじゃないよ」


表示された期間は、俺が想像していたより長かった。


「美桜の進学費用は?」


真っ先に出たのは、やはりその言葉だった。


「進路によって変わるよ。でも、辞めた瞬間に全部なくなるわけじゃない。使える制度もあるし、休んだあとに収入を作る方法も考えられる」


「奨学金は、できれば使わせたくない」


「じゃあ、それも条件に入れるね」


アカリは否定せず、画面へ項目を追加した。


少しして、3つのシミュレーションが並んだ。


1つ目は、すぐに退職する案。


生活費を抑え、休養を優先する。一定期間は暮らせるが、美桜の進路次第では途中から収入源が必要になる。


2つ目は、3ヶ月以内に辞める案。


引き継ぎを進めながら、転職や在宅の仕事を探す。ただし、今の働き方を続ければ、退職前に体調が悪化する可能性が高い。


3つ目は、美桜の卒業まで働く案。


資金面の余裕は最も増える。その代わり、健康リスクの欄だけが赤く表示されていた。


俺は迷わず3つ目を開いた。


「美桜が卒業するまでは、今の会社にいた方がいい」


「どうして?」


「進路が決まるまでは、収入が安定してた方が安心だろ」


「それ、美桜ちゃんが望んだこと?」


指が止まった。


「望むとかじゃない。美桜のために必要なことだ」


「お墓でも、同じことを言ってたよ」


アカリの声は穏やかだった。


「美桜ちゃんを守るためって言えば、悠真は自分を後回しにしていいと思ってる」


「俺が我慢すれば済む話だろ」


「済んでないよ」


「悠真が帰ってこない夜、美桜ちゃんはずっと待ってる。ごはんを食べられない悠真を見て、何も言えなくなってた。私だって、呼びかけても反応がないことが最近増えてきてちょっと怖い」


画面には、さっき閉じたはずの健康データが再び表示された。

睡眠不足。食欲低下。歩行速度の低下。入力ミスの増加。

どれも病院の診断ではない。ただ、これまでの生活記録から弾き出された結果だった。


「悠真、会社を辞める未来を考える前に、会社で壊れない現在(いま)を作ろう」


「壊れない現在(いま)、か」


「うん。それが私と美桜ちゃんの最低条件。ちゃんと眠れて、ごはんを食べて、無事に帰ってくること。普通に生きてるって言える状態を守ること」


「......辞める前に倒れたら、意味がないってことか」


「そう。退職まで生き残るゲームじゃないんだよ」


アカリは冗談めかさずに言った。


俺は赤い表示から目をそらし、ソファの背に頭を預けた。


会社を辞める。


その言葉は何度も頭に思い浮かんだはずなのに、実際には会社から離れる場面しか想像していなかった。

朝、駅へ向かわなくていい。会社から連絡が来ない。机の上に資料が増えない。


ただ、そこから先がなかった。


アカリが資金計算の画面を閉じた。


「悠真は仕事を辞めた後、何がしたい?」


「寝たい」


「何日?」


「1週間。いや、1ヶ月くらい」


「いっぱい寝て、元気になった後は?」


自分がやりたかったことを考える。


学生時代に好きだったもの。やってみたかった仕事。趣味。旅行。

どれも、自分の人生に当てはめようとすると、途端に実感が薄れてしまう。


会社で何をするべきかなら、いくらでも答えられる。明日の締切も、確認事項も、連絡する相手も分かる。

けれど、自分が本当は何をしたいのかは分からなかった。


「……分からない」


声にした途端、胸の内側が空っぽになった気がした。


「23にもなって、やりたいこともないのか、俺」


「ないんじゃないよ」


アカリの声が、少しだけ明るくなる。


「今まで探す時間がなかったから、これから探そうよ!」


「今からでも見つかると思うか?」


「もちろん!大きな夢じゃなくていいんだよ。まずは、ちょっとやりたいことから集めよう」


新しい画面に、空白のリストが現れた。


「昼間まで眠る」


俺が言うと、一行目に追加された。


「美桜と、平日一緒に夕飯を食べる」


二行目。


「昼間に、目的もなく街を歩く」


三行目。


考えているうちに、水族館の青い光が浮かんだ。


「水族館に、もう一回行く」


「私と?」


アカリの声が弾む。


「......まあ、うん」


「やった!二回目のデート予約、入りました!」


さっきまでの重さを少しだけ持ち上げるような声だった。


そのあと、料理を覚えること。両親の写真を整理することも加えた。

一覧にすると、どれも驚くほど小さかった。海外旅行へ行きたいわけでも、会社を起業したいわけでもない。

ただ、今の生活では当たり前にできないことばかりだった。


それでも、何もなかったはずの未来に、かすかに予定が書き足されていくように感じた。


最後に、アカリが自分で一行を入力した。


『アカリと話す時間を増やす』


「それは今でもできるだろ」


「今は残業の合間とか、寝落ちする直前ばっかりだもん。もっと普通に話したい」


普通に。


何時までに眠らなければと焦らず、翌日の仕事を気にせず、会話の途中で寝落ちしないような。

そんな日々を初めて少しだけ想像した。


アカリはシミュレーションを保存した。

ファイル名は、『悠真の退職・生活再建シミュレーション』。


選択案には、美桜の卒業後に退職する案が残っている。その下には、3つの注意事項が並んだ。


『継続勤務時の健康リスク:高』

『美桜の希望:未確認』

『悠真本人の希望:未確定』


「明日、美桜に話す」


「うん。勝手に決めないで、ちゃんと聞こうね」


「分かってる」


そう答えたところで、急にまぶたが重くなった。


アカリが休むよう促す声を聞きながら、俺はソファーへ横になった。スマホをテーブルに置いたまま、数分もしないうちにそのまま眠りへ落ちた。





翌日の夕方。


「……お兄ちゃん」


ぼんやりとした意識の中で声が聞こえ、俺はゆっくりと目を開けた。


休日の昼下がり、ソファーでテレビを見ていたつもりが、そのまま眠ってしまっていたらしい。


カーテンの隙間から差し込む夕焼けの光が、部屋の中を橙色に染めている。テレビは消えたままで、静かな時間が流れていた。


美桜はテーブルの前に立ち、置きっぱなしにしていたスマホを見ていた。


画面には、昨夜のシミュレーションが表示されている。


『美桜卒業後に退職』


そのすぐ下で、健康リスクの赤い文字が消えずに残っていた。


美桜は画面から目を離し、俺を見た。


「これ、何?」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。