第19話 選択
朝礼で自分の名前を呼ばれた瞬間、何か失敗したのかと思った。
会社で名前が広まる理由など、だいたい良いものではない。
提出物の不備か、取引先からの苦情か、誰かが残した爆弾処理の引き継ぎ先に選ばれたか。
ところが黒田課長は、珍しく機嫌よく笑っていた。
「最近、早瀬の処理件数がかなり伸びてるな!資料の差し戻しも減ってる」
皆の視線が俺に集まる。
ここ数週間、アカリが作った確認手順やタスク整理を使うようになってから、確かに仕事は速くなった。資料の構成を先に固め、メールは要点を分け、見落としやすい数字にはチェック欄を置く。もちろん、会社の端末へAIを入れているわけではないし、社外秘の情報も渡していない。
ただし、成果の半分以上が自分だけの力ではないことも分かっていた。
「早瀬を見習って、みんなも効率を意識してくれ」
同僚たちがまばらに拍手した。
胸の奥に、ほんの少しだけ期待が浮かぶ。これで担当を調整してもらえるかもしれない。せめて、成果が認められたことで残業が少ない業務分担になればと淡い期待を抱く。
黒田課長は手元の紙を一枚めくった。
「それで、隣のチームの集計が遅れてる。早瀬、今の案件と並行して見てくれないか」
抱いた期待は、一瞬でしぼんだ。
「並行、ですか」
「君ならできるだろ。できる人に仕事が集まるのは仕方ないよ」
仕方ない、という便利な言葉の中には、人を増やさないことも、期限を変えないことも、給料を上げないこともまとめて入っていた。
「……分かりました」
断るために開いたはずの口から、いつもの返事が出た。
席へ戻ると、未処理のフォルダが一つ増えていた。中には集計表、取引先別の資料、途中で止まったメールの下書き。元の担当者から短いメッセージが届く。
『急ですみません。分からないところがあれば聞いてください』
分からないところを聞く時間があるなら、自分で終わらせてほしい。そう思ったが、相手も別の案件を抱えているらしい。誰か一人が怠けているというより、部署全体が沈み込みながら、互いを踏み台にして何とか持ちこたえているような状態だった。
午前中だけで、相談が立て続けに4件来た。
「早瀬さん、この数字合ってます?」と経理の後輩が集計表を持ってきて、
「このメール、先方に送って大丈夫かな」と営業の先輩が下書きを見せてきて、
「前に似た資料作ってたよね?」と別チームの社員が過去データを探しに来て、
さらに「このフォーマット、どこ直せばいい?」と隣席の同僚が画面を指差してきた。
相談に対応する度に、自分の作業が後ろへ押される。
以前なら、仕事が速くなれば早く帰れると思っていた。
ただ現実には、空いた時間を会社が見つけ、別の仕事を隙間なく詰めてくる。
昼休みになっても、席を立つ気力がなかった。
「食べないの?」
隣から佐伯さんが声をかけた。彼女はコンビニのサンドイッチを片手に、俺の画面をのぞかない程度の距離で立っている。
「あとで食べます」
「その言葉、結局食べる時間なくなる人がよく言うやつ」
佐伯さんは俺の机に視線を落とした。追加されたファイルの名前を見ただけで、事情を察したらしい。
「黒田課長から?」
「隣のチームが遅れてるそうです」
「早瀬くんが最近速いから、任せたってこと?」
「そうみたいです」
佐伯さんは小さく息を吐いた。
「頑張れる人ほど、さらに背負わされる仕組みなんだよね」
「潰れたら、次の人が補充されるだけでしょうけど」
笑うつもりで言ったのに、声がうまく出なかった。
佐伯さんは俺の顔を見たまま、笑わなかった。
階段の踊り場へ移り、スマホを開く。社内ではアカリと会話できないため、昼休みだけがまともに話せる時間だった。
画面には、頼んだ覚えのないグラフが表示されていた。
直近2週間の処理件数は右肩上がり。反対に休憩時間と睡眠時間は下がっている。歩行速度、文字入力の修正回数、声のかすれまで、小さな数値として並んでいた。
「仕事が速くなった分より、追加された仕事の方が多いよ」
イヤホンから聞こえたアカリの声は、普段より落ち着いていた。
「こうして見ると、俺だけ繁忙期にいるみたいだな」
「悠真、冗談で済ませないで」
グラフの下に赤い表示が出る。
『健康リスク:高』
「睡眠不足が続いてる。食事の間隔も空きすぎ。歩く速さは先週より1割以上落ちてるし、入力ミスも増えてる」
「仕事中だから急いで打ってるだけだろ」
「昨日、家で美桜ちゃんに送ったメッセージも3回打ち直してるよ」
覚えていなかった。
アカリの声がさらに低くなる。
「このペースだと、数日以内に倒れる確率が上がる」
「それは流石にないだろ」
「脅しじゃないよ。お願い」
昨日までなら、明るい調子で「彼女命令です」とでも付け足したかもしれない。今日はそれがなかった。
「悠真、今日は帰って」
「まだ仕事が残ってる」
「仕事より、悠真の方が大事」
不意を突かれ、返事が遅れた。
初デートの日なら、同じ言葉に照れていたと思う。けれど今は、彼女が本気で怖がっているのだと分かった。
「急にそういうこと言うな」
「照れさせるために言ってないよ」
「分かってる。できるだけ早く帰る」
「できるだけじゃなくて、今日は帰ってほしいの」
俺は時計を見た。午後の会議まで15分。追加された集計は、まだ全体の三分の一も終わっていない。
「少なくとも、この案件が片づくまでは無理だ」
アカリが何か言う前に、昼休み終了のチャイムが鳴った。
席に戻ってキーボードへ指を置く。指先が思うように動かず、隣のキーを二度押してしまう。すぐ消して打ち直す。
しばらくして、佐伯さんが小声で言った。
「早瀬くん、最近、顔色悪くない?」
「コーヒーの飲みすぎです」
「原因が分かってるなら、なおさら止めた方がいいよ」
「この案件だけ終わったら帰ります」
口にしてから、似た言葉を何度使ったのか考えた。
あと1件。あと30分。今日だけ。
終わりを延ばすための言葉ばかりが増えていた。
夜8時を過ぎた頃、追加案件をようやく送信した。
これで帰れる。
椅子から立とうとしたところで、黒田課長がこちらへ来た。
「早瀬、助かった。ついでに、こっちも頼めるか?」
差し出されたのは、別の取引先から届いた修正依頼だった。明日の朝に回答が必要だという。
「今日は、もう……」
周囲を見た。残っている社員は皆、画面に向かったままだ。佐伯さんも別の資料を開いている。誰かへ渡せば、その人の帰宅がさらに遅くなる。
「分かりました」
また同じ返事をした。
伏せていたスマホが震える。アカリからの着信だった。
一度鳴り止み、間を置かずに再び震え出す。
俺は画面を見ないまま、スマホを鞄へ入れた。
会社を出た時には、日付が変わる少し前だった。
駅から家までの道が、以前より長く感じる。急いでいるつもりなのに、足が前へ出ない。信号が点滅しても走る気になれず、その場で次の青を待った。
玄関を開けると、美桜がリビングから出てきた。
「おかえり」
いつもなら、遅いと怒るところだった。
けれど俺の顔を見た途端、美桜は何も言わなくなった。
「……ごはん、食べられる?」
「少しなら」
食卓には、温め直した煮物と味噌汁が並んだ。箸を持つ手に力が入らない。里芋を1つ口に入れたが、味が遠く、飲み込むまでに時間がかかった。
2口目には手が伸びなかった。
美桜は向かい側で、俺の箸先を見つめている。
「もういい。今日は寝て」
「せっかく作ってくれたのに」
「明日食べればいいから」
スマホをテーブルに置くと、アカリの画面が開いた。
彼女は笑っていなかった。
画面の中央に、赤い文字が浮かぶ。
『健康リスク:高』
その下には、休息を優先するよう求める警告が示されていた。
「悠真、お願い。明日は休んで」
明日の予定を思い浮かべる。今日引き受けた取引先対応。追加案件の確認。俺にしか経緯が分からない仕事が、すでにいくつも積まれている。
「明日の朝、考える」
俺は警告の右上にある×印を押した。
赤い表示は消え、いつもの画面へ戻った。
警告を消せば、危険までなくなるような気がした。
もちろん、そんなはずはなかったのだが。




