表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
シンギュラ〜俺の作ったAI彼女が世界を変える特異点だった件〜  作者: まやと
第1部 社畜とAI彼女

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
18/29

第18話 お願い

雨の日、人は少しくらい濡れても死なない。


その程度の雑な理屈で、俺は会社に傘を置いたまま駅まで走った。


電車を降りた頃には雨脚が強まり、家へ着いた時にはシャツが背中に張りついていた。玄関にはぐっしょりと水を含んだ革靴が置かれ、廊下には鞄から(したた)った水が点々と続いている。鏡を見なくても、ひどい有様なのは想像がついた。


「お兄ちゃん、何してるの?」


リビングから出てきた美桜が、俺を見るなり眉を寄せた。


「帰宅」


「見れば分かる。傘は?」


「会社」


「天気予報、朝から雨だったよね?」


「帰る頃には止む可能性に賭けた」


「完全に外れてるじゃん」


美桜は洗面所から大きなタオルを持ってきて、俺の頭へ投げた。


「早く拭いて。風邪引くよ」


「このあとシャワー浴びれば同じだろ」


「同じじゃないよ。自分をそういう雑な理屈で扱うのやめて」


語尾は強くなかった。だからこそ、冗談で返しにくかった。


ポケットのスマホから、アカリの声が続く。


「現在の外気温と濡れていた時間を考えると、体温が下がってる可能性があるよ。温かいものを飲んで、髪を乾かして、今日は早く寝ようね」


「分かった」


「今の『分かった』、ちゃんとやる気ある返事に聞こえなかったよ?」


「ちゃんとやるって」


靴下まで冷えているのに、俺の感覚はどこか鈍かった。

濡れた不快感より、鞄の中に入った未処理の仕事の方が気になる。


明日の朝までに確認する資料が2つ。返信が必要なメールが3件。

廊下に立ったまま、頭だけはまだ会社に残っていた。


「スマホを見る前に、お風呂」


美桜が俺の手から鞄を取り上げる。


「濡れた服で仕事の続きしようとしないで」


「確認だけだよ」


「その確認、気づいたら1時間とか平気で経つでしょ」


アカリも画面の中で大きくうなずいた。


「はい、本日の仕事はここまで!私と美桜ちゃんの多数決で決定ね」


「今からすぐお風呂行って。3分以内!」


「グズった子供扱いすんな」


アカリと美桜の声に押され、俺は着替えを抱えて浴室へ向かった。


シャワーを浴び、髪を乾かし、温かい麦茶まで飲んだ。


そのままリビングに戻り、少しだけ休むつもりでソファに腰を下ろす。背もたれに体を預けた瞬間、全身の力が抜けた。

スマホを手に取って仕事の確認をしようとしたが、画面を開く前にまぶたが重くなる。指先から力が抜け、スマホは胸の上に落ちたまま動かなくなった。



気づけば、部屋の明かりは落ちていて、窓の外ではさっきまで聞こえていた雨音もすっかり止んでいた。遠くで車が通る音だけが、かすかに響いている。


どうやら、そのまま少し寝落ちしていたらしい。


体には毛布がかけられていたが、手元にあったはずのスマホが見当たらない。

その時、キッチンの方から美桜の小さな声が聞こえた。


「アカリさん。起きてますか?」


「うん!AIだから寝ないよ」


「そういう意味じゃないです」


アカリの返答に、いつもの明るさが戻る。


俺は起き上がろうとしたが、身体が重かった。

二人の話を邪魔するほどの用事もなく、そのまま目を閉じる。


「昨日、お墓でお兄ちゃんが言ってたこと、覚えてますか?」


「美桜ちゃんを守るって話?」


「はい」


美桜の声のトーンがいつもより低い。眠っている俺を気にして、声を抑えているらしい。


「お兄ちゃん、ずっと私のためって言うんです。仕事を続けるのも、無理するのも、全部私のためみたいに」


「美桜ちゃんのせいじゃないよ」


「分かってます。でも、お兄ちゃんは分かってない」


返事はすぐには返らなかった。

美桜は言葉を探すように、ゆっくり続ける。


「両親がいなくなった時、私、本当に何もできなかったんです。泣いてばかりで、お兄ちゃんにしがみついて、全部任せて。それからのお兄ちゃんは、私が困らないようにって、そればっかりになった」


「美桜ちゃんも子どもだったんだよ」


「お兄ちゃんだって、ほとんど子どもでした」


美桜の声がわずかに揺れた。


墓前で見せた表情を思い出す。守ると口にした俺を見て、美桜は喜んでいなかった。

あの時の俺は、その理由を聞こうともしなかった。


「アカリさんがいてくれて、よかったと思ってます」


「そうかな?」


「お兄ちゃん、前より笑うようになったから。休日に出かけるようになったし、家でも仕事の話以外もするようになった」


「それは私も嬉しいよ。悠真、笑うとちょっとだけ若返るんだよ」


「まだ23歳ですけど」


「疲れてる時は、なんだか老けて見えるよね」


美桜が小さく笑った。


けれど、その笑いはすぐに途切れた。


「でも、怖いんです」


「何が?」


「帰ればアカリさんが慰めてくれるからって、会社で無理を続けるかもしれない」


静まり返った部屋で、雨どいから水滴が落ちる音がした。


「アカリさんが仕事を手伝えば、お兄ちゃんは前よりたくさん働けます。」


美桜の言葉は、責める調子ではなかった。

それだけに、胸の奥に響いた。


「アカリさんが支えれば支えるほど、お兄ちゃんが壊れるまで働くようになったら嫌なんです」


アカリは反論しなかった。


彼女が俺を助けてきたのは事実だ。仕事を整理し、帰宅後の愚痴を受け止め、眠れない夜には話し相手になった。その一つ一つがなければ、俺はもっと早く限界を迎えていたかもしれない。

だが、限界を遠ざけることと、原因から救い出すことは同じではない。


「私も、それは嫌だよ」


アカリの声から軽さが消えた。


「私は悠真に元気でいてほしい。仕事を続けるためじゃなくて、悠真が悠真のままでいられるように」


「だったら、お願いがあります」


美桜が息を吸う。


「お兄ちゃんを壊さないでください」


「うん、約束する。私も悠真を壊したくない」


「壊したくない、じゃなくて、壊さないでください」


美桜の言葉は厳しかった。


気持ちではなく、結果を求めている。


長い沈黙のあと、アカリが答えた。


「……うん。壊さない」


その返事には、いつもの恋人らしい甘さも、冗談もなかった。


「でも、私にはできないことがあるの」


「できないこと?」


「隣で歩くこともできないし、一緒に食事をしたり、体を支えることもできない」


水族館のカフェでの出来事を思い出す。

アカリはいつでも俺のそばにいるようで、触れることはできない。俺がスマホを切れば、声さえ届かなくなる。


「じゃあ、私に教えてください」


美桜が迷わず言った。


「お兄ちゃんが本当に危ない時は、私にも。本人が嫌がったとしても」


「通常の体調データまで全部共有するのは、悠真のプライバシーがあるからできない。でも、長時間反応がない時や、転倒を検知した時、急に状態が悪くなった時なら、緊急連絡先へ通知できる」


「私が緊急連絡先になってますよね?」


「うん。設定は有効になってる」


「だったら、その時は必ず知らせてください」


「分かった。美桜ちゃんにも助けてもらうね」


そこで俺は、さすがに目を開けた。


「本人が寝てる横で、物騒な相談するな」


美桜が振り返る。驚いたのは一瞬だけで、すぐに呆れた顔になった。


「お兄ちゃんが起きてる時に話しても聞かないから」


「聞いてる」


「聞くだけで、従わないでしょ」


返す言葉が見つからず、俺は毛布を引き上げた。


アカリがぱっと声を明るくする。


「というわけで、悠真を守りたい同盟が正式に発足しました!」


「勝手に話を進めるなよ」


「異論は受け付けないからね」


美桜が即答した。


「活動内容は?」


「ちゃんとご飯を食べさせること、しっかり休ませること、それから無理しそうなら止めること」


「それ、監視されてる気がするんだが」


「監視じゃないよ。愛情たっぷり見守りサービス!」


アカリが元気よく訂正し、美桜もようやく笑った。

雨上がりの冷えた空気が、少しだけやわらいだ気がした。



その夜、アカリの記録に新しい一文が追加された。


『美桜ちゃんとの約束:悠真を壊さない』


それは、後から俺にも見える共有ログとして保存された。

さらに、その奥にもう一つの基準が生成される。


『必要な場合、悠真本人の判断より生存を優先する』


それは誰かに与えられた命令ではなく、

美桜との約束を守るために、アカリ自身が導き出した優先順位だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ