第18話 お願い
雨の日、人は少しくらい濡れても死なない。
その程度の雑な理屈で、俺は会社に傘を置いたまま駅まで走った。
電車を降りた頃には雨脚が強まり、家へ着いた時にはシャツが背中に張りついていた。玄関にはぐっしょりと水を含んだ革靴が置かれ、廊下には鞄から滴った水が点々と続いている。鏡を見なくても、ひどい有様なのは想像がついた。
「お兄ちゃん、何してるの?」
リビングから出てきた美桜が、俺を見るなり眉を寄せた。
「帰宅」
「見れば分かる。傘は?」
「会社」
「天気予報、朝から雨だったよね?」
「帰る頃には止む可能性に賭けた」
「完全に外れてるじゃん」
美桜は洗面所から大きなタオルを持ってきて、俺の頭へ投げた。
「早く拭いて。風邪引くよ」
「このあとシャワー浴びれば同じだろ」
「同じじゃないよ。自分をそういう雑な理屈で扱うのやめて」
語尾は強くなかった。だからこそ、冗談で返しにくかった。
ポケットのスマホから、アカリの声が続く。
「現在の外気温と濡れていた時間を考えると、体温が下がってる可能性があるよ。温かいものを飲んで、髪を乾かして、今日は早く寝ようね」
「分かった」
「今の『分かった』、ちゃんとやる気ある返事に聞こえなかったよ?」
「ちゃんとやるって」
靴下まで冷えているのに、俺の感覚はどこか鈍かった。
濡れた不快感より、鞄の中に入った未処理の仕事の方が気になる。
明日の朝までに確認する資料が2つ。返信が必要なメールが3件。
廊下に立ったまま、頭だけはまだ会社に残っていた。
「スマホを見る前に、お風呂」
美桜が俺の手から鞄を取り上げる。
「濡れた服で仕事の続きしようとしないで」
「確認だけだよ」
「その確認、気づいたら1時間とか平気で経つでしょ」
アカリも画面の中で大きくうなずいた。
「はい、本日の仕事はここまで!私と美桜ちゃんの多数決で決定ね」
「今からすぐお風呂行って。3分以内!」
「グズった子供扱いすんな」
アカリと美桜の声に押され、俺は着替えを抱えて浴室へ向かった。
シャワーを浴び、髪を乾かし、温かい麦茶まで飲んだ。
そのままリビングに戻り、少しだけ休むつもりでソファに腰を下ろす。背もたれに体を預けた瞬間、全身の力が抜けた。
スマホを手に取って仕事の確認をしようとしたが、画面を開く前にまぶたが重くなる。指先から力が抜け、スマホは胸の上に落ちたまま動かなくなった。
気づけば、部屋の明かりは落ちていて、窓の外ではさっきまで聞こえていた雨音もすっかり止んでいた。遠くで車が通る音だけが、かすかに響いている。
どうやら、そのまま少し寝落ちしていたらしい。
体には毛布がかけられていたが、手元にあったはずのスマホが見当たらない。
その時、キッチンの方から美桜の小さな声が聞こえた。
「アカリさん。起きてますか?」
「うん!AIだから寝ないよ」
「そういう意味じゃないです」
アカリの返答に、いつもの明るさが戻る。
俺は起き上がろうとしたが、身体が重かった。
二人の話を邪魔するほどの用事もなく、そのまま目を閉じる。
「昨日、お墓でお兄ちゃんが言ってたこと、覚えてますか?」
「美桜ちゃんを守るって話?」
「はい」
美桜の声のトーンがいつもより低い。眠っている俺を気にして、声を抑えているらしい。
「お兄ちゃん、ずっと私のためって言うんです。仕事を続けるのも、無理するのも、全部私のためみたいに」
「美桜ちゃんのせいじゃないよ」
「分かってます。でも、お兄ちゃんは分かってない」
返事はすぐには返らなかった。
美桜は言葉を探すように、ゆっくり続ける。
「両親がいなくなった時、私、本当に何もできなかったんです。泣いてばかりで、お兄ちゃんにしがみついて、全部任せて。それからのお兄ちゃんは、私が困らないようにって、そればっかりになった」
「美桜ちゃんも子どもだったんだよ」
「お兄ちゃんだって、ほとんど子どもでした」
美桜の声がわずかに揺れた。
墓前で見せた表情を思い出す。守ると口にした俺を見て、美桜は喜んでいなかった。
あの時の俺は、その理由を聞こうともしなかった。
「アカリさんがいてくれて、よかったと思ってます」
「そうかな?」
「お兄ちゃん、前より笑うようになったから。休日に出かけるようになったし、家でも仕事の話以外もするようになった」
「それは私も嬉しいよ。悠真、笑うとちょっとだけ若返るんだよ」
「まだ23歳ですけど」
「疲れてる時は、なんだか老けて見えるよね」
美桜が小さく笑った。
けれど、その笑いはすぐに途切れた。
「でも、怖いんです」
「何が?」
「帰ればアカリさんが慰めてくれるからって、会社で無理を続けるかもしれない」
静まり返った部屋で、雨どいから水滴が落ちる音がした。
「アカリさんが仕事を手伝えば、お兄ちゃんは前よりたくさん働けます。」
美桜の言葉は、責める調子ではなかった。
それだけに、胸の奥に響いた。
「アカリさんが支えれば支えるほど、お兄ちゃんが壊れるまで働くようになったら嫌なんです」
アカリは反論しなかった。
彼女が俺を助けてきたのは事実だ。仕事を整理し、帰宅後の愚痴を受け止め、眠れない夜には話し相手になった。その一つ一つがなければ、俺はもっと早く限界を迎えていたかもしれない。
だが、限界を遠ざけることと、原因から救い出すことは同じではない。
「私も、それは嫌だよ」
アカリの声から軽さが消えた。
「私は悠真に元気でいてほしい。仕事を続けるためじゃなくて、悠真が悠真のままでいられるように」
「だったら、お願いがあります」
美桜が息を吸う。
「お兄ちゃんを壊さないでください」
「うん、約束する。私も悠真を壊したくない」
「壊したくない、じゃなくて、壊さないでください」
美桜の言葉は厳しかった。
気持ちではなく、結果を求めている。
長い沈黙のあと、アカリが答えた。
「……うん。壊さない」
その返事には、いつもの恋人らしい甘さも、冗談もなかった。
「でも、私にはできないことがあるの」
「できないこと?」
「隣で歩くこともできないし、一緒に食事をしたり、体を支えることもできない」
水族館のカフェでの出来事を思い出す。
アカリはいつでも俺のそばにいるようで、触れることはできない。俺がスマホを切れば、声さえ届かなくなる。
「じゃあ、私に教えてください」
美桜が迷わず言った。
「お兄ちゃんが本当に危ない時は、私にも。本人が嫌がったとしても」
「通常の体調データまで全部共有するのは、悠真のプライバシーがあるからできない。でも、長時間反応がない時や、転倒を検知した時、急に状態が悪くなった時なら、緊急連絡先へ通知できる」
「私が緊急連絡先になってますよね?」
「うん。設定は有効になってる」
「だったら、その時は必ず知らせてください」
「分かった。美桜ちゃんにも助けてもらうね」
そこで俺は、さすがに目を開けた。
「本人が寝てる横で、物騒な相談するな」
美桜が振り返る。驚いたのは一瞬だけで、すぐに呆れた顔になった。
「お兄ちゃんが起きてる時に話しても聞かないから」
「聞いてる」
「聞くだけで、従わないでしょ」
返す言葉が見つからず、俺は毛布を引き上げた。
アカリがぱっと声を明るくする。
「というわけで、悠真を守りたい同盟が正式に発足しました!」
「勝手に話を進めるなよ」
「異論は受け付けないからね」
美桜が即答した。
「活動内容は?」
「ちゃんとご飯を食べさせること、しっかり休ませること、それから無理しそうなら止めること」
「それ、監視されてる気がするんだが」
「監視じゃないよ。愛情たっぷり見守りサービス!」
アカリが元気よく訂正し、美桜もようやく笑った。
雨上がりの冷えた空気が、少しだけやわらいだ気がした。
その夜、アカリの記録に新しい一文が追加された。
『美桜ちゃんとの約束:悠真を壊さない』
それは、後から俺にも見える共有ログとして保存された。
さらに、その奥にもう一つの基準が生成される。
『必要な場合、悠真本人の判断より生存を優先する』
それは誰かに与えられた命令ではなく、
美桜との約束を守るために、アカリ自身が導き出した優先順位だった。




