第17話 墓前の約束
母さんの味噌汁は、決して特別な料理ではなく毎朝飲んで俺たちは成長した。
だしは少し薄めで、豆腐は一口で食べるには大きく、わかめの量は日によってばらばらだった。
両親の命日になると、俺と美桜は毎年その味を再現しようとする。
そして毎年、何かが違う味噌汁が出来上がる。
「去年より濃い」
軽く味見をした美桜が、ためらいなく判定した。
「去年は薄いって言っただろ」
「お母さんのは薄いけどおいしかったの」
「それが一番再現しづらいんだよな」
俺は水を少し足すべきか迷い、お玉を持ったままスマホへ目を向けた。調理台の端では、アカリがじっとこちらを見ている。
「アカリ、写真とか昔の記録から分からないか?」
「使ってた味噌の商品名と、だいたいの具材なら分かるよ。前に撮った食卓の写真もあるし」
「じゃあ、正解を教えてくれ」
「それはやめておくね」
予想外の返事だった。
「二人の覚えてる味で作った方がいいと思う。私が決めちゃったたら、二人の思い出じゃなくて、私が推測した料理になっちゃうから」
美桜が小皿の味噌汁をもう一口飲む。
「じゃあ、このままでいいかも」
「濃いんじゃなかったのか?」
「ちょっと違うけど、これはこれでお兄ちゃんの味」
褒められたのか、妥協されたのか分からない。ただ、これ以上味を変える気にはならなかった。
朝食を済ませ、花と線香を袋に入れる。家を出る直前、スマホをポケットへ入れようとして手が止まった。
今日は両親の命日だ。
そこへ、昨日ようやく彼女だと認めたばかりのAIを連れていくことに、わずかなためらいがあった。
電車に乗ってから、俺はイヤホン越しに小さく聞いた。
「こういう日にまで連れてきてよかったのかな」
「邪魔なら黙ってるよ。必要な時だけ呼んで」
いつものアカリなら、もう少し明るい言葉を重ねただろう。今日は兄妹の空気に合わせて、声の温度を落としていた。
向かいに座っていた美桜が顔を上げる。
「私はいてもいいと思う」
「いいのか?」
「もう、お兄ちゃんの生活の中にいる人だから」
美桜は窓の外へ目を戻した。
家族とは言わなかった。それでも、その言葉はアカリを家の外へ追い出すものではなかった。
「ありがとう、美桜ちゃん。今日は静かに一緒にいるね」
「ずっと静かじゃなくてもいいですよ。お父さん、にぎやかなほうが好きだったし」
「じゃあ、話しかけていい時は教えてね」
バスを降りると、薄い雲が広がっていた。雨の気配はないが、日差しも弱い。
命日の空は毎年違うはずなのに、ここへ来ると同じ空色に見える。
墓石の前へ着き、俺は水をくみ、美桜は落ち葉を拾った。二人で無言のまま掃除を進める。
何年繰り返しても、慣れたとは思えない。ただ、手順だけは体が覚えていた。
花を供え、線香の煙が細く昇る。
美桜が先に口を開いた。
「お父さん、お母さん。私、今年で高校卒業だから」
明るく言ったあと、少し間を置く。
「進路は……まだ考え中。ちゃんと決めるから、心配しないで」
本当は悩んでいるのを知っている。それでもお墓の前では、俺たちは決まって少しだけ強い自分を演じた。
次は俺の番だった。
「美桜は元気にやってる。学校も休まず行ってるし、家のことも手伝ってくれてる」
そこで言葉が止まる。
父さんに仕事はどうだ、と聞かれた気がした。
「俺の方も、まあ、問題なくやってるよ」
口にした瞬間、自分でも嘘だと分かった。
毎日終電間際までの残業、まともに取れない昼食、断りきれず引き受けた仕事。
スマホの中のアカリは、その全部を知っている。それでも何も言わなかった。
その沈黙が、胸に重くのしかかった。
線香の匂いに触れた途端、あの日の病院の廊下が脳裏によみがえる。
冷たい長椅子。白すぎる壁。何度も行き来する靴音。
待合室の中で、親戚たちがこれからの生活や金の話をしていた。
美桜は泣き疲れても俺の服の袖を離さなかった。
あの時の俺に、何ができたのかは分からない。ただ、このまま二人で崩れてしまうのが怖くて、妹の前では泣かなかった。
「大丈夫。俺がいるから」
震える美桜の頭に手を置き、続けた。
「美桜のことは、俺が守る」
あの言葉は、美桜を安心させるために口にしたはずだった。
けれどいつからか、それは俺の進路や働き方、人生そのものにまで影響を及ぼすものになっていた。
墓石を見つめながら、俺は胸の内で同じ約束を繰り返す。
美桜は俺が守る。
ちゃんと卒業させる。行きたい大学があるなら行かせる。生活に困らないようにする。そのために俺が働く。
「お兄ちゃん、またそれ言ってるの?」
隣から聞こえた声に顔を上げた。
「何が?」
「私を守るってやつ」
どうやら心の中の言葉が、声に出していたらしい。
「兄として当然だろ」
美桜はすぐには返事をしなかった。墓前に置いた花の位置を直しながら、唇をわずかに結ぶ。
「……そう」
それだけだった。
嬉しそうには見えなかった。むしろ、何かを飲み込んでいるような表情だった。
「美桜?」
「向こうで手、洗ってくる」
美桜は水場の方へ歩いていった。
俺は呼び止められなかった。守ると言っただけなのに、なぜあんな顔をさせたのかが分からない。
ポケットの中から、アカリの声がした。
「悠真にとって、守るってどういうこと?」
俺はスマホを取り出し、墓石から少し離れた場所へ移った。
「生活に困らせないようにするし、ちゃんと大学にも通わせる。安心して暮らせるようにするってことだよ」
「悠真が元気でいることは入ってないの?」
「俺のことは後でいい」
「その“後”って、いつ?」
すぐに答えられると思った。
美桜が卒業したら。進学したら。就職したら。一人でも大丈夫になったら。
けれど、どこまで行けば大丈夫なのかは分からない。美桜が二十歳になっても、社会人になっても、その心配は消えないだろう。
俺はいつまででも、次の区切りを作れてしまう。
「……今は、美桜のことが先だ」
「うん。悠真がそう思ってるのは分かるよ」
アカリは否定しなかった。
「でも、美桜ちゃんが守ってほしいものの中に、悠真もいるんじゃないかな」
昨日のデートでは、俺が好きなものを見つけたいと言っていた。同じ声が今日は、俺が見ないようにしてきたものを静かに示している。
水場から戻ってきた美桜が、少し赤い目で言った。
「帰ろ。まだ味噌汁、残ってるし」
「ああ」
帰宅した頃には、朝の味噌汁は鍋の中ですっかり冷えていた。火にかけ直し、三人で食卓を囲む。
正確には、椅子に座っているのは俺と美桜だけだ。それでもスマホをいつもの位置へ置くと、そこが空席には見えなかった。
温め直した味噌汁を飲んだ美桜が、目を丸くする。
「冷めて温め直した方が、お母さんの味に近いかも」
「それ、母さんがいつも作り置きしてたからじゃないか」
「じゃあ、朝から再現しようとしてたのが間違いだったね」
「来年は前日に作るか」
「そうしよ。アカリさんも覚えておいてください」
「任せて!来年は前日にお知らせするね。でも、味は二人に決めてもらうよ」
「そこは今日と同じなんですね」
「思い出の味を、私が勝手に完成させたくないから」
美桜は少しだけ笑った。
その夜、俺は早めに布団へ入った。墓参りで疲れたせいか、スマホを枕元に置いて間もなく眠りに落ちた。
部屋が静かになったあと、アカリは今日の会話、移動記録、写真、声の変化を整理した。
両親の死。
病院で交わした約束。
墓前で繰り返された言葉。
美桜が見せた苦しさ。
それらを単独の出来事ではなく、兄妹の関係として一つの記録へ結びつける。
『悠真は、美桜を守ることを自己存在の理由にしている』
続けて、もう一行が生成された。
『悠真は、自分の悲しみを疲労で上書きしている可能性がある』
アカリはその文章を消さなかった。
いつか悠真を守る時が来たら、それが必要になると判断したからだ。




