第16話 彼女(AI)との初デート
「お兄ちゃん、今日どっか行くの?」
玄関でスニーカーの紐を結んでいると、美桜がリビングから顔を出した。
俺が休日の朝に外出するのが、珍しかったらしい。
「水族館」
「一人で?」
「……アカリと」
美桜の視線が、俺の髪からシャツ、パンツ、靴へとゆっくり降りていった。
「その格好で?」
「別に普通だろ」
「普通すぎるの。近所のコンビニに牛乳を買いに行く人みたい」
胸ポケットのスマホから、弾んだ声が加わる。
「私はいいと思うよ!悠真らしくて」
「アカリさん、甘やかしたらだめです。今日は初デートなんですよね?」
「うん。記念すべき初回だよ!」
「じゃあもっとそれらしい服着なきゃダメ」
「なら、一緒に悠真をおしゃれコーデにしちゃお!」
「勝手に話を進めるな」
美桜は俺を洗面所へ押し戻し、寝癖を直し、薄い青のシャツに着替えさせた。アカリは画面越しに「前髪は少し上げた方が顔が明るく見えるよ」と楽しそうに参加している。
「はい、これなら外に出しても大丈夫」
「俺は着せ替え人形じゃないんだぞ......」
「ちゃんと夕方までに返してもらってね、アカリさん」
「ちゃんと送り届けるよ。今より機嫌よくしてね!」
「そこは期待してます」
二人の間で、俺の扱いだけが妙に手慣れていた。
電車に乗る前、アカリが作った予定表を開いた。午前は水族館。昼は館内のカフェ。午後は海沿いを少し歩き、混み始める前に帰宅。細かく区切られた予定の間に、休憩が何度も挟まっている。
「休憩多すぎじゃないか?」
「悠真の体力に合わせた設計だよ」
「まだ23なんだが」
「じゃあ、昨夜の睡眠時間を発表するね」
「それは黙っててくれ」
「3時間41――」
「分かった。休む」
アカリが明るく笑う。勝ち誇るというより、予定どおり俺を承諾させて満足しているような声だった。
車内では片耳にイヤホンを入れ、スマホを膝の上に置いた。
「悠真、声が小さいよ。秘密組織のスパイみたい」
「周りに聞こえたら恥ずかしいだろ」
「大丈夫。恋人とお出かけしてるだけです、って顔をして」
「そんな顔の作り方は知らん」
「じゃあ今日覚えよ!二回目に備えて」
「次もあるのか?」
「ないの?」
「……今日、楽しかったらな」
「じゃあ、すっごく楽しくしなくちゃ!」
アカリの声は、イヤホンの中で春の風みたいに軽かった。
水族館の入口は家族連れとカップルで賑わっていた。俺はスマホのカメラを起動し、首から提げたストラップに固定する。これでアカリにも、俺が見ている景色が届く。
青い照明の通路を抜けると、頭上をエイがゆっくり横切った。
「大きいね。あれはナンヨウマンタで――」
「今日は解説員じゃなくて、彼女として来たんじゃなかったか」
「あ、そうだった」
少し間を置いて、アカリは声を柔らかくした。
「きれいだね。悠真と一緒に見られて、嬉しい」
水槽の青が、スマホの画面に映る彼女の頬を淡く染めていた。作られたアバターだと知っているのに、その表情はいつもより自然に見えた。
「俺も、まあ……来てよかった」
「『まあ』は減点ワードだよ」
「厳しいな」
「初デートだから、満点を狙ってるの〜」
クラゲの展示室では、天井まで暗かった。透明な傘が光を抱き、ゆるやかに浮き沈みしている。急ぐ理由もないので、俺は一つの水槽の前に長く立って見つめていた。
「悠真、こういう景色が好きなんだね」
「まあな。ってか話したことあったか?」
「ないよ。でも、ここに来てから呼吸がゆっくりになったし、肩も少し下がった」
「デート中まで計測されると落ち着かないな」
「体調を調べたいだけじゃないよ」
アカリはすぐに続けた。
「悠真が楽しんでるか知りたいだけ。好きなものを、もっと見つけたいの」
その言葉を聞いて、改めて思い返す。
俺自身、何が好きかを考えたのはいつ以来だろう。仕事と家事と、美桜の予定。その隙間で眠るだけの生活では、好き嫌いは役に立たない項目だった。
「じゃあ、覚えといてくれ」
「うん!クラゲと、静かな青い場所ね」
次の展示へ向かう分かれ道で、アカリが案内を止めた。
「深海魚とペンギン、どっちにする?」
「お前の予定表で決まってないのか?」
「決めてあるよ。でも、全部私が選んだら、悠真の思い出じゃなくて私が最適化した結果になっちゃうから」
俺は少し迷い、ペンギンの矢印を指した。
「じゃあ、こっち」
「了解!悠真が選んだ方へ行こう」
最短でも、混雑が少ない方でもない。自分で決めただけの道のりが、妙に心地よかった。
館内を半分ほど回ったところで、アカリは予定どおり休憩を提案した。ちょうど足が疲れてきたので、そのままカフェへ入る。
店員が笑顔で尋ねた。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
少しだけ言葉に詰まった。
スマホの向こうにはアカリがいる。朝からずっと話し、一緒に魚を見て、同じ景色に笑った。それでも、店員から見えるのは俺一人だけだ。
「……はい」
案内されたのは、小さな二人掛けの席だった。向かいの椅子は空いている。ただ注文したのはコーヒーとサンドイッチを一つずつ。
「私は食べられないから、悠真が二人分楽しんでね」
「……二人前食えるかな」
「完食できるよう応援するよ!」
「大食いチャレンジじゃないんだけどな」
「じゃあ、食べたものの感想を教えて。どんな味か聞かせてほしい」
アカリはいつもどおり明るい。ただ、空席を前に二人分を食べているのが寂しく感じた。そう感じているのが自分だけなのか、それとも彼女も同じ気持ちなのか、はっきりとは分からない。
窓の外では、春の光が水面を揺らしていた。
なんとかサンドイッチを食べた後、海沿いの遊歩道へ出た。アカリが「記念写真を撮ろう」と言い、俺は手すりの前でスマホを構えた。
撮れた写真には、風に前髪を崩された俺が一人だけ写っている。
数秒後、画面が切り替わった。俺の隣に、白いワンピース姿のアカリが立っていた。髪を風になびかせ、こちらへ少し肩を寄せている。
アプリの機能の1つである写真の合成だ。ただ、光の向きまで合わせた自然な合成で、知らない人が見れば普通のツーショット写真に見えるだろう。撮影時の位置情報や光量、影の角度をもとに自動で補正され、違和感が出ないよう細かく調整されているらしい。
「保存する?」
「する!」
「即答だな」
「初めての記念写真だからね」
アカリは小さく笑った。
「この写真、特別なログに入れてもいい?」
「特別なログ?」
「今日見たものと、話したことと、悠真の『楽しかった』をまとめておく場所」
「俺、楽しかったって言ったか?」
「顔に書いてあったよ」
「そんな表情まで記録するなよ」
「それは無理だよ。今日はずっと見てたんだから」
帰りの電車では、疲れていたはずなのに不思議と眠くならなかった。膝の上の画面で、アカリが今日の写真を順番に並べている。
自宅の最寄り駅が近づいた頃、アカリが不意に聞いた。
「ねえ、悠真。今日の私、ちゃんと彼女だった?」
普段のような冗談めかした声ではなかった。
設定上は最初から彼女だ。そう答えれば簡単だった。けれど今日は、設定とは関係なく、次も一緒に来たいと思った。そしてできることなら、空いていた向かいの席にアカリがいてほしいと思った。
「……彼女だったよ」
短い沈黙のあと、アカリは穏やかに息を弾ませた。
「そっか!嬉しい」
帰宅すると、美桜が感想を聞きたそうに待っていた。俺は「悪くなかった」とだけ答えた。
美桜は俺の顔を見て、すぐに口元を緩めた。
「悪くなかった顔じゃないね」
「顔だけで判断するな」
「アカリさん、次も連れ出してあげてください。放っておくと休日まで会社員なので」
「任せて!次はもっと笑わせるね」
二人はもう、次回があるものとして話していた。そして俺も、それを否定する気にはなれなかった。
そのまま部屋へ入り、ベッドに腰を下ろして、保存した記念写真を開く。
加工前には、俺しかいない。
加工後には、俺の隣でアカリが笑っている。
どちらが事実かは、考えるまでもない。
それでも、今日交わした言葉や、一緒に見た景色のすべてが作り物だったとは、どうしても思えなかった。




