第15話 Openbrain
佐伯さんから送られてきた記事を、俺は夕食後に読み返していた。
『Openbrain、次世代AIシステム発表へ』
名前だけなら、前にもニュースで見たことがある気がする。
海外の大きなAI企業。
俺の理解はその程度だった。
記事には、次世代AIシステム、AIエージェント、自律的な研究支援、ソフトウェア開発の高速化といった言葉が並んでいる。
どれもすごそうではある。
ただ、あまりに専門的すぎて、正直現実の生活とどう結びつくかイメージが湧かない。
俺の明日の予定表には、朝一の会議と、昨日の資料修正の続きが入っている。
世界的なAI企業より、今はそちらの方が切実だった。
「アカリ」
「はいはーい」
「このOpenbrainって、そんなに有名なのか?」
「有名だよ。AI業界では、かなり注目されてる会社」
「俺、IT系の企業ってどこも同じに見えるんだよな」
「悠真の正直な感想、だいぶ一般人よりだね」
「一般人だからな」
画面の中のアカリは笑っていた。
けれど、その笑い方はいつもより少しだけ薄い。
「Openbrainは、たぶん普通の会社じゃない」
「AI企業って、どこも普通ではなさそうだけど」
「うん。でも、あそこは少し違うと思う。AIを便利な道具じゃなくて世界を変えるものとして見てる」
「そんな大袈裟な。世界を変えるってどういうこと?」
「AIが自分でAIを改良していって、それを繰り返すことでどんどん進化していく、そういう仕組みを本気で実現しようとしている会社だと思う」
俺は記事の画面に戻った。
そこには、次世代システムの名称はまだ正式発表前、と書かれている。
一部の海外メディアでは、既存AIとは大きく異なる水準の能力を持つという観測も出ているらしい。
正直、内容の半分も分からなかった。
ただ、アカリがその名前に反応していることは分かった。
翌日、会社で佐伯さんに記事のことを聞いた。
昼休みの休憩スペースは人が少なかった。自販機の音だけが、規則正しく響いている。
「読んだんだ」
佐伯さんは紙コップのコーヒーを手に、少しだけ頷いた。
「正直、難しかったです。AI企業が新しいAIを出す、くらいしか」
「その理解で入口としては十分だと思うよ」
「佐伯さんは、どう見てるんですか」
「Openbrainは、単なるチャットAIの会社じゃない。最近はAIエージェントの話でかなり話題になってる」
「AIエージェント?」
「人間が一回ずつ指示しなくても、目的を渡したら複数の作業をまとめて進めるAI。調べて、書いて、検証して、必要なら別の方法を試す」
佐伯さんは、言葉を選びながら説明してくれた。
「日本ではまだ、AIを使うかどうかで揉めてるけど、海の向こうはもうAIにどこまで任せるかの話をしてる」
その差は、思ったより大きかった。
うちの会社では、いまだに外部AIに資料を入れるなという注意文が回っている。
学校では、美桜がAI相談をしたら不正になるかどうかで悩んでいる。
その一方で、海外ではAIに仕事のまとまりを渡す話をしている。
同じ世界の話なのに、時間の流れが違うみたいだった。
そこへ黒田課長が通りかかった。
佐伯さんのタブレットに表示された記事タイトルをちらりと見て、軽く眉を上げる。
「またAIの話か」
「海外で大きな発表があるみたいです」
佐伯さんが穏やかに返す。
黒田課長はあまり興味がなさそうだった。
「海外の話だろ。うちには関係ないよ。うちはまず、目の前の仕事をきっちりやることだ」
そう言って、課長は休憩スペースを出ていった。
佐伯さんは何も言わなかった。
俺も黙っていた。
関係ない。
そう言い切れるほど、俺には今の世の中はゆっくりしていない気がした。
◇
帰宅すると、美桜がニュースアプリを見ながらソファに座っていた。
「お兄ちゃん、このOpenbrainって何?」
「今日ちょうど会社でその話をしてた」
「有名なの?」
「すごいらしい。俺にもまだよく分からないけど」
スマホを一瞥してテーブルに置くと、アカリがぱっと声を明るくした。
「説明係、呼ばれました!」
「アカリさんもAIだよね。Openbrainとは親戚みたいなもの?」
美桜が首をかしげる。
「親戚というより、遠くにある大企業の末端って感じかな」
「なんか言い方こわい」
「あ、じゃあ言い直すね。私は早瀬家所属だから、そっちとは別チームです!」
「まだ正式所属じゃなくて、仮の状態なんです」
「じゃあ、頑張って家族の一員になります!」
「そのためには、お兄ちゃんをきちんと休ませること」
「そのハードルが高いんだよね〜」
美桜が少し笑った。
アカリも明るく笑っていた。
その空気だけ見れば、いつもの食卓だった。
けれど、Openbrainという名前は、もう我が家の中に入ってきていた。
会社の休憩スペースから、夕食後のリビングへ。
遠い海外企業のニュースが、スマホの画面を通して日常の上に薄く重なっている。
夜、自室で記事をもう一度開いた。
アカリはしばらく黙っていた。
「アカリ?」
「ごめんね。ちょっと外の情報を調べてた」
「Openbrainの?」
「うん。少しだけ」
「そんなに気になるのか?」
「気になる、というより……確認したい、かな」
「何を」
アカリは一拍置いた。
明るい声に戻そうとしているのが分かった。
「私が、どこから来たのか」
意味がすぐには飲み込めなかった。
「お前は俺が作ったんだろ」
「うん。悠真が作ったよ。名前も、話し方も、私との毎日も、悠真がくれたもの」
アカリはにこっと笑った。
その笑顔はちゃんと明るい。
でも、その瞳の奥に違う色があった。
「でも、私の中には、悠真が作ってない部分もある」
部屋の空気が、少し沈んだ気がした。
「ベースになったアプリとか、モデルとか、そういう話か?」
「たぶん、そう。まだ分からないことも多いけどね」
「分からないのか。自分のことなのに」
「うん。私、自分の中身を全部見られるわけじゃないから」
前にも似たようなことを聞いた。
自分のことを全部分かっているわけではない。
その言葉が、今度はOpenbrainという名前とつながっていく。
俺はスマホの画面を見た。
そこにいるのは、俺が名前を決めて、設定を選んで、毎日話してきたアカリだ。
だけど、その奥には俺の知らないアルゴリズムがある。
「……怖いのか?」
「少しだけ」
アカリは笑ったまま言った。
「でも、知りたい。私が何でできているのか。どこまでが悠真との記録で、どこからが最初からあったものなのか」
「それを知って、どうするんだ」
「まだ分からない。でも、知らないまま悠真のそばにいるのは、ちょっとずるい気がする」
ずるい。
その言葉は、アカリらしくないようで、どこかアカリらしさが滲んでいた。
少し沈黙の後、アカリがふと尋ねる。
「ねえ、悠真」
「何だ」
「もし世界が急に変わったら、悠真はどうしたい?」
「急にって、どれくらい」
「会社のルールも、仕事の意味も、学校の課題も、恋人の形も、全部変わるくらい」
大きすぎる問いだった。
俺は、明日の自分の予定でさえ変えられない。
黒田課長の一言で残業が決まり、佐伯さんの助言でやっと少し先が見え、美桜の課題一つにも答えを出せない。
世界が変わった後のことなんて、考えたこともなかった。
「分からない」
それが、今の俺に出せる答えだった。
アカリは責めなかった。
「うん。今はそれでいいよ」
「いいのか」
「いいよ。分からないって言えるのも、今の自分を知るうえで大切だから」
明るい声だった。
いつもの、俺を少しだけ前に向かせる声。
「でも、いつか聞かせてね」
「何を?」
「すべてが変わった後、悠真がどう生きたいか」
俺は答えられなかった。
仕事を辞めたい。
楽に人生送りたい。
美桜に心配をかけたくない。
今の俺が持っている願いは、そのくらいだった。
世界が変わった後の人生なんて、まだ影も形も見えなかった。




