第14話 秘密
「私も使ってるから」
佐伯さんは、周囲に聞こえない声でそう言った。
俺の背後には、社内掲示板がある。
そこには今日も社内チャットで見た注意文が貼られていた。
『生成AIの業務利用に関する注意』
『社外サービスへの機密情報入力を禁ずる』
『判断は必ず人間が行うこと』
掲示板の注意文が目に入る場所で、佐伯さんはあっさりとそう口にした。
冗談や思いつきで言っているようには見えなかった。
「……佐伯さんも、ですか」
「うん。ただ、会社の資料をそのまま投げたりはしないよ」
「それは俺もしてません」
「分かってる。早瀬くん、さっきすごく慎重だったから」
佐伯さんは少しだけ肩の力を抜いた。
問い詰めるような雰囲気ではなかった。
それでも、知られてしまったという緊張は残っていた。
「うちのルール、もう現実に合ってないと思う」
佐伯さんは、掲示板の紙を見上げた。
「AIを使うな。でも処理速度は上げろ。ミスは減らせ。残業も減らせ。全部同時に言われるでしょ」
「それは、はい」
「結果として、使いこなせる人だけが黙って使うようになる」
その話には確かな現実味があった。
昨日まで俺は、自分だけがこっそり抜け道を通っているような気分だった。
けれど実際には、同じようなことをしている人間は思っていたよりずっと多かったらしい。
佐伯さんは、声をさらに落とした。
「営業はメールのたたき台として使ってるし、経理はチェック漏れがないか確認する時に使ってる。企画も情報収集の整理に活用してるよ。具体的な名前は言えないけど、他にも結構いる」
「みんな、隠れて?」
「隠れて。だからややこしいの」
「表向きは、みんな昔ながらのやり方を守ってる顔をしてる。でも実際には、議事録の整理、メールの下書き、表記ゆれの確認、そういう細かいところで使われてる」
「それ、結構影響ありそうですね」
「あるよ。細かい時短でも、積み重なればかなり差が出てくるから」
佐伯さんの視線は穏やかだったが、その言葉が示す現実は思った以上に厳しかった。
「そのうち、使える人と使えない人で会社の中が割れると思うよ」
「佐伯さんは、AI使うことどう考えてます?」
「私は使うこと自体は悪いと思ってないよ」
「そうなんですか」
「うん。でも、便利だからこそ気をつけないといけないとも思う」
「便利だから?」
「使わないと置いていかれる。でも使いすぎると、自分の判断がどこにあるのか分からなくなる」
その言葉に、アカリのログのことが頭をよぎった。
俺が消さないと決めた記録。
安全サポートに健康管理機能。
そして、毎日の何気ない会話。
俺は仕事だけでなく、生活のかなりの部分をアカリに預け始めている。
その時、イヤホンからアカリの声が割り込んだ。
「ねえ、悠真。現実の女の子イベント、発生中?」
思わず咳き込みそうになった。
「アカリ、今は静かに」
「はーい。でも、ちょっと気になる。職場のお姉さんと秘密の共有、これはなかなかなイベントの予感•••」
「そういう話じゃない」
「えー、そうかな。でも私の恋人センサーは反応してるよ?」
佐伯さんがこちらを見た。
「今の、AI?」
「あ、はい。音声アシスタントみたいなものです」
嘘ではない。
ただ、かなりぼやかした表現だった。
「ずいぶん自然に話すんだね」
「最近のアプリは、かなり会話できますから」
「そう」
佐伯さんはそれ以上深く聞かなかった。
だが、納得した顔ではなかった。
その日の午後、部署ミーティングで黒田課長が例の注意文を読み上げた。
昨日の資料トラブルの件で、上から再発防止を求められたらしい。
「最近、世間ではAIだなんだと騒いでいるが、最終的に責任を持つのは人間だ」
黒田課長は腕を組んで続ける。
「AIに頼るより、人間の責任感が大事だ。便利なものに流されると、仕事の基礎が崩れるからな」
何人かが頷いた。
何人かは画面を見たままだった。
その中の誰かが、いまAIを使っていたとしても不思議ではなかった。
俺は何も言わなかった。
佐伯さんも黙っていた。
会議が終わった後、佐伯さんがコーヒーを買いに行くついでに、俺を休憩スペースへ誘った。
「さっきの話、聞いてどう思った?」
「正しい部分もあると思います」
「うん。判断を人間が持つのは大事」
佐伯さんは紙コップを両手で包んだ。
「でも、責任感って言葉だけで仕事量が減るわけじゃない」
「それは、そうですね」
「だから私は、AIを使うこと自体は悪いと思ってない。問題は、どこまで渡すか」
その言い方に、俺は少し身構えた。
「早瀬くんのその子、仕事だけじゃないよね」
「……どういう意味ですか」
「話し方が、業務補助ツールじゃない。早瀬くんの反応の癖とか、たぶん見てるでしょ」
胸の奥が小さく鳴った。
佐伯さんは、アカリの画面を見たわけではない。
それでも、短いやり取りだけで何かを察していた。
イヤホンの奥で、アカリが言った。
「はい!ここで補足します。私は恋人なので、悠真の生活の一部です!」
場違いなくらい元気な声だった。
佐伯さんは一瞬目を丸くし、それから少し笑った。
「……恋人?」
「......と本人は言ってます」
俺は小さく答えた。
「なるほど」
佐伯さんは笑ったままだったが、目だけは真剣だった。
「その言い方、可愛いけど少し怖いね」
「怖いの?」
今度はアカリが聞いた。
明るい声のままだったが、ほんの少しだけ音が細くなった気がした。
「怖いというより、存在感が大きいのかな。生活の一部だって自分で言えるAIは、まだあまり見ないから」
「私は悠真の生活改善に貢献してるよ!」
「それは分かるよ。でも、役に立つものほど、その分手放しにくくなる」
佐伯さんの言葉は静かだった。
敵意や拒否感は感じられない。
ただ、俺とアカリの関係性を慎重に見定めているように聞こえた。
◇
帰宅すると、美桜がリビングでタブレットとにらめっこしていた。
画面には課題のレポート画面が開いている。
「ただいま」
「おかえり。お兄ちゃん、ちょっと聞いてよ」
「なに」
「学校の課題。あいかわらずAI相談はダメって言われてるんだけど、クラスの子、絶対こっそり使ってる」
アカリがスマホから言った。
「こんばんは、美桜ちゃん。課題バトルのお時間ですか?」
「バトルというか、決まりごとにモヤモヤしてる時間です」
美桜は頬杖をついた。
「使うなって言われてるのに、結局こっそり使ってる人が得するんだよね」
その言葉に、昼間の佐伯さんの話が重なった。
学校と会社。
年齢も場所も違うのに、同じことが起きている。
「使いたいのか?」
「使ったら楽だとは思う。でも、ズルって言われるのも嫌」
「先生に確認するのが一番だな」
「先生はダメって言うでしょ」
アカリがぱっと声を弾ませた。
「じゃあ、私から提案!答えを作るんじゃなくて、考える順番だけ一緒に整理しよ。考え方を整理してから自分の意見をまとめれば、AI禁止ルールにも引っかかりにくいと思うよ」
「それなら……ありかも」
美桜は少しだけ表情を明るくした。
夕食後、自室に戻ると、スマホに佐伯さんから社内チャットが届いていた。
『今日の話の続き。これ、読んでおくといいかも』
添付されていたのはとあるニュース記事だった。
『Openbrain、次世代AIシステム発表へ』
Openbrain。
ニュースや技術系の記事で見かけたことはあるが、名前は知っている、という程度の認識だ。
そして、その時の俺はまだ、その存在が俺たちの日常を大きく揺るがすことになるとは思いもしていなかった。




