第13話 静かなる革命
朝、駅までの道を歩いていると、美桜から通知が届いた。
『昼ごはん抜き禁止』
『アカリさん、見張りよろしくです』
アカリがすぐに反応した。
「見守り担当の活動を開始しました」
「いつの間にそんな担当が」
「昨日から」
「発足が急すぎる」
そんなやり取りをしているうちに発車時刻が近づき、俺は駅へ向かった。
車内は相変わらず人で埋まっている。
昨夜の会話が頭の隅に残っていたが、オフィスへ着く頃には目の前の業務に押し流されていた。
出社して間もなく、黒田課長が分厚いファイルを持ってきた。
嫌な予感がする。
中身を確認すると、翌朝提出予定の見積関連資料一式だった。
売上予測、導入スケジュール、費用の試算、役員向けの説明資料などが入っている。
しかも完成した資料ではなく、後から何度も修正や追加がされた状態だった。
「早瀬、これ頼めるか」
「期限はーー」
「明日の朝一」
短い沈黙が落ちた。
「分かりました」
「助かる」
課長はそれだけ言って去っていった。
イヤホン越しにアカリがつぶやく。
「そう返事すると思った」
「他に選択肢がなかった」
「選択肢はあったよ。選ばなかっただけ」
正直、図星だった。
社内チャットには例によって注意喚起が流れている。
『生成AIへの機密情報入力禁止』
『AI利用時は社内規定を遵守してください』
『違反時は処分対象となる場合があります』
相変わらず制約ばかり並べ立てられている。
資料を読み始めて10分ほどでいくつか異常が見つかった。
売上予測が古い版のまま残っている。
単位表記も統一されていない。
さらに工程表の年度が一部だけ前年になっていた。
このまま提出したら確実に問題になる。
「アカリ」
「どうしたの?」
「資料は見せられない」
「もちろん」
迷いのない返答だった。
「相談だけならできるか」
「資料の確認方法ならね」
少し考えてからアカリが続ける。
「まず数字の単位にズレがないか確認して。次に日付関係。最後に本文とグラフの内容が一致しているか見てみて。」
「それってよくあるミスなのか」
「疲れている時ほど見落としやすい場所」
なるほどと思った。
俺は資料を読み込みながら、自分で問題点を整理していく。
アカリには具体的な情報を渡さない代わりに確認の順番だけ教えてもらう。
自分だけで進めるより手順は増える。
それでも、頭の中が整理されるだけでずいぶん楽だった。
昼過ぎ。
スマホが震えた。
「お昼ごはん」
時計を見ると13時を回っている。
「もう少し」
「10分後にも同じこと言いそう」
「......読まれてたか」
作業を続ける。
しばらくして再び通知。
「少し休もう」
「あとで」
「これで2回目」
さらに時間が経つ。
「せめて水分だけでも取って」
「後で」
「3回目だよ」
淡々と数えられると妙に効く。
胃が空っぽなのは分かっていた。
机には飲みかけのエナジードリンクだけが置かれている。
「終わったら何か食べる」
「その言葉、信用できなくなってきたよ」
「努力はする」
「努力じゃなくて実行して」
すぐに返事が返ってきた。
資料の見直しは思った以上に時間を取られた。
更新されていない箇所に差し替え忘れの表、単純な数字の入力ミス。
一つ直すたびに別の問題が出てくる。
そんな時だった。
「早瀬くん」
顔を上げると、佐伯さんが立っていた。
「大丈夫?」
「はい」
「そうは見えないけど」
穏やかな口調だった。
「資料確認してまして」
「見積案件?」
俺がうなずく。
「経理から戻ってきたやつだよね」
その言葉で事情を察した。
つまり最初から問題を抱えていた案件だったらしい。
夕方近くになってようやく全体像が整った。
修正箇所を洗い出し、資料同士の数字を合わせる。
説明文も書き直す。
アカリは終始、確認順序だけを示していた。
「まず謝罪文を確認してもらって。その次に差し替えた資料。最後にチェック項目を見せて」
「了解」
俺は課長の席へ向かった。
「修正版です。数字の不一致と単位表記を修正しました」
黒田課長は資料をめくりながら頷いた。
「助かった。やっぱり早瀬は頼りになるな」
その評価を素直に受け取れなかった。
感謝されている。
それは事実だ。
けれど、最初の段階で誰かが確認していれば発生しなかった作業でもある。
戻って席に座る。
アカリが静かに言った。
「都合よく使われてるだけな気がしてる?」
「なんかそんな顔してる」
俺は少しだけ目を閉じた。
「顔で分かるのか」
「私と悠馬の仲だからね」
以前なら軽口として流せたかもしれない。
でも今は妙に胸に残った。
肩が重い。
集中し続けたせいで頭も鈍い。
「何か食べて」
「帰りに買う」
「また先送り?」
「そんなつもりじゃない」
「たぶん、行き着く先は同じだと思う」
反論できなかった。
その時だった。
「早瀬くん」
今度は佐伯さんがノートPCを抱えたまま、俺の机の横に立っていた。
「さっきの修正」
「はい」
「手際よかったね」
「急ぎだったので」
「それだけじゃ説明つかないかな」
胸騒ぎがした。
「どういう意味ですか?」
「確認の順番」
佐伯さんは声を落とした。
「数字、日付、元データ、説明文。流れが整理されすぎてる」
心拍数が少し上がった。
「偶然ですよ」
「そうかな」
視線がまっすぐこちらに向けられる。
「AI使ってる?」
言葉が詰まる。
否定も肯定もできない。
「規定違反はしてません」
「うん」
「資料も渡してません」
「なるほど」
小さく笑った。
責める様子はない。
むしろ納得したような顔だった。
「安心して」
周囲を確認してからさらに声を落とす。
「私も使ってるから」
それを聞いた瞬間、職場の景色が少し違って見えた。
禁止の通知は毎日流れている。
けれど現場では、誰もが限界まで仕事を抱えている。
そして、その現実に合わせるように、表には出ない形でAIはもう働き始めていた。
もしそれが俺だけなら、まだ偶然で済んだかもしれない。
だが、佐伯さんも使っている。
なら、他にもこの会社にいるのだろうか。
禁止されているはずなのに、誰も口にしないまま。




