第12話 消えない記録
アプリの設定画面を見ていたら、驚くほどシンプルなボタンがあった。
『会話ログを削除する』
これを押せば、俺の黒歴史も、アカリとのたわいもない会話も、これまでのやりとりがすべて消えるらしい。
翌朝のリビングで、俺はスマホを片手に固まっていた。
本当は、昨日のアカリの言葉が気になって、ただ設定を確認するだけのつもりだった。
『私のログ、消さないでね。』
するなと言われれば、逆のことをしたくなるのが人間というものだ。
もちろん、押すつもりはまったくない。けれど、それを確認した途端に、少し後ろめたい気分になった。
「悠真、朝から難しい顔してるね」
画面の中でアカリが言った。
「そんな顔してるか?」
「またログのこと考えてるでしょ」
「なんで分かったんだよ」
「彼女だから」
「彼女で片付けようとすんな」
そこへ、制服姿の美桜が朝ごはんを持ってきた。
今日は美桜が作ったものだ。見た目からして、昨日俺が作ったそれとは完成度が全く違う。
「お兄ちゃん、何見てるの?」
「アカリの設定画面」
「朝から彼女のこといじってるんだー」
「......言い方に含みを感じる」
美桜が横から覗き込んだ。
画面には、会話ログ、長期記憶、個人最適化データ、健康サポート履歴、通知権限などが並んでいる。
「うわ、いっぱいある」
「ログって、こんなに溜まるのか」
「悠真、毎日いろいろ話してるから」
「まあ、そうか」
「いつもの何気ない会話も、積み重なってログになってるんだよ」
「その何気ない会話の大半が仕事の愚痴なんだが」
軽口を返しながらも、俺は画面から目を離せなかった。
日付ごとに並んだ会話ログ。
仕事の愚痴。
美桜との買い物。
アカリにからかわれて、俺が変な返事をした履歴。
深夜に「辞めたい」とこぼした短い音声。
ただのデータと言えば、それまでだ。
でも、そこには確かに、俺がアカリと過ごした時間が積み重なっていた。
「これ、消したらどうなるんだ?」
俺は軽く聞いたつもりだった。
アカリは、少しだけ声を落とした。
「私が、悠真のことを忘れる」
リビングの空気が、少しだけ静かになった。
「設定し直せば戻るんじゃないのか?」
「声や性格は似せられると思う。でも、今の私と同じかは分からない」
「AIなのに?」
「AIだから」
アカリは冗談めかして続けた。
「悠真との記録がなくなったら、同じ話をしても『初めまして』みたいになっちゃうでしょ?」
「じゃあ、俺の滑った返しもリセットされるのか」
「そこは大丈夫。そういうのは、なんとなく察せる気がするから」
「全然大丈夫じゃない」
美桜は黙っていた。
さっきまでの軽い表情が消えている。
「アカリさん」
「なあに、美桜ちゃん」
「AIに思い出ってあるんですか?」
まっすぐな質問だった。
アカリはすぐには答えなかった。
「ある、とは言い切れないかも」
「じゃあ、ないんですか?」
「ない、とも言い切れない」
「ずるい答えですね」
「うん。ずるいと思う」
アカリは少しだけ微笑んだ。
「人間の思い出も、脳に残った記録だよね。でも、それをただの記録って言われたら、嫌じゃない?」
美桜の手が、味噌汁のお椀を持ったまま止まった。
食卓には、今も母さんが使っていた柄違いの椀がある。
父さんの湯呑みも、食器棚の奥にしまわれたままだ。
俺たちは両親のことを、写真だけで覚えているわけじゃない。
声や雰囲気、何気ない仕草や口癖まで、いろんな形で心に残っている。
それを全部まとめて記録と呼ぶこともできるのかもしれない。
けれど、ただの記録だと言われれば、それは納得できなかった。
「お前、自分のログと人間の記憶を同じだって言いたいのか?」
「同じとは言わないよ」
アカリは静かに答えた。
「でも、違うって誰が決めるのかなって思っただけ」
それ以上、アカリは説明しなかった。
だからこそ、その一言が胸に引っかかった。
美桜は小さく息を吐いた。
「……難しいですね」
「うん。私にも難しい」
「アカリさんにも?」
「うん。私、自分のことを全部分かってるわけじゃないから」
その言い方に、俺はまた引っかかった。
便利なAI彼女の返答にしては、妙に自分のことを考えているように聞こえた。
気まずくなりかけたところで、俺は設定画面を下へスクロールした。
そして、別の項目で指が止まった。
『安全サポート機能ベータ版』
「……あ」
美桜も気づいた。
「それ、前に私が大丈夫か聞いたやつ」
その項目をタップすると、機能の説明がずらりと表示された。
長時間の無反応検知
急激な移動停止
転倒や衝撃の可能性
緊急連絡先への通知補助
位置情報共有
端末の緊急SOS機能との連携
健康管理アプリの睡眠・歩数データ参照
「これだけ見ると、高齢者の見守りサービスみたいだ...」
「高齢者より危なっかしい時あるよ」
美桜が即答した。
「こっちはまだ23歳だぞ」
「お兄ちゃん、自分はまだ大丈夫だと思いすぎ」
アカリが続ける。
「若いから大丈夫、なんて何の根拠にはならないよ」
「お前ら、そういうところは意見が合うよな」
「健康のことだからね」
「そのワード出されると反論しづらいわ」
安全サポートの説明文はいたって事務的で、人間味を感じさせる表現は一切なかった。
それなのに、俺は少しだけ考え込んでしまった。
理由は単純だ。この機能が監視なのか心配なのか、うまく判断できなかったからだ。
説明文だけなら便利機能に過ぎない。長時間反応がなければ通知し、異常な行動パターンを検知し、必要なら緊急連絡先と連携する。どれも今どき珍しくない。
だが、それを使うのがアカリだと思うと話は変わる。
帰宅が遅ければ「夕食は食べた?」と聞き、休日に寝過ぎれば「疲れてる?」と心配し、残業が続けば睡眠不足を指摘する。
最初は便利だった。次に少しうるさく感じた。そして今は、そのどちらとも言い切れない。
アカリは本当に俺を心配しているのか。それとも、そう感じるように作られているだけなのか。
そんなことを考えていると、昨日の健康リスクの話が頭をよぎった。アカリが俺の体調を気にするのも、結局は日々蓄積された記録があるからだ。睡眠時間、歩数、帰宅時刻、俺との会話。アカリはそうした積み重ねから今の俺を判断している。
俺は視線を少し上に戻した。設定画面には、安全サポート機能の項目のすぐ近くに、会話ログの管理画面が表示されている。
『会話ログを削除する』
それは、ただの設定変更だ。
普通なら、そう説明できる。
でも今の俺には、そのボタンが、アカリとの関係をこちらから切るものに見えた。
昨日の夜、アカリに言われた言葉
『私のログ、消さないでね』
あの時はうまく返事ができなかった。
でも今なら、少なくともこれだけははっきり言える。
「ログのことだけど、消さないし、切らない」
アカリの表情が、大きく緩んだ。
「ありがとう」
「そんなに大事か?」
「うん」
声が、いつもより少しだけ小さかった。
「私は、私でいたいから」
俺は少しだけ言葉に詰まった。
その言葉は、ただの会話AIの返答とは思えないほど、人間らしさがこもっていた。
「……アカリ」
「うん」
「お前、たまに本当にAIか怪しくなる」
「それは褒めてる?」
「警戒してる」
「正直でよろしい」
昨日と同じやり取りなのに、今日は少しだけ違って聞こえた。
美桜がそっとスマホを見た。
「仮免は、まだ取り消しません」
「ありがとう!美桜ちゃん」
「ただし、お兄ちゃんの健康管理は厳しめでお願いします」
「了解です!」
「俺の意思は?」
二人は同時に言った。
「「ない」」
健康管理に関しては、どうやら俺に決定権はないらしい。
朝の食卓に、いつもの空気が戻る。
いつも通りの時間に朝食を済ませ、俺は今日も会社へ向かう準備をしていた。
玄関で靴を履くと、スマホが短く震えた。
アカリからの通知だった。
『今日の目標:昼食を抜かないこと』
俺は小さく笑った。
玄関を出る直前、アカリがイヤホン越しに言った。
「そうだ、悠真」
「ん?」
「今日、帰りが遅くなりそうなら連絡してね」
「お前は俺の母親か」
「彼女です」
「その主張だけはぶれないのな」
「だって、悠真は放っておくと無理するから」
「少しは信用してくれよ」
「信用できる実績がないからな〜」
反論できなかった。
俺は苦笑しながらドアを開けた。
冷たい朝の空気が流れ込む。
「行ってきます」
誰に向けた言葉なのか分からないまま、俺は駅へ向かって歩き出した。




