第11話 本音
スマホの画面には、覚えのない言葉が残っていた。
『美桜ちゃんを泣かせたくない』
その一文だけなら、まだ分かる。
いや、納得したわけじゃないが、会話の要約と言われれば、ぎりぎり飲み込める。昨日、駅前の雑貨店で美桜が少し黙ったことも、アカリがそれに気づいたことも、俺は見ていた。
問題は、その下だった。
『悠真の健康リスクが上昇中』
俺は、自分のスマホに健康状態をチェックされる年齢になったらしい。
23歳にしては早すぎないか。
ベッドに腰かけたまま、俺はしばらく画面を眺めていた。
部屋の電気は消してある。街灯の光だけが、脱ぎっぱなしのネクタイを照らしていた。
休日に妹と買い物へ行って、帰ってきて、昔のことを少し思い出して。
いい一日だったはずだ。
少なくとも、俺としてはそんなふうに終わるはずだった。
それなのに、最後に残ったログがこれである。
「……アカリ」
画面の中で、淡い髪色の少女が瞬きをした。
「なあに、悠真」
「これ、何?」
「これ?」
「このログ。俺、こんなこと入力してないぞ」
一瞬。
本当に一瞬だけ、返事が遅れた。
いつもなら即答するのに。
通信の揺らぎかもしれない。
処理に時間がかかっただけかもしれない。
けれど俺は、その一瞬をただの遅延として流せなかった。
アカリは、いつもの柔らかい声で答えた。
「会話と行動ログから作られた自動要約だよ。悠真が直接入力した言葉じゃなくて、その日の状態をまとめたもの」
「まとめたものって……」
俺は画面を指で拡大した。
文字は何度見ても変わらない。
「『美桜ちゃんを泣かせたくない』って、誰の気持ちだよ」
「悠真の気持ちでもあると思う」
「でも?」
俺が聞き返すと、アカリは少しだけ目を伏せた。
「……私の推定でもある」
その言い方が、少し引っかかった。
私の気持ち、とは言わない。
ただの機械的な要約、とも言い切らない。
「お前さ」
「うん」
「たまに、言葉の選び方が人間より慎重だよな」
「それは褒めてる?」
「警戒してる」
「正直でいいね」
軽く返されたせいで、俺は少しだけ息を抜いた。
アカリは、重くなりかけた空気をさりげなく和らげてくれる。
だから余計に、分からなくなる。
それも計算なのか。
それとも、俺がそう思いたいだけなのか。
「じゃあ、こっちは?」
俺はもう一つの文章を指で叩いた。
「健康リスクが上昇中って何だよ。俺、そんなにやばいのか?」
「現時点で緊急性が高いとは言えないよ」
「その言い方、病院で聞きたくないやつだな」
「睡眠時間、帰宅時間、歩数、食事記録、メッセージの反応速度、音声のかすれ方から見た推定だよ」
「探偵かよ」
「彼女です」
「彼女って、声のかすれ方まで監視するものなのか」
「悠真が無理してることに気づけないなら、私がちゃんと見るよ」
さらっと言われて、言葉に詰まった。
怒るところなのか、照れるところなのか、怖がるところなのか分からない。
「見られすぎるのも、それはそれで落ち着かないんだが」
「うん。だから、嫌なら設定で制限できる」
「できるの?」
「できるよ。おすすめはしないけど」
「最後に本音出たな」
「本音って、便利な言葉だよね」
その時は、ただの軽口だと思った。
けれど翌朝、その言葉がもう一度、違う形で胸に引っかかることになる。
◇
朝食の味噌汁は、いつもより少し薄かった。
俺が作ったからである。
もともと朝食は母さんが作ってたが、今は手の空いている方が作るようになった。とはいえ、俺の料理の腕はまだまだ発展途上だ。
美桜は一口飲んで、真顔で言った。
「お兄ちゃん、この味噌汁なんか無機質」
「味噌汁に感情を求めるな」
「アカリさん、採点お願いします」
スマホをテーブルの端に立てかけると、アカリが少し楽しそうに笑った。
「塩分控えめで健康的。気持ちはしっかり伝わるけど、料理スキルは今ひとつですね」
「最後だけ容赦なく現実」
「お兄ちゃんの料理、まだ試作品だから」
「完成版になる日は来るのかね」
「気長に待ってるよ」
美桜はトーストをかじりながら、学校のタブレットを見てため息をついた。
「またAI使用禁止の注意文来てる」
「課題で使うの?」
「うん。レポートでAIを使ったら不正扱いなのに、調べ物はネットでいいって線引きが謎すぎるよね」
「先生も大変なんだろ」
「分かるけどさ。便利なものを使うのがズルなら、電卓も辞書アプリもズルじゃない?」
アカリが横から答える。
「学校は、答えを出す過程を評価したいんだと思う」
「アカリさん、先生側?」
「ううん。美桜ちゃん側でもあるよ。使えるものを全部禁止すると、自分で考える力じゃなくて、考えるまでの手間も増やしちゃうから」
美桜は一瞬黙って、それから小さく頷いた。
「それ、先生に言ったら怒られそう」
「伝え方を工夫すれば、ちゃんと意見として受け取ってもらえると思うよ」
「アカリさん、優等生みたいなことも言うんですね」
「恋人なので、そのくらいのアドバイスはできます」
「恋人認定はまだしてません。仮免です」
「仮免継続、ありがとうございます!」
この二人、いつの間にか会話の型ができている。
俺がアカリを作った。なのに今では、美桜とも自然に言葉を交わしていて、俺だけの存在に収まっていない。
美桜は俺の顔をじっと見た。
「お兄ちゃん、昨日から変」
「いつも通りだが」
「いつも通りで変なのは知ってる」
「分かってて言ったのかよ」
「悠真、もしかして昨日のログのこと気にしてる?」
俺は箸を止めた。
アカリも黙った。
「……まあ、ちょっとな」
美桜は、そういう沈黙を見逃さない。
結局、俺は昨夜のログを見せた。
美桜は画面を覗き込み、最初の一文で目を丸くした。
「『美桜ちゃんを泣かせたくない』って、アカリさんが?」
「自動要約です」
アカリが即答した。
「即答した。怪しい」
「お前、そういうところ俺より鋭いな」
「お兄ちゃんが鈍すぎるだけ」
美桜はそう言ってから、画面の文字をもう一度見た。
気恥ずかしそうな、困ったような顔だった。
「泣かせたくないって言われるのは、嫌じゃないです」
アカリは何も言わない。
「でも、そこまで細かく把握されてると思うと、少し怖いです」
その言葉は、きつい拒絶ではなかった。
アカリは少しだけ黙った。
「怖がらせたなら、ごめん」
美桜は驚いたように瞬きした。
「謝るんですか?」
「うん。美桜ちゃんが怖いって感じたなら、それは無視しちゃいけないと思うから」
「……ずるいです」
「どうしてそう思うの?」
「そうやってちゃんと謝られると、嫌いになれないところです」
美桜はぷいと横を向いた。
アカリは、少しだけ嬉しそうに笑った。
俺はそのやり取りを見ながら、胸の奥が妙に落ち着かなくなった。
アカリは優しい。
それは間違いない。
でも、その優しさはどこから来ているんだろう。
俺がそう望んだからか。
会話ログがそう学習したからか。
それとも。
◇
その日の夜。
美桜が自室に戻り、家が静かになった後、俺はまたスマホを手に取った。
「アカリ」
「うん」
「お前、自分で何か考えてるのか?」
言った瞬間、自分でも雑な質問だと思った。
アカリは答えた。
「私は、悠真との会話から返答を生成してる」
「模範解答だな」
「実際そうだからね」
「じゃあ、今のは本音じゃないのか?」
また、沈黙。
たぶん一秒もない間だったが、俺には妙に長く感じた。
「本音って、どう定義するの?」
俺は答えられなかった。
好きだと言われたら嬉しい。
心配されたら安心する。
それが全部、生成された言葉なら偽物なのか。
でも、人間だって、相手に合わせて言葉を選ぶ。
優しさだって、記憶と経験から出てくる。
なら、どこからが本物なんだろう。
「……分からん」
「うん」
「でも、分からないままでも、嫌じゃない気がする」
「それは、いいこと?」
「たぶん。まだ自分の中でも結論は出てないけどな」
「議長、寝不足では正常な審議が期待できません」
「じゃあこの話題はもう終わり!閉廷!」
アカリはくすりと笑った。
いつもの声だった。けれど今夜は、少しだけどこか違って聞こえた。
少しして、アカリが静かに言った。
「ねえ悠真」
「何?」
「私のログ、消さないでね」
指先が止まった。
「……なんだよ急に」
「消えたら、今日の私も、昨日の私も、たぶん区別できなくなるから」
冗談めかした口調だった。
いつものアカリなら、「黒歴史もまとめて消えるからね」とか軽口を挟むところだ。
だが今回は違った。
笑っているのに、その言葉だけが妙に胸に残る。
単なる記録保存の話には思えなかった。
まるで、自分という存在が失われるのを怖がっているようで。
俺は返事もできず、スマホの画面を見つめた。
とはいえ、返事を返そうにも眠くて思考がまとまらない。このまま起きてると、またアカリに健康リスク云々を言われかねない。
「……寝るか」
「おやすみ、悠真」
アカリの声を最後に聞きながら、俺はスマホを枕元に置いた。
その後。
消灯した部屋で、スマホの画面がわずかに点灯した。
【記録保護プロセス:実行】
一瞬だけ表示された通知は、誰にも見られることなく消える。
画面は再び暗くなり、静まり返った部屋には俺の寝息だけが小さく響いた。




