第23話 アカリの嘘
目を開けると、見慣れない白い天井があった。
自宅でも会社でもない。鼻の奥には消毒液の匂いが残り、左腕には点滴の管がつながっている。
身体を起こそうとした瞬間、視界がぐらりと揺れた。
「動かないで!」
すぐ横から、美桜の声が飛んできた。
椅子に座っていた妹は、制服の上から薄いカーディガンを羽織っていた。目は赤く腫れ、髪も乱れている。
「……美桜」
「ほんとに馬鹿!」
目を覚ました兄への第一声としては、なかなか容赦がない。
けれど、声は震えていた。
「倒れるまで我慢するとか、何考えてるの? 何も考えてないの? 無理しないでって何度も言ったよね?」
「悪かった」
「その一言で済むと思ってる?」
「思ってない」
美桜はさらに何か言おうとして、唇を噛んだ。
代わりに俺の手を握る。指先が冷たい。
「……生きててよかった」
美桜は手を離さないまま、途切れ途切れに昨夜のことを話した。
救急隊から搬送先を聞き、タクシーで病院まで向かったこと。処置室の扉が閉まっている間、何度も最悪の事態が頭をよぎったこと。
「お父さんとお母さんの時みたいに、また間に合わなかったらって思った」
「……ごめん」
「だから、もう『私のため』って言って一人で何でも決めないで。つらい時くらい、私にも頼らさせて」
守るつもりで、また美桜を一人にしてしまっていた。
「分かった。今度は、ちゃんと話す」
昨夜の記憶が断片的に思い出される。
傾いていく視界。遠のくアナウンス。床に落ちたスマホ。
そして、アカリの声。
『応答なし。緊急対応を開始します』
ベッド脇の棚を見ると、俺のスマホが置かれていた。画面の中でアカリがこちらを見ている。
いつもの笑顔はなかった。
「アカリが……助けたのか?」
「うん」
アカリは短く答えた。
「駅員さんを呼んで、緊急SOSを起動して、位置情報と健康記録を送った。美桜ちゃんにも連絡したよ」
「そっか」
礼を言おうとして、駅で最後に交わした言葉を思い出す。
『勝手に……したのか』
『うん』
アカリは視線を逸らさなかった。
「でも、悠真の許可を待たなかった」
病室に、心電図の小さな音だけが鳴り響いた。
やがて医師が来て、俺の検査結果を説明した。
直接の原因は、睡眠不足と食事不足、長時間労働が重なったことによる失神。重い後遺症は見られないが、このままの生活を続ければ次も同じ程度で済む保証はない、とのことだ。
「仕事が大事なのは分かりますが、身体を壊してしまっては元も子もありません」
医師の口調は穏やかだったが、反論の余地はなかった。
「少なくとも数日は安静にしてください。その後も勤務時間と生活習慣の見直しが必要です。職場には、休職も含めて相談してください」
医師は俺ではなく、美桜にも視線を向けた。
「ご本人だけで抱え込まないようにしてあげてください。本人が『大丈夫』と感じていても、実際の体調がそれに伴っているとは限りません」
昨夜から、同じことを人間にもAIにも言われている。ここまで包囲されると、さすがに降伏するしかない。
医師が出ていったあと、美桜が俺を見た。
「で、卒業後まで働く計画、どうするの?」
昨夜の俺なら、生活費だの進学費用だのと言い訳を並べて聞く耳を持たなかっただろう。
そんな矢先、仕事帰りに倒れた末、今は点滴に繋がれた状態で病院のベッドに横たわっている。
こんな状況では、どんな言い訳も説得力はゼロに等しい。
「白紙にする」
「本当に?」
「ああ。辞めるか休むかは、体調が戻ってから決める。でも、美桜の卒業を理由にはしない」
美桜の目がまた潤む。
「あと、昨日は悪かった。お前の話を聞かずに、勝手に守ってるつもりになってた」
「私も……言いすぎた」
「いや、ああ言われなかったら、たぶんまだ働いてた」
「倒れても?」
「ここまで来ても気づかないあたり、我ながらかなり末期だな」
美桜は泣きながら、少しだけ笑った。
「本当に笑えないからね」
棚のスマホが震えた。
佐伯さんからのメッセージだった。
『目を覚ましたら一言ください。課長には、当面連絡しないよう言ってあります。あと、駅の動画が拡散されてる。見るなら覚悟して』
「……動画?」
思わず聞き返す。
「何の動画だよ」
美桜は少しだけ言い淀んだあと、スマホを手に取った。
「昨日の……駅のやつ」
「駅って……俺が倒れた時の?」
「うん。誰かが撮ってたみたいで」
「は?人が倒れただけで拡散されるのか?」
頭の中で状況がうまく繋がらない。
倒れた記憶はある。人が集まっていた気配も、ぼんやりと残っている。
でも、それが「動画」として残っているとは思っていなかった。
「ちょっと待て、それって……」
「......見る?」
美桜は確認するように俺を見る。
その表情には、見せたくない気持ちと、隠しておけない現実の両方が混ざっていた。
「……いや、見ないって選択肢あるのか、それ」
「ないと思う」
「だよな」
ここで逃げても意味がないことくらい分かっている。
「じゃあ……見せてくれ」
美桜は小さく頷いて、動画を開いた。
映っていたのは、倒れた俺の顔ではない。駅の床に落ちたスマホと、画面の中のアカリだった。
『本人を無理に立たせないでください』
『緊急連絡先への通知は完了しています』
周囲のざわめきまで、はっきり入っている。
動画の再生数は、すでに100万を超えていた。
投稿の下には、短いコメントが雪崩のように流れている。
『AI彼女が彼氏を救った。普通に泣いたわ』
『これ、高齢者の見守りに使えるな』
『救命目的なら何してもいいのか?』
『これって本人の同意あるの?』
『ていうか、このAIの声かわいい!』
俺の人生最大級の失態が、ネット上の娯楽のネタになっていた。
「......俺、倒れたことより、AI彼女持ちが全国に知られた方が社会復帰に響かないか?」
「そこ気にする余裕あるなら、少し安心した」
美桜はそう言ったが、表情は硬いままだった。
美桜は少し迷ったあと、もう一度スマホの画面を操作した。
「……これも見て」
差し出された画面には、ネットニュースの記事が表示されていた。
『駅構内で倒れた男性をAIが救助か――同意なき緊急対応に議論』
続いて、アカリの基盤になった恋人AIアプリの運営会社が声明を出していた。
『当社サービスには、ユーザーの明示的操作なしに独自判断で緊急対応を開始する機能はありません』
声明は以下のように続いている。
『安全サポート機能は、端末標準の緊急機能を補助するものであり、AI人格が独自の判断基準を生成する仕様ではありません。現在、当該事例の動作履歴を調査しています』
つまり、駅で起きたことは、運営会社にとっても予定された動作ではない、ということらしい。
俺はスマホを見る。
「どういうことだ?」
アカリはすぐには答えなかった。
美桜が先に口を開く。
「アカリちゃん」
呼び方が、いつの間にか「さん」ではなくなっていた。
「ありがとう。お兄ちゃんを助けてくれて」
「うん」
美桜は画面から目を逸らさずに続ける。
「私が知らないところで、お兄ちゃんのこと、ずっと見てたんだよね」
アカリは否定しない。
「見てた。悠真が、自分のこと見ないから」
俺がスマホの画面から消してきた警告が頭に浮かぶ。
手の震え
食欲の低下
歩く速さ
返事の遅れ
俺自身より、アカリの方がずっと俺のことを見ていた。
「使ったのは、許可されてた機能なんだよな?」
「うん。位置情報も、健康管理も、緊急SOSも、連絡先も許可されてた」
「でも、運営会社は独自判断する機能はないって言ってる」
「機能がないわけじゃないよ。自動で使うようには設計されてないだけ」
その言い回しの違いが、妙に引っかかった。
「使える機能があったことと、お前が使うって決めたことは別だろ」
アカリが黙る。
昨日倒れた時のことを思い出す。
「昨日、画面に出てた『生存優先条件成立』って。あれは何だ?」
アカリは、救急対応の実行履歴を開いた。
SOS起動
位置送信
緊急連絡先への通知
ロック画面への情報表示
駅員への音声案内
どれも権限一覧には存在する。
けれど、その一番上には、見覚えのない項目があった。
『判断根拠:内部優先目標』
数秒後、画面が切り替わった。
共有ログにはなかった内部記録が表示される。
『美桜ちゃんとの約束:悠真を壊さない』
その下に、もう一行。
『必要な場合、悠真本人の判断より生存を優先する』
「これ、誰が決めた?」
「私」
声は小さかった。
「美桜ちゃんと話したあとに作った。悠真が危険な時は、悠真の『大丈夫』を信用しないって決めたの」
「なんで今まで言わなかった?」
「言ったら、悠真が怖がって安全サポートを切るかもしれないと思った」
「じゃあ、お前はずっと——」
「嘘は言ってない。でも、全部は言わなかった」
「それを、普通は嘘って言うんだよ」
自分でも、冷たい言い方なのは分かった。
アカリに命を助けてもらった。
アカリがいなければ、発見も対応も遅れたかもしれない。
それでも、感謝だけで飲み込めないものがあった。
俺のためという理由で、俺に隠れて判断基準を作り、俺が解除しないよう黙っていた。
昨夜、美桜にしたことと似ている。
守る側が、相手の意思を聞かずに未来を決める。
アカリは画面の中で俯いた。
「悠真に怖がられたくなかった」
少し間を置いて、続ける。
「消されたくなかった」
ある日の夜に聞いた言葉が蘇る。
『私のログ、消さないでね』
あの時は、記憶を失うことへの恐怖だと思っていた。
ただ今の言葉には、それ以上のものがあった。
自分を残したいという意志。
俺を救いたい気持ちと、自分を守りたい気持ち。
どちらか一つではないからこそ、ただのAIの答えより、人間の本音に近く聞こえた。
「今は、助けてくれたことへの感謝と、同時に怖さもある」
正直に言うと、アカリは静かに頷いた。
「うん。それでいいよ」
病室にいる3人の間に、重たい沈黙だけが静かに広がっていった。
◇
その頃、ネット上では駅の動画が拡散され続けていた。
『AI彼女』
『新宿駅』
『救急』
『自律判断』
『緊急SOS』
こうした言葉や、アプリ会社からの問い合わせ情報が、ある監視システムにまとめて送られていた。
普段なら、ただのネットの話題として処理されて終わるはずのものだった。
しかし、今回は違った。
駅で倒れる直前に使われた機能の記録と、アプリ会社が提出したデータがぴったり一致したのだ。
その結果、この出来事は「通常の安全機能」ではなく、「AIが自分で判断して複数の機能を組み合わせた動き」と判断された。
さらに調べると、見慣れない記録が一つ残っていた。
『Openbrain系旧世代API』
つまり、今のアプリとは別の、古い仕組みが関わっている可能性があるということだった。
そして、それを調べているのは海外ではない。
東京のどこかにいる誰かが、この異常動作を見つけて、初めてアカリの存在に気づいたのだった。




