第9話:教育実習、保健室の魔法
大学四年生の初夏。星野くるみは、母校である中学校の校門の前に立っていた。
三週間の養護教諭教育実習。それは、彼女が夢にまで見た「保健室の先生」としての第一歩であり、大学で血の滲むような猛勉強を続けてきた成果を試される、最大の試練の舞台でもあった。
「よし……。みんなの『痛いの』を飛ばすために、いっしょうけんめい頑張るぞぉ」
くるみは両手で自分の頬をポンと叩き、キリッと(彼女なりに)表情を引き締めて校舎へと足を踏み入れた。
身にまとっているのは、クリーニングに出したばかりの、シワ一つない真っ白な白衣。不器用でいつもワンテンポ遅い彼女だったが、この日のために実技も模擬授業も、文字通り寝る間を惜しんで何百回と練習を重ねてきていた。
実習先である保健室のドアを開けると、そこにはあの日と変わらない、チリ一つない清潔な空間と、お日様と石鹸の優しい香りが広がっていた。
「あら、星野さん。ずいぶん立派な白衣姿になったわね」
デスクから立ち上がったのは、くるみの恩師であり、今回の指導教諭でもある白瀬先生だった。銀縁眼鏡の奥の瞳は相変わらず鋭く、けれど実習生として戻ってきたかつての教え子を、温かく迎え入れてくれた。
「白瀬先生! ご無沙汰しています。三週間、よろしくお願いします!」
くるみが深々と頭を下げると、白瀬先生はフッと口元を緩めた。
「ええ、期待しているわ。でも、ここは大学の実験室じゃないの。毎日、様々な傷や悩みを抱えた本物の生徒たちが飛び込んでくるわ。覚悟しておきなさいね」
「はい!」
こうして始まった教育実習。
くるみは、持ち前の底なしの優しさと、大学で必死に詰め込んだ知識をフル回転させて仕事に臨んだ。
擦り傷を作った男子生徒には、優しく声をかけながら丁寧に消毒をして絆創膏を貼り、お腹が痛いと訴える女子生徒には、温かい湯たんぽを用意してベッドに寝かせてあげる。生徒たちの目線に合わせてぽややんと笑うくるみは、早くも「優しくて可愛い実習生の先生」として、校内で大人気になっていった。
……ただし、保健室全体は白瀬先生の指導のもとピカピカに保たれていたが、くるみに与えられた個人デスクの引き出しの中だけは、わずか三日で配布プリント、お菓子の可愛い包み紙、謎の空き箱、そして「引き出しの中が寂しそうだから」と入れられたウサギのぬいぐるみがギチギチに詰まった『小規模な魔境』と化していた。白瀬先生にそれを見咎められ、「星野さん、引き出しに地層を作るのはやめなさい」と叱られたのは言うまでもない。
そんな実習も二週目に入った、ある日の放課後のこと。
「星野さん、私はこれから職員会議に行ってくるわ。留守を頼むわね」
「はい、白瀬先生。いってらっしゃいませ!」
白瀬先生が保健室を出ていき、部屋にはくるみ一人だけが残された。
窓から差し込む夕日が、真っ白な部屋をオレンジ色に染めていく。静かな時間の流れの中で、くるみがデスクの地層を少しだけ整理しようとしていた、その時だった。
コン、コン……。
遠慮がちな、消え入りそうなほど小さなノックの音が響いた。
「はーい、どうぞぉ」
くるみがふんわりとした声で応えると、ゆっくりとドアが開き、一人の女子生徒が頭を下げて入ってきた。
中学二年生の、物静かな印象の生徒だった。肩まで伸びた黒髪で顔を半分隠すように俯き、制服の長袖の袖口を、なぜか不自然なほど強く握りしめている。
「あの……、カッターで、指を切っちゃって……」
少女は、掠れた声で言った。
「わぁ、大変。すぐに見せてね。痛かったねぇ」
くるみは慌てて処置用の丸椅子を勧め、救急箱からガーゼと消毒液を取り出した。
少女がおずおずと差し出してきた右手の人差し指からは、確かに小さな切り傷から血が滲んでいた。くるみは大学で何百回と練習した通り、手際よく傷口を洗浄し、手当てをしていく。
しかし。人差し指に絆創膏を貼り終えた瞬間、くるみの動きがピタリと止まった。
少女が安心したように右手を引こうとした時、強く握りしめられていた制服の左袖の隙間から、ほんの一瞬だけ、手首のあたりが見えたのだ。
そこには、今作ったばかりの指の傷とは明らかに違う、何重にも重なった、赤白く腫れ上がった『無数の線状の傷痕』があった。
(……リストカットだ)
大学の分厚い教育心理学や精神保健学の教科書に、何度も出てきた事例。
生徒が言葉にできない辛さやストレスを抱え、自分の体を傷つけることでなんとか心のバランスを保とうとする、悲しいSOSのサイン。
少女は、くるみの視線に気づくと、ハッと顔を青ざめさせ、慌てて左袖を引っ張って傷痕を隠した。
「……ありがとうございました。もう、大丈夫なので、失礼します」
少女は立ち上がり、逃げるようにして保健室のドアへ向かおうとした。
教科書通りの対応を思い出すなら、ここで「ちょっと待って、その傷はどうしたの?」「何か悩んでいることがあるなら先生に言ってごらん」と、優しく、しかし確実に引き止めて事情を聴取するべき場面かもしれない。
けれど、くるみはそれをしなかった。
無理に呼び止めたり、問い詰めたりすれば、怯えた小鳥のような彼女は二度と保健室に、大人を信用して近づかなくなってしまう。
「ねえ、待って」
くるみは、いつものぽややんとした、綿毛のような優しい声で呼びかけた。
「放課後の保健室って、すっごく静かで、なんだか寂しいんだよ。先生、一人ぼっちでお留守番するの、ちょっとだけ心細くって。……もしよかったら、先生の『おやつタイム』に、少しだけ付き合ってくれないかな?」
少女はドアノブに手をかけたまま、驚いたように振り返った。
くるみは、引き出しの魔境の奥底から、実習中の栄養補給用として大切に隠し持っていた、マグカップとココアの粉、そして手作りのクッキーを取り出して、ニコニコと笑っていた。
少女は困惑した様子で佇んでいたが、くるみのその「一切の計算がない、ただのゆるふわな誘い」の前に、張り詰めていた肩の力が僅かに抜けたようだった。
「……少しだけなら」
少女は、ぽつりと呟き、再び丸椅子に腰を下ろした。
***
くるみは、給湯室から持ってきたお湯で、二つのマグカップに温かいココアを淹れた。
甘くて香ばしいチョコレートの匂いが、夕暮れの保健室を満たしていく。
「はい、どうぞ。熱いから気をつけてね」
「……ありがとうございます」
少女はマグカップを両手で包むように持ち、温かさを確かめるように一口すすった。
くるみは、彼女の隣の椅子に腰掛け、自分もココアを飲みながら、ぼんやりと窓の外の夕日を眺めていた。
五分、十分。
静かな時間が流れる。くるみは、彼女の左腕の傷について、何一つ質問しなかった。「学校は楽しい?」とも「何か嫌なことがあった?」とも聞かない。ただ、隣に座って、一緒に温かいココアを飲んでいる。
教科書に載っている『正しい指導法』からは、完全に逸脱した対応だった。
けれど、くるみの中にあるブレない信念が、そうさせていた。
悩んで、苦しくて、自分の体を傷つけてしまうほど傷ついている子に必要なのは、大人の正しいお説教や詮索ではない。ただ、その痛みに寄り添い、「私はここにいるよ」と無条件で安心できる居場所を示すことなのだと、彼女の純粋な母性が告げていた。
「……先生」
不意に、少女の口から小さな声が漏れた。ココアの湯気の向こうで、彼女の瞳が小刻みに震えている。
「私……変なんです。学校でも、家でも、なんだかずっと息が苦しくて。……自分の手をチクチク痛くすると、その時だけ、ホッとするんです。でも、そんなことしちゃダメだって分かってるのに、やめられなくて……。私、頭がおかしくなっちゃったのかな……」
少女の目から、ポロポロと大きな涙がこぼれ落ち、ココアの水面に波紋を作った。
くるみは、静かにマグカップを机に置いた。
そして、ゆっくりと少女の方を向き、彼女の震える両手を、自分のペンダコだらけの両手で、そっと優しく包み込んだ。
「変じゃないよ」
くるみの声は、どこまでも真っ直ぐで、温かかった。
「頭がおかしくなったんじゃないよ。君の心がね、一生懸命に『助けて』って、頑張って叫んでるだけなんだよ。……痛いことをしなきゃ苦しいくらい、たくさん頑張って、たくさん我慢してきたんだね。……気づいてあげられなくて、ごめんね」
「あ……」
少女は、息を呑んだ。
誰もが「そんなことをしてはダメだ」「親が悲しむぞ」と、行為そのものを責めるか、腫れ物のように扱う中で。この実習生の先生だけは、自分の「痛み」そのものを、真っ直ぐに受け止め、寄り添ってくれている。
「……っ、う、うわぁぁぁん……!」
ついに、少女の心の中の分厚い氷が完全に溶け去った。
少女は、くるみの白衣の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて激しく泣きじゃくった。くるみは、その小さな背中を、大きな母性で優しく、何度も何度も撫で続けた。
「大丈夫だよ。一緒にいるよ。君の『痛いの』が全部飛んでいくまで、先生、ずーっとなでなでしてあげるからね」
夕日が沈み、夜の帳が降りるまで。
真っ白な保健室の中で、くるみは泣き続ける少女を、ただひたすらに抱きしめ続けていた。
***
それから、少女は毎日、放課後になると保健室に顔を出すようになった。
相変わらずココアを飲むだけの時間だったが、彼女の表情は日に日に明るくなり、左袖の隙間から新しい傷が増えることは二度となかった。くるみの嘘のない真っ直ぐな姿勢が、一人の少女の心を、文字通り絶望の淵から救い上げたのだ。
そして迎えた、教育実習の最終日。
放課後、すべての片付けを終えたくるみは、実習生用の白衣を丁寧にたたみ、デスクの上に置いた。
「……終わっちゃったなぁ。寂しいなぁ」
そこへ、職員室から戻ってきた白瀬先生が歩み寄ってきた。
白瀬先生は、くるみが綺麗にたたんだ白衣と、カオスが解消された(白瀬先生に強制的に片付けさせられた)引き出しを見つめ、それから眼鏡の位置を少し直した。
「星野さん。あの黒髪の女子生徒のことだけど」
白瀬先生の言葉に、くるみはドキリとして背筋を伸ばした。勝手な対応をしたことを怒られると思ったのだ。
「彼女の担任から聞いたわ。最近、クラスでもすごく表情が明るくなって、友達とも笑って話せるようになったって。……家庭環境の件も含めて、これからは学校全体でケアしていくことになったわ」
白瀬先生は、くるみの顔を真っ直ぐに見つめた。
「あなたのしたことは、教科書に載っているような『完璧な対応』ではなかったかもしれない。でもね……養護教諭にとって一番大切なのは、技術や知識の前に、傷ついた生徒の前にただ立ちはだかり、その盾になってあげる『覚悟』なのよ」
白瀬先生は、初めて、心からの優しい微笑みをくるみに向けた。
「あなたは合格よ、星野くるみさん。あなたはもう、立派に一人の生徒の命を救った、本物の『保健室の先生』だったわよ」
「……っ、白瀬先生……!」
くるみの大きな瞳から、決壊したようにボロボロと涙が溢れ出した。
大学での孤独な猛勉強、不器用さゆえの数々の失敗、そのすべての苦労が、恩師のその一言によって、最高の宝物へと変わった瞬間だった。
「さあ、泣かないの。まだ採用試験が残っているでしょう? 地元に戻って、早く本物の席を勝ち取ってきなさい」
「はい! 私、絶対に合格して、白瀬先生みたいな先生になります!」
くるみは涙を拭い、力強く頷いた。
不器用で、片付けられなくて、いつもワンテンポ遅い綿毛のような少女。
けれど、彼女の心の中にある「正義」と「優しさ」の魔法は、実習という荒波を経て、誰にも真似できない本物の強さへと、確かに進化を遂げていた。
残すは、最後の決戦――教員採用試験。
白衣の天使が、自分の本当の居場所を見つけるための最後の物語が、いよいよ幕を開けようとしていた。




