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第8話:分厚い専門書と、ブレない信念

春。

桜の花びらが舞い散る中、星野くるみは県外にある私立大学の門をくぐった。

教育学部と看護学部の両方のカリキュラムを履修できる、養護教諭(保健室の先生)を目指す者にとっては非常に実践的で、かつ厳しいことで知られる大学である。

「くるみ、本当に一人で大丈夫なの? ゴミの日は火曜日と金曜日だからね! 絶対に、絶対に溜め込んじゃダメよ!」

引っ越しの日。新築の綺麗で真っ白なワンルームアパートにくるみの荷物を運び終えた母親は、別れ際、涙よりも何よりも先に強烈な念押しをした。

「だぁいじょうぶだよぉ、お母さん。私もう大学生だもん。ちゃんとお片付けして、綺麗なお部屋でお勉強するね」

くるみは、新品のエプロン姿でえっへんと胸を張った。

母親は「その言葉、今まで一万回は聞いたわよ……」と頭を抱えながらも、最後は「しっかり夢を叶えるのよ」と優しく抱きしめ、地元へと帰っていった。

初めての一人暮らし。新しい家具、真っ白な壁紙、ピカピカのフローリング。

誰もが憧れるキラキラとしたキャンパスライフと、自立した美しい生活がそこから始まる――はずだった。

それから、わずか三ヶ月後。

初夏の風が吹き始める頃、くるみの住むアパートの102号室は、大家が知れば卒倒するであろう『完全なる魔境』へと変貌を遂げていた。

「うーん……骨格さんたちの名前、むずかしいなぁ……」

くるみは、フローリングの床(※正確には、床の上に敷き詰められた分厚い医学書とプリントの地層の上)に正座し、頭を抱えていた。

高校時代の『教科書の塔』は、大学に入ってさらに凶悪な進化を遂げていた。

『解剖生理学』『小児科学』『教育心理学』『公衆衛生学』……。養護教諭になるために頭に叩き込まなければならない専門書の数は膨大で、しかも一冊一冊が辞書のように分厚く、そして重い。

さらに、くるみの「物に感情移入してしまう」という致命的な優しさは、大学の教材に対しても遺憾なく発揮されていた。

部屋の右側には、人体の構造を学ぶための『解剖生理学の山脈』がそびえ立っている。

左側には、子供の発達を学ぶための『小児科学の樹海』。

そして部屋の中央には、実技練習のために購入した等身大の骨格模型が鎮座していた。くるみはそれに『骨吉ほねきちさん』という名前をつけ、「裸じゃ寒くて可哀想だから」と、自分の冬物のマフラーと毛糸の帽子を被せている。夜中に見たら確実に悲鳴を上げるようなシュールな光景だが、くるみにとっては「一緒にお勉強を頑張る大切なお友達」であった。

「……はぁ。私、本当に先生になれるのかなぁ」

くるみは、ペンダコだらけになった右手でペンを置き、分厚い専門書の上にパタンと突っ伏した。

大学の勉強は、くるみの想像をはるかに超えて難しかった。

周囲の学生たちは要領よくポイントをまとめ、実技演習でも器用に包帯を巻き、テキパキとバイタルサイン(血圧や脈拍)を測定していく。

しかし、ワンテンポ遅れていて不器用なくるみは、一つの手順を覚えるのに他の人の三倍の時間がかかった。包帯を巻く練習では「星野さん、それじゃあ患者さんの腕が鬱血しちゃうわよ!」と怒られ、模擬授業では緊張のあまり頭が真っ白になり、黒板の前でフリーズしてしまうこともあった。

どんなに時間をかけても、どんなに手を黒鉛で真っ黒にしても、追いつけない壁がある。

高校時代とは違う、人の『命』と『心』に直結する専門知識の重圧。

「……痛い思いをしてる子を、助けたいのに。私自身がこんなにポンコツじゃ、ダメだよね」

くるみは、部屋の片隅に置かれた救急箱を見つめ、ポツリと弱音を吐いた。

中学の時に白瀬先生が貼ってくれた、あのお日様の匂いがする真っ白な絆創膏。そして、傷だらけだった不良の龍二に貼ってあげた、黄色いクマの絆創膏。

あの温かい魔法の空間を作るためには、ただ優しいだけではダメなのだ。確かな知識と技術という『裏付け』がなければ、誰も救うことはできない。

くるみは、深く息を吐き、両手で自分の頬をパンッと叩いた。

「弱音、おしまい! 覚えられないなら、覚えるまで何万回でも書く! 骨吉さん、もう一回筋肉の名前、教えてね!」

マフラーを巻いた骸骨に向かってぽややんと笑いかけ、くるみは再びペンの束を握りしめ、終わりの見えない暗記の海へと潜っていった。

***

そんな、心身ともにギリギリの状態で猛勉強を続けていた、ある日の昼休み。

くるみが大学の中庭のベンチで、一人でおにぎりをかじりながら『精神保健学』の教科書を開いていた時のことだ。

「こんにちは。熱心だね、一年生かな?」

不意に、爽やかな笑顔を浮かべたスーツ姿の男性が声をかけてきた。

手には、綺麗な風景画が印刷されたパンフレットを持っている。

「……へぁ? あ、はい。こんにちはぁ」

くるみがワンテンポ遅れて振り返ると、男性は人当たりの良い笑みを深め、隣にスッと腰を下ろした。

「そんなに分厚い本を読んで、すごく疲れが溜まっているんじゃない? 最近の大学生は、みんな将来の不安や、競争社会のストレスで心がすり減ってしまっているんだよ。君も、夜眠れなかったり、自分の無力さに落ち込んだりすること、ないかな?」

男性の言葉は、非常に滑らかで、相手の心の隙間に寄り添うような優しさを装っていた。

実は彼、大学構内に入り込んで学生を狙う、怪しげなカルト系自己啓発サークル(実態は悪質な霊感商法)の勧誘員であった。真面目で、思い詰めていそうで、かつ気の弱そうな学生をターゲットに声をかけ、最終的には高額な「心を浄化する壺」や「自己啓発セミナーの教材」を買わせるのが彼らの手口だ。

「……落ち込むこと、あります。私、お勉強がすっごく遅くって……」

くるみが素直に頷くと、勧誘員の男は「やっぱりね」と内心でガッツポーズをした。

(よし、典型的な真面目系で自己評価の低いタイプだ。こういう子は、一度全肯定して『君は悪くない』と甘やかしてやれば、簡単に依存してくる)

「そうだろう、そうだろう。でもね、それは君のせいじゃないんだ。君の心を取り巻く『見えないエネルギー』が淀んでいるから、本来の力が出せないだけなんだよ」

男は、パンフレットを広げ、宇宙や光のシャワーのような怪しげなイラストをくるみに見せた。

「私たちのサークル『真理の光の会』のセミナーに来れば、心の強張りは一瞬で解きほぐされる。難しい勉強なんかしなくても、宇宙のエネルギーと一体化すれば、すべての答えは自然と心の中に浮かんでくるようになるんだ。……さあ、まずはこの『魂を浄化する特別な教典と、幸福の壺』のセットを……」

男が、カバンの中から分厚いハードカバーの怪しげな本と、ソフトボールほどの大きさの不気味な壺を取り出した、その瞬間だった。

「だめだよぉ」

くるみが、眉をハの字に下げ、本気で困ったような、そしてどこか悲しそうな声を出した。

「えっ? いや、でもこの壺を置けば、君の部屋は清らかなエネルギーに満たされて……」

「置けないの」

くるみは、きっぱりと首を横に振った。

「私のお部屋ね、もういっぱいいっぱいなの。解剖生理学さんの山の上に置いたら、バランスが崩れて小児科学さんの村が全滅しちゃうの。それに、骨吉さんの隣にはもう、クマのくま吉たちが住んでるから、壺さんが入る場所は、一ミリもないんだよぉ……」

「……は? 骨吉? クマ?」

男は、完全に想定外の返答に目をパチクリとさせた。

くるみの頭の中では、またしても小学生の頃の「お祭りでの詐欺師撃退」と同じ現象が起きていた。

『汚部屋の圧倒的な質量による、物理的なキャパシティオーバー』である。

「この本も、すごく重そうだもん。私のお家に連れて帰ったら、きっと床の冷たいところにしか置いてあげられないよ。そんなの、本さんが可哀想だよ」

「い、いや! 本が可哀想とかそういう問題じゃなくて! これは君の魂を救うためのもので……!」

男はペースを崩されながらも、必死に心理的な揺さぶりをかけようとした。

「君、このままでいいのかい!? 毎日毎日、覚えられない勉強に苦しんで、不安に押しつぶされそうになっているんだろう!? 部屋が散らかっているのは、君の心が乱れている証拠だ! 私たちに頼れば、そんな苦しみから解放されるんだぞ!」

男が強い口調で捲し立てる。普通の学生なら、痛いところを突かれて言葉に詰まるか、恐怖で言いくるめられてしまう場面だ。

しかし。くるみは、男の言葉を聞いて、ぽややんとした瞳をパチパチと瞬かせた後――。

「……うん。苦しいし、不安だよ。お部屋も散らかってるし」

と、あっさりと認めたのだ。

「だったら……!」

「でもね、苦しくないと、ダメなんだよ」

くるみの声は、綿毛のように柔らかかったが、そこには決して折れることのない、鋼のような芯が通っていた。

「私、頭が良くないから。先生たちが、何十年もかけて見つけてくれた『人の体を治すためのお勉強』を、私が簡単に分かっちゃったら、おかしいでしょ? 苦しんで、悩んで、何万回も間違えないと、本当に困ってる子を助ける力なんて、身につかないもん」

くるみは、自分のペンダコだらけの右手を、ぎゅっと握りしめた。

「宇宙の力でパパッと分かっちゃうようなお勉強じゃ、血が出た怪我は治せないよ。心の痛いのも、飛ばせないよ。……だから私は、泣きそうになっても、自分のお手てで全部覚えるの!」

それは、宗教や洗脳といった「安易な救済」を完全に拒絶する、嘘偽りのない真っ直ぐな『信念』だった。

男は、息を呑んだ。

目の前にいる、少しぽやっとしていて、隙だらけに見える女子大生。

しかし、彼女の心の中には、どんな甘い言葉も入り込む隙間がないほどに、強大で純粋な「正義」と「夢」が、ピカピカに磨き上げられて存在していたのだ。

「それに……お兄さん、なんだかお顔が青いよ?」

「……え?」

くるみが、唐突に男の顔を覗き込んだ。

「目の下にくまができてるし、唇もカサカサだよ。ちゃんと、ご飯食べてる? お水飲んでる? 宇宙のエネルギーより、お兄さんにはビタミンさんとタンパク質さんが必要だと思うなぁ」

くるみは、お弁当袋の中から、母親が持たせてくれた手作りの『野菜たっぷりパウンドケーキ』を取り出し、男の手にポンと乗せた。

「これ、食べてね。お腹がいっぱいになると、心も元気になるから。壺さんや本さんは、もっと広いお家の人にもらってもらってね。……じゃあ、私、午後から実技のテストだから行くね! ばいばーい!」

くるみは、分厚い精神保健学の教科書を抱き抱え、ぽてぽてと軽い足取りで午後の教室へと向かっていった。

後に残されたのは、自分の手にある手作りケーキと、高額な壺を抱えた勧誘員の男だけ。

「……なんだよ、あの娘……」

男は、呆然としながらパウンドケーキを一口かじった。甘くて、素朴で、途方もなく優しい味がした。

他人の心を操ろうとしていた詐欺師の男は、その日、謎の敗北感と強烈な温かさに包まれながら、静かに大学から去っていった。

星野くるみの『天然の防壁』は、大学生になっても完璧に機能していたのである。

***

その日の夕方。

実技の小テストを、なんとかギリギリの点数でクリアしたくるみは、ヘトヘトになってアパートへと帰ってきた。

「ただいまぁ……みんな、お留守番ありがとうねぇ」

ガチャリとドアを開けると、そこには朝出かけた時と寸分違わずカオスな、見事なまでの『汚部屋』が広がっている。

ドアの隙間から滑り込み、地層を踏まないようにベッドへとダイブする。

「ふぅ……」

仰向けになり、天井を見上げる。

不安がないと言えば嘘になる。自分は本当に、生徒の命を預かる養護教諭になれるのだろうか。今日の実技だって、手が震えてしまって上手く包帯が巻けなかった。

でも。

くるみは横を向き、毛糸の帽子を被った骨格模型の『骨吉さん』と目が合った。

そして、その隣にうず高く積まれた、ボロボロになった参考書の山脈。

自分が泣きながら、不器用に、少しずつ積み上げてきた、努力と知識の地層たち。

「……大丈夫だよね。こんなにいっぱいのお友達(本)が、私に力を貸してくれてるんだもん」

くるみは、へらっと笑って、ベッドから身を起こした。

「よしっ! 今日は『薬理学』の谷間を探検するぞー!」

どんなに部屋が汚くても、どんなに不器用でも。

星野くるみの心は、絶対に折れない。絶対に曲がらない。

彼女の真っ直ぐな信念は、やがて来る『教育実習』という本番の舞台で、一人の少女の凍りついた心を溶かすための、最大の魔法となって開花することになる。

分厚い専門書と、雪崩を起こす汚部屋の戦いは、まだまだ続くのであった。


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