第7話:真っ直ぐな言葉、それぞれの道
『金髪の狼』こと黒崎龍二が、クラスのゆるふわマスコットである星野くるみと付き合い始めてから、彼を取り巻く環境は文字通り一変した。
放課後、他校の不良たちと喧嘩に明け暮れていた龍二の姿は消え、代わりに彼が向かうのはくるみの家――通称『魔境(汚部屋)』であった。
くるみが勉強に集中するあまり、数日で再びカオスな状態へと戻ってしまうその部屋を、龍二は腕まくりをして定期的に「解体と再構築(お片付け)」するようになっていたのである。
「おい、黒崎のヤツ、最近付き合い悪くねぇか?」
「ああ。あの星野って女に完全にたぶらかされてるんだ。牙を抜かれたオオカミなんて、見ちゃいられねぇよ」
そんな龍二の変貌を面白く思わなかったのが、かつて彼と共に徒党を組んでいた不良グループの面々だった。
彼らは、龍二を自分たちの「悪の世界」に引き戻すため、ある計画を立てた。
「あの女を夜の集会に呼び出して、ビビらせてやろうぜ。不良の世界がどういうもんか思い知らせて、黒崎から手を引かせるんだ」
***
木枯らしが吹き始めた、初冬の夜八時。
町外れにある、街灯もまばらな寂れた公園。そこには、特攻服もどきのジャンパーを着た不良たちが数人、改造バイクに跨がり、タバコ(を吸うフリをして)ふかしながら凄んでいた。
「……遅ぇな。ビビって逃げたんじゃねぇの?」
リーダー格の男が舌打ちをした、その時だ。
「こんばんはー。遅くなってごめんなさい」
ぽてぽてという軽い足音と共に、公園の入り口から一つの人影が現れた。
真っ白なモコモコのコートに、可愛らしいウサギの耳当て。両手には、なぜか巨大な水筒と、風呂敷に包まれた大きなタッパーを抱えている。星野くるみ、その人であった。
「お、来たな。おい星野、お前が黒崎と付き合ってるって……」
不良の一人が凄みながら近づこうとした瞬間。
「あのね、夜の公園はすっごく寒いから、これ持ってきたの。はい、温かいお茶とお手製のクッキーだよ」
くるみは、不良の威嚇を完全にスルーして、持ってきた巨大な水筒から紙コップに温かいほうじ茶を注ぎ、次々と不良たちの手に握らせていった。
「え? あ、おう……じゃなくて! 俺たちは遊びで呼んだんじゃ……!」
「クッキーはね、お母さんと一緒に焼いたんだよ。甘いもの食べると、頭の疲れが取れるからね」
タッパーの蓋が開けられると、バターと甘い砂糖の香りが、冷え切った夜の公園にフワッと広がった。
不良たちは、毒気を抜かれたようにぽかんと口を開け、手元にある温かいお茶とクッキーを見つめた。
「あのさ、星野。俺たちはお前を……」
「ダメだよ」
くるみは、突然、きゅっと眉を寄せて少しだけ厳しい顔をした。
不良たちが「ついに怯えたか」と身構えた次の瞬間、くるみの口から飛び出したのは、予想の斜め上をいく強烈な正論だった。
「夜更かしは、体にすっごく悪いんだよ。夜の十時から夜中の二時までは、成長ホルモンさんが出る大切な時間なの。それに、来週は期末テストでしょ? こんな寒いところで遊んでて風邪を引いたら、テストで赤点になっちゃうよ。先生も、お家の人も、悲しむよ?」
「…………は?」
不良たちは、絶句した。
凄んでみせようとした相手から、まさかの「保健室の先生」あるいは「オカン」のような真っ直ぐな説教を食らったのだ。しかも、そこに嫌味や煽りは一切ない。心の底から彼らの体調と成績を心配している、純度百パーセントの慈愛の眼差しである。
「だからね、こんな暗くて寒いところじゃなくて、明るいところでお勉強しよっか」
くるみは、モコモコのコートのポケットから、ボロボロになった英単語帳を取り出してにっこりと笑った。
不良という生き物は、「反発」や「恐怖」には強いが、こういう「一点の曇りもない純粋な善意と正論」には致命的に弱い。
彼らは完全にペースを崩され、気がつけばくるみに先導されるまま、公園の近くにある明るいファミリーレストランへと移動させられていたのである。
***
「……で、なんで俺が、こいつらに数学教えてんだよ」
十分後。
ファミレスのテーブル席で、連絡を受けて慌てて駆けつけてきた龍二が、頭を抱えていた。
彼の目の前には、ドリンクバーのメロンソーダを飲みながら、頭から煙を出して数学のドリルと格闘している不良仲間の姿があった。
「あー、もうわかんねぇ! なんでエックスとワイが混ざるんだよ!」
「龍二くん、ここ教えてあげて。私、自分の専門書読まなきゃいけないから」
くるみは、不良たちに挟まれる形でニコニコと座りながら、自分の前には「人体の構造」や「教育心理学」といった、高校生には場違いなほど分厚い専門書を積み上げ、カリカリとノートに書き込みをしていた。
そのペンダコだらけの指先と、一切の妥協なく勉強に向かう凄まじい集中力を見て、不良たちはゴクリと息を呑んだ。
「……星野って、すげぇんだな」
不良の一人がポツリと漏らした。
「ああ。こいつは、絶対に夢を叶えるヤツだ。だから……俺も、足引っ張るわけにはいかねぇんだよ」
龍二は、くるみの横顔を見つめながら、静かに、けれど力強く言った。
その日を境に、龍二の不良仲間たちがくるみにちょっかいを出すことは二度となかった。それどころか、彼らは「星野先生」の圧倒的なマイナスイオンと正論にすっかり感化され、時折ファミレスで真面目にテスト勉強の集まりを開くようになったという。
***
時は流れ、高校三年生の冬。
いよいよ、卒業と進路の決定が目前に迫っていた。
くるみの志望校は、県外にある看護・教育系の難関私立大学だ。彼女の成績は、あの不器用で泥臭い猛勉強の末、ついに合格圏内へと届き始めていた。
一方の龍二もまた、明確な「夢」を見つけていた。
ある日の夕暮れ。二人は、学校の帰り道にある河川敷のベンチに並んで座っていた。冷たい風が吹く中、龍二はくるみが巻いてくれたマフラーに顔を埋めながら、ポツリと口を開いた。
「俺さ。卒業したら、東京の自動車整備の専門学校に行くことにした」
「……整備士さんに、なるの?」
くるみが大きな瞳を瞬かせると、龍二は照れくさそうに頭を掻いた。
「ああ。お前のあの、とんでもねぇ汚部屋を片付けてるうちに気づいたんだよ。俺、バラバラになったもんを、綺麗に組み直して、ちゃんと動くようにするのが好きみたいなんだ」
龍二は自分の大きな両手を見つめた。
「今まで、殴って壊すことしかしてこなかったこの手で、何かを直して、誰かの役に立ちたい。……一流の、すげぇ整備士になってみたいんだ」
龍二の真っ直ぐな言葉に、くるみはパァッと花が咲くような笑顔を見せた。
「うんっ! 龍二くんなら絶対になれるよ! だって、あんなにすごかった私のプリントさんの地層を、魔法みたいに綺麗なお家に作り直してくれたんだもん。龍二くんの手は、魔法の手だよ」
くるみに全肯定され、龍二の胸の奥が熱くなる。
しかし、その熱さと同じくらい、龍二の心にはある「決意」が固まっていた。
「……だからさ、くるみ」
龍二は、初めて彼女を下の名前で呼んだ。
くるみは不思議そうに小首を傾げる。
「俺たち、高校を卒業したら……ここでお別れにしよう」
風が吹き抜け、枯れ草がカサカサと音を立てた。
それは、決して嫌いになったからではない。龍二なりの、最大限の敬意と愛情だった。
「お前は、保健室の先生になるために、大学で死ぬほど勉強しなきゃならねぇ。俺も、東京の厳しい学校で、油まみれになって技術を叩き込まれる。……今の半端な俺がお前のそばにいたら、お前のあのすげぇ集中力と、真っ直ぐな夢の邪魔になっちまう」
龍二は、くるみの目を見て、はっきりと告げた。
「お前は、痛がってる奴を絶対に放っておけない。もし俺が東京で壁にぶつかって弱音を吐いたら、お前は自分の夢を後回しにしてでも、俺を助けようとするだろ。……俺は、お前が夢を叶えて、あの『真っ白な保健室』に立つ姿を、誰よりも見たいんだよ」
龍二の言葉は、どこまでも不器用で、けれどくるみへの深い理解と愛情に満ちていた。
遠距離恋愛という中途半端な繋がりで、お互いの足枷になるくらいなら。別々の道を、全力で走り抜けるために、ここで笑顔で別れようという提案だった。
くるみは、黙って龍二の話を聞いていた。
そして、大きな瞳からポロリと一粒だけ涙をこぼすと、すぐにいつものふんわりとした笑顔を作った。
「……そっか。龍二くんも、すっごく頑張るんだね」
くるみは、龍二の大きな手に、自分のペンダコだらけの小さな手を重ねた。
「私ね、龍二くんのおかげで、お勉強がいっぱいできたよ。お部屋が綺麗だと、こんなに本が読みやすいんだって、初めて知ったの」
「……お前なぁ、それは小学生で気づくことだぞ」
龍二が呆れたように笑うと、くるみも「えへへ」と笑い返した。
「ありがとう、龍二くん。私のお部屋を、そして私を見つけてくれて。……絶対に、日本一の整備士さんになってね」
「ああ。お前も、絶対に最高の保健室の先生になれよ。……約束だ」
二人の手は、冷たい冬の風の中で、力強く握り合わされた。
そこには、ドロドロとした執着や、別れの絶望は一切ない。
一人の不良少年の魂を救い上げ、夢を与えた少女と。その少女の背中を、不器用ながらも全力で押し出した少年の、美しくて清々しい「卒業」の儀式だった。
***
そして、三月の卒業式。
桜の蕾がほころび始めた校門の前で、二人は別々の方向へと歩き出した。
振り返ることはしなかった。
くるみは、これから始まる過酷な大学生活と、分厚い専門書たちとの戦いに向けて、前だけを真っ直ぐに見つめていた。
(待っててね、白瀬先生。私も絶対、あの真っ白なお部屋に行くから)
彼女の心の中にある「正義」と「夢」は、どんな汚部屋の中でも決して埋もれることなく、ピカピカに磨き上げられている。
少しだけ大人になったゆるふわ天然少女は、確かな決意を胸に、白衣の天使への次なる扉を開こうとしていた。




