第10話(最終話):星野先生のいる保健室、そして相変わらずの部屋
過酷な教員採用試験に向けた星野くるみの猛勉強は、まさに「命を削る」という表現がふさわしいものだった。
大学の卒業を控えた冬。彼女のアパートの部屋は、ついに床の面積がゼロになるという前人未到の領域(完全なる汚部屋)へと到達していた。
ベッドの上、机の下、窓際。あらゆる場所に『教育法規』『学校保健安全法』『小児看護学』などの分厚い参考書がうず高く積まれ、もはやどこからが本で、どこからが家具なのか分からない。
そのカオスな地層の中心で、くるみは寒さを凌ぐために骨格模型の『骨吉さん』と毛布を分け合いながら、右手の巨大なペンダコをさすり、ただひたすらに過去問を解き続けていた。
「……覚えられないなら、何万回でも書く。痛い思いをしてる子を、助けるために」
ゆるふわで、いつもワンテンポ遅い彼女の、唯一にして最強の武器である「絶対に諦めない真っ直ぐな心」。
その不器用で泥臭い努力は、やがて冷たい冬を越え、暖かい春の陽射しと共に、確かな形となって結実した。
『合格』。
掲示板に自分の受験番号を見つけた瞬間、くるみは持っていたカバンを落とし、その場にへたり込んで、子供のように声を出してワンワンと泣いた。
それは、中学時代に膝を擦りむいて保健室に駆け込んだあの日からずっと追いかけ続けてきた、「白衣の魔法使い」になるという夢が、ついに叶った瞬間だった。
***
四月。
正式に公立中学校の養護教諭(保健室の先生)として赴任することが決まったくるみは、初出勤の数日前、駅前の美容室の鏡の前に座っていた。
「星野さん、今日はどうしますか? いつもみたいに、毛先を揃える感じで……」
馴染みの美容師が、くるみの背中まであるふんわりとした栗色の髪をすきながら尋ねた。
くるみは、鏡に映る自分の顔をじっと見つめ、コテンと首を傾げた後、ぽややんとした笑顔で言った。
「あのね、バッサリ、短く切ってください」
「えっ? バッサリ? こんなに綺麗に伸ばしてたのに、いいんですか?」
「はい。ショートカットにしてください。……私の、大好きな先生とお揃いにしたいんです」
チョキ、チョキ。
ハサミが小気味良い音を立てて、くるみの長い髪が床へと落ちていく。
それは、ただのイメージチェンジではない。今までずっと「守られ、癒やされる側」の象徴だった綿毛のような少女が、これからは「誰かの盾になり、痛みを引き受ける側」として立つための、静かな決意の儀式だった。
三十分後。
鏡の中にいたのは、首元がすっきりと見え、活発でありながらも、どこか大人の落ち着きと母性を感じさせる、ショートカットの女性だった。
髪が短くなっても、彼女特有の「ゆるふわ」でマイナスイオンに満ちた空気は全く変わらない。だが、その大きな瞳には、白瀬先生と同じような、揺るぎない確かな光が宿っていた。
「うん。……なんだか、背筋がピンとしますね」
くるみは照れくさそうに笑い、美容室を後にした。
***
そして迎えた、初出勤の朝。
新任の『星野くるみ先生』が任されたのは、日当たりが良く、校庭の桜の木が見える、一階の端にある保健室だった。
「わぁ……」
ドアを開けたくるみは、思わず感嘆の声を漏らした。
ピカピカに磨き上げられた床。チリ一つない真っ白な壁と戸棚。窓から吹き込む爽やかな春の風が、白いレースのカーテンを優しく揺らしている。
そして、部屋全体を包み込む、消毒用のアルコールと、お日様の光をいっぱいに浴びた石鹸の匂い。
かつて、転んで血まみれになった彼女を優しく包み込んでくれた、あの「魔法のお部屋」の匂いが、確かにそこにあったのだ。
「……おはようございます、保健室さん。今日から、よろしくお願いします」
くるみは、部屋の真ん中で深々と一礼をした。
そして、ハンガーにかけられていた真新しい白衣に袖を通す。
パリッとした糊の効いた真っ白な布地が、くるみの小さな体を優しく包み込む。左胸のポケットには『星野』と彫られた真新しいネームプレートが輝いていた。
(白瀬先生。龍二くん。お母さん。……私、やっとここに来たよ)
くるみが小さく深呼吸をした、その時だった。
コン、コン。
「……失礼しまーす……」
遠慮がちなノックの音と共に、ドアが少しだけ開いた。
そこから顔を出したのは、入学したばかりで制服にまだ着られているような、一年生と思われる小柄な男子生徒だった。
その右膝のズボンは無惨に破れ、赤黒い血がダラダラと流れ出している。校庭で派手に転んだのだろう。顔は涙と砂でぐしゃぐしゃになり、今にも泣き出しそうに唇を震わせていた。
(あぁ、あの日の私と、同じだ)
くるみは、ふんわりとした、太陽のような満面の笑顔を浮かべた。
そして、綿毛のような軽い足取りで、怪我をした少年の目の前へと歩み寄った。
「はーい、どうしたの? わぁ、派手に転んじゃったね。痛かったでしょう」
くるみは、少年の目線に合わせてしゃがみ込み、その砂まみれの手を、自分の両手で優しく包み込んだ。
「せ、先生……あの、血が、いっぱい出ちゃって……うっ、ひっ……」
少年がパニックになりかけて泣きじゃくると、くるみは「大丈夫だよ」と優しく背中を撫でた。
「ここはね、我慢しなくていいお部屋だからね。痛いときは『痛い』って言っていいし、泣きたいときは、いっぱい泣いていいんだよ。……さぁ、先生と一緒に、痛いのを治そうね」
くるみは少年を丸椅子に座らせ、戸棚から手際よく消毒液とガーゼを取り出した。
冷たい水で傷口の砂を洗い流し、薬を塗り、最後に大きな絆創膏をシワ一つなく綺麗に貼り付ける。不器用だった彼女が、何百回、何千回と練習を重ねて身につけた、優しくて確かな「魔法の技術」だった。
「はい、おしまい。……痛いの、痛いの、飛んでいけーっ!」
くるみが、絆創膏の上から優しくポンと叩いておまじないをかける。
すると少年は、不思議そうに目をパチクリと瞬かせ、それから、涙で濡れた顔にホッとしたような笑顔を浮かべた。
「……先生、不思議。さっきまですごく痛かったのに、なんか、治っちゃったみたいです」
「えへへ、よかった。それはね、君が泣かずに頑張ったからだよ」
少年は立ち上がり、ペコリと深く頭を下げた。
「ありがとうございました、星野先生! あの……先生の保健室、すっごくいい匂いがして、綺麗ですね!」
「ふふっ、ありがとう。気をつけて教室に戻るんだよ」
元気に走っていく少年の背中を見送りながら、くるみは白衣のポケットに手を入れ、窓の外の青空を見上げた。
(私、なれたんだ。……みんなの心をポカポカにする、保健室の先生に)
ショートカットの髪を揺らす春風が、心地よかった。
この日を境に、『星野先生の保健室』は、怪我をした生徒だけでなく、心の痛みを抱えた多くの生徒たちにとっての、最高のオアシスとなっていく。
ゆるふわで、いつもニコニコしていて、でも絶対に生徒の痛みを否定しない、真っ白な天使のいる部屋。
それが、星野くるみが泥臭い努力の末に手に入れた、何にも代えがたい宝物だった。
***
その日の夕方。
初日の激務(次から次へとやってくる生徒の手当てや、健康診断の準備など)を無事に終えたくるみは、疲れ切った体を引きずりながら、新しく借りたアパートの玄関の前に立っていた。
「はぁ〜、疲れたぁ……。でも、すっごく楽しかったなぁ」
鍵を鍵穴に差し込み、ガチャリと回す。
誰もが慕う、完璧で清潔な保健室の星野先生。
そんな彼女が暮らす、一人暮らしのお城。さぞかし綺麗で、可愛らしい部屋なのだろうと、誰もが想像するだろう。
「ただいまぁー!」
くるみが勢いよくドアを開けた、その瞬間。
ドドサドサドサァァァッ!!
「きゃぁっ!?」
玄関のドアを開けた振動により、ドアのすぐ裏にまでうず高く積み上げられていた「引っ越しのダンボール」と、「大学時代の教科書の山脈」、そして「捨てられなかった空き箱のマンション」が、見事な雪崩を起こしてくるみの頭上に降り注いだ。
「あわわわっ! ごめんなさい、ダンボールさん! 痛かったよね!?」
くるみは、荷物の海に埋もれながら、慌てて空き箱たちを救出し始めた。
そう。彼女は立派な保健室の先生になれたが、『極度の片付けられない女』という致命的な欠点だけは、社会人になっても一ミリも、本当に一ミリも治っていなかったのである。
部屋の奥から、毛糸の帽子を被った骨格模型の『骨吉さん』と、茶色い猫の『むぎゅ』が、あきれたような顔でくるみを見つめている。
ベッドの上には相変わらずぬいぐるみがすし詰めにされ、床はすでに新たな地層を形成し始めていた。
「うーん……明日のお休みこそ、絶対にお片付けしなきゃ。ね、骨吉さん」
くるみは、雪崩を起こしたプリントの山の中から這い出し、白衣の代わりに部屋着のパーカーをすっぽりと被って、へらっと笑った。
完璧な人間なんて、この世界にはいない。
誰かの痛みを和らげる圧倒的な優しさと、絶対に曲がらない正義感を持つ天使は、自分の身の回りのことになると、とたんにポンコツになってしまう。
けれど、その不器用で愛すべきギャップこそが、星野くるみという人間の最大の魅力なのだ。
「よしっ! ご飯食べたら、明日の保健だよりの準備するぞぉ!」
乱雑に散らかった『汚部屋』の中心で、短い髪を揺らしながら、くるみはとびきりの笑顔を咲かせた。
天使のような保健室の先生は、今日も自分の部屋だけは片付けられない。
けれど、彼女が明日も学校で、誰かの心と体を優しく救い上げることは、絶対に間違いのない事実なのだ。




