第5話:金髪の狼と、絆創膏の天使
星野くるみは、無事に地元の進学校である県立高校へと入学を果たした。
真新しい紺色のブレザーに、少し長めのチェックのスカート。中学生の頃よりも少しだけ大人びた制服に身を包んでも、彼女から放たれる「ゆるふわ」で「綿毛」のようなマイナスイオンは、相変わらず健在であった。
「くるみちゃん、おはよー!」
「……へぁ? あ、おはよう、ミカちゃん。今日もいいお天気だねぇ」
高校でも一緒のクラスになった親友のミカと、のんびりとした挨拶を交わす。
くるみの高校生活は、養護教諭(保健室の先生)になるという夢に向かって、さらに過酷な勉強の日々となるはずだった。しかし、彼女の周囲に流れる時間は、なぜかいつもゆったりとしている。
ただし、彼女の「片付けられない」という致命的な欠点もまた、高校生になっても見事に維持されていた。
「ちょっとくるみちゃん、カバンの中からプリントがはみ出してるよ! また地層作ってるの!?」
「あわわっ、ダメだよプリントさん、まだ外に出ちゃ。お昼休みにちゃんと読んであげるからね」
くるみが慌てて押し込んだ指定のスクールバッグの中身は、教科書、ノート、謎の空き箱、お菓子の可愛い包み紙、そして「カバンの中が寂しくないように」と入れられたウサギのぬいぐるみが、ぎゅうぎゅうの満員電車状態になっていた。
カバンという名の『持ち歩く汚部屋』である。
「もう、相変わらずなんだから……。あっ、そうだくるみちゃん。今日の帰り道、駅裏の高架下は通っちゃダメだよ」
ミカが、声をひそめて忠告してきた。
「え? どうして?」
「隣の工業高校の不良グループと、うちの学校の『金髪の狼』が、あそこで喧嘩するって噂になってるの。巻き込まれたら大変だから、絶対に遠回りして帰ってね」
『金髪の狼』。
それは、くるみたちの通う高校に在籍しているものの、ほとんど授業には顔を出さない、札付きの不良生徒の異名だった。
名前は、黒崎龍二。
鋭い三白眼に、派手な金髪。身長は百八十センチを超え、喧嘩となれば相手が何人いようが一人で突っ込んでいき、血まみれになりながら全員を叩きのめすという、まさに狂犬のような男だ。周囲の生徒はおろか、教師でさえ彼に関わることを恐れ、腫れ物のように扱っていた。
「オオカミさん……。そっか、わかったよ。気をつけて帰るね」
くるみはぽややんと頷き、その忠告を胸に刻んだ……はずだった。
***
その日の放課後。
初夏の生ぬるい風が吹く夕暮れ時。
(……あれ? ここ、どこだろう)
くるみは、気がつけば見知らぬ路地裏に迷い込んでいた。
道端に咲いていた綺麗なタンポポの綿毛を追いかけてふらふらと歩いているうちに、ミカに「通っちゃダメ」と言われていた駅裏の高架下へと、見事に足を踏み入れてしまっていたのである。
コンクリートの壁に囲まれ、夕日が遮られた薄暗い高架下。
そこには、むせ返るような鉄の匂いと、汗の匂い、そして血の匂いが立ち込めていた。
「ハァ……ッ、ハァ……ッ」
荒い息遣いが響く。
地面には、隣の工業高校の制服を着た不良たちが、五、六人ほど折り重なるようにして倒れ、呻き声を上げていた。
そして、その惨状の中心。
コンクリートの壁に背中を預け、ズルズルと座り込んでいる一人の男がいた。
鮮やかな金髪は汗と血で汚れ、制服のシャツは引きちぎられ、顔のあちこちから赤黒い血を流している。彼こそが、この高校周辺で最も恐れられている不良、『金髪の狼』こと黒崎龍二であった。
「……クソが。多勢に無勢で調子に乗りやがって」
龍二は、口の中に溜まった血に混じった唾を、ペッと地面に吐き捨てた。
勝ったのは彼だ。しかし、無傷とはいかない。脇腹には鈍い痛みが走り、切れた唇からはとめどなく血が流れ、右目の上も深く切れて視界が赤く染まっていた。
(……どうせ誰も、助けちゃくれねぇさ)
龍二は自嘲気味に笑った。
自分が怪我をして倒れていても、周囲の人間は「不良が自業自得だ」「関わらないでおこう」と遠巻きに見て、逃げていくだけだ。それが、龍二の生きてきた世界だった。力でねじ伏せ、恐怖で他人を遠ざける。そうしなければ、自分の弱さを守れなかったからだ。
「……あ」
突然、沈黙を破るような、間抜けな、けれど鈴の音のように澄んだ声が響いた。
龍二が鋭い視線を向けると、高架下の入り口に、自分の学校の制服を着た一人の女子生徒が立っていた。
夕日を背に受けて、ふんわりとした栗色の髪が風に揺れている。彼女は、地面に転がる不良たちと、血まみれの龍二を交互に見つめ、目を丸くしていた。
(チッ……一般の生徒か。面倒くせぇ)
龍二は、彼女が悲鳴を上げて逃げ出すだろうと思った。あるいは、恐怖で腰を抜かすか。
だから、わざと凄んで、追い払おうとした。
「あぁ!? 見せモンじゃねぇぞ! 痛い目見たくねぇなら、さっさと失せ……」
「痛そう……」
龍二の怒鳴り声を遮るように、その女子生徒――くるみは、眉を八の字に下げ、心底悲しそうな顔で呟いた。
そして、逃げ出すどころか、血まみれの龍二に向かって、ぽてぽてと迷いなく歩み寄ってきたのだ。
「は……? おい、何やってんだお前。俺に近づくな。殺されてぇのか!」
龍二は威嚇するように目を剥いたが、くるみは全く意に介さなかった。彼女の瞳には、恐怖も、嫌悪も、一ミリも存在していなかった。
そこにあったのは、ただ目の前で怪我をして血を流している人間に対する、純度百パーセントの『心配』だけだった。
「だめだよ、そんなに赤いシロップ……じゃなくて、血を流しちゃ。バイ菌さんが入ったら、もっともっと痛くなっちゃうよ」
くるみは龍二の目の前でしゃがみ込むと、パンパンに膨れ上がった自分のスクールバッグを地面に置いた。
「おい、聞いてんのか!? 俺は黒崎だぞ! 誰も近寄らねぇ、札付きの……!」
「ちょっと待ってね。えーと、消毒のお水はどこだったかな……」
くるみがカバンのジッパーを開けた瞬間。
ボフッ!!
カバンの中から、限界まで圧縮されていた教科書、くしゃくしゃになった小テストのプリント、お菓子の空き箱、そして毛並みの乱れたウサギのぬいぐるみが、まるで手品のように弾け飛んで、龍二の目の前に散乱した。
「…………は?」
血生臭い修羅場の空気が、一瞬にしてカオスなものへと変貌した。
龍二は、自分の膝の上にポスッと落ちてきたウサギのぬいぐるみを見つめ、完全に思考が停止した。
「あわわ、ごめんなさい! プリントさん、暴れないで! あっ、うさ美もダメだよ、男の子のお膝に乗っちゃ!」
くるみは慌てて散乱した荷物を掻き分け、その地層のずっと奥底から、可愛らしいピンク色の『救急ポーチ』を引っ張り出してきた。
「あったあった! ……ごめんね、待たせちゃって。痛かったね」
くるみは、ぽややんと笑うと、ポーチから清潔なガーゼと消毒液を取り出した。
「お前……マジで、頭おかしいんじゃねぇのか」
龍二の強面は、あまりのペースの乱されっぷりに、完全に毒気を抜かれてしまっていた。
「痛いよ? ちょっとだけ、我慢してね」
くるみが、消毒液を染み込ませたガーゼを、龍二の目の上の傷口にそっと当てる。
「……ッ!!」
アルコールが傷口に染み、龍二の身体がビクッと跳ねた。
「ごめんね、痛いよね。でも、バイ菌さんをやっつける魔法のお水だからね」
くるみは、龍二の顔に自分の顔を近づけ、フーフーと優しい息を吹きかけながら、丁寧に血と汚れを拭き取っていく。
龍二は、息を呑んだ。
至近距離にあるくるみの顔。ふんわりとした髪から漂う、甘いシャンプーの香り。そして何より、自分に向けられたその手の『温かさ』。
誰もが自分を恐れ、遠ざけようとする中で、この少女だけは、傷だらけの自分を「ただ痛がっている一人の人間」として、真っ直ぐに見つめ、触れてくれている。
「……どうして」
龍二の口から、無意識のうちに掠れた声が漏れた。
「ん?」
「どうして、逃げねぇんだよ。俺は、不良だぞ。お前みたいな優等生が関わっていい人間じゃねぇんだよ」
龍二の言葉に、くるみはガーゼを持つ手を止め、不思議そうに首を小首を傾げた。
「だって、痛そうだったから」
「は?」
「すごく痛そうで、一人ぼっちで泣いてるみたいだったから。……放っておいたら、君の中の『痛いの』が、ずっと消えなくなっちゃうでしょ?」
泣いているみたい。
その言葉は、龍二の心の奥深く、何重にも分厚い壁で覆い隠していた「孤独」という名の急所を、正確に撃ち抜いた。
喧嘩に勝っても、誰一人自分を褒めてはくれない。誰も自分を心配してくれない。本当は、強がって吠えているだけで、ずっと誰かに「大丈夫か」と手を差し伸べてほしかったのだ。
「はい、おしまい。綺麗になったよ」
くるみは、血を拭き取った龍二の目の上と、切れた唇の端に、ポーチから取り出した真っ白い絆創膏をペタペタと貼り付けた。
ただの絆創膏ではない。可愛らしい、黄色いクマのイラストがプリントされた、子供用のキャラクター絆創膏である。
「お前……こんなの、恥ずかしくて貼ってられるか……」
龍二が顔を赤くして文句を言おうとしたが、くるみはその口を塞ぐように、龍二の頭に両手をふんわりと乗せた。
「痛いの、痛いの、飛んでいけーっ」
優しい声。
温かい手のひら。
それは、くるみがかつて、保健室の白瀬先生にかけてもらった、最高の『魔法』だった。
龍二の心の奥で、ずっと張り詰めていた棘のような感情が、そのおまじないの言葉と共に、スルスルと溶けていくのを感じた。
「どう? まだ痛い?」
くるみが、下から覗き込むようにしてニコッと笑う。
その瞬間。
龍二の胸の奥で、ドックン! と、かつて経験したことのないほどの強烈な鼓動が跳ねた。
顔が一気に熱くなり、呼吸の仕方がわからなくなる。
相手を殴り倒した時の興奮とは全く違う、甘くて、どうしようもなく焦燥感に駆られる、未知の感情。
(……なんだ、これ。なんなんだ、この生き物は)
不良として数々の修羅場をくぐり抜けてきた『金髪の狼』は、この日、たった一枚のキャラクター絆創膏と、ゆるふわ天然少女の圧倒的なマイナスイオンの前に、完全なる敗北(そして初恋)を喫したのである。
「よしっ、全部おカバンに戻ったね」
くるみは、散乱していたプリントやぬいぐるみを無理やりカバンに押し込み、ジッパーを閉めた。
「それじゃあ、私、帰るね。お家に帰ったら、ちゃんとうがいして、ゆっくり休んでね」
「あ……おい、待て!」
くるみが立ち上がり、ぽてぽてと歩き出そうとしたところを、龍二は慌てて引き止めた。
「な、名前……」
「へぁ?」
「お前の名前、教えろよ。俺は、2年の黒崎龍二だ。……その、助けてもらった礼、しなきゃなんねぇし」
龍二は、顔を真っ赤にして、視線を泳がせながら言った。
くるみは少し驚いたように瞬きをしたが、すぐに花が咲くようなふんわりとした笑顔を見せた。
「私は、星野くるみだよ。お礼なんていらないよ。龍二くんの『痛いの』が飛んでいってくれたなら、それだけで嬉しいから」
「星野……くるみ」
龍二がその名前を口の中で転がすように呟くと、くるみは「ばいばーい」と小さく手を振り、夕日に照らされた路地を歩いていった。
その後ろ姿は、龍二の目には、背中に真っ白い羽の生えた天使そのものに見えていた。
……ただし、その天使が抱えているカバンの隙間からは、悲痛な顔をしたウサギのぬいぐるみの耳が、だらしなくはみ出していたのだが、今の龍二にはそんなことなどどうでもよかった。
「星野……」
龍二は、自分の顔に貼られたクマの絆創膏にそっと触れた。
不思議と、あれほど痛かった傷の痛みが、今は全く感じられなくなっていた。代わりに、胸の奥が締め付けられるように苦しい。
これが、後に「最凶の不良が、一人の天然少女の部屋を片付けるために清掃スキルを極める」という、誰も予想しなかった奇妙な青春と更生の始まりの合図であった。
ゆるふわな保健室の先生の卵と、彼女に心臓を撃ち抜かれた金髪の狼。
二人の物語は、ここから一気に、騒がしくも微笑ましい方向へと加速していくのである。




