表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/10

第4話:不器用な猛勉強と、高くなる地層

中学校の保健室で、白瀬先生という厳しくも優しい「真っ白な魔法使い」に出会い、養護教諭になるという確固たる夢を見つけた星野くるみ。

あの日から、彼女の生活は一変……したかのように見えて、根本的な部分は相変わらずであった。

「くるみ……。あんた、本気で言ってるの?」

ある秋の日の夜。星野家の二階、相変わらず足の踏み場もないくるみの自室で、母親がひきつった声を上げていた。

母親の手には、今日学校から返却されたばかりのくるみの中間テストの結果が握られている。

数学、三十二点。英語、二十八点。理科、三十五点。

お世辞にも「優秀」とは言い難い、いや、はっきりと「赤点スレスレ」の点数である。

「うん! 私、保健室の先生になるの。白瀬先生みたいに、みんなの『痛いの』を飛ばしてあげるお姉さんになりたいんだ」

くるみは、散乱するぬいぐるみの海の中で正座し、えっへんと胸を張った。

母親は頭を抱えた。

「くるみ……保健室の先生(養護教諭)になるのが、どれだけ大変かわかってる? まずちゃんとした高校に入って、それから教育学部か看護学部がある大学に進学して、ものすごく分厚い専門書をたくさん勉強して、最後にすっごく難しい国家試験に合格しなきゃならないのよ? 今のあんたの成績じゃ……」

母親は言葉を濁したが、くるみは全くダメージを受けていなかった。彼女のぽややんとした瞳には、一点の曇りもない。

「うん、知ってるよ。白瀬先生がいっぱい教えてくれたから。……だからね、私、今日からすっごくお勉強するの!」

くるみはそう言うと、背後にうず高く積まれていた巨大なクマのぬいぐるみ『くま吉』のお腹の下から、真新しい参考書と分厚いノートを引っ張り出してきた。

「くま吉がね、参考書さんを温めてくれてたの。これで準備はバッチリだよ!」

「参考書を温めるって何よ……。やる気を出したことは褒めてあげるけど、まずはこの部屋を勉強できる環境にしなさい! 机の上が空き箱とマカロニの塔で埋まってるじゃない!」

母親の怒号が飛ぶが、くるみは「だぁめ! みんな大切なお友達だもん!」と頑なに部屋の片付けを拒否した。

結局、くるみは机の上の一角、わずかノート一冊分だけが開いたスペースを「お勉強の陣地」と定め、そこに向かってカリカリと鉛筆を走らせ始めた。

その日から、くるみの壮絶で、ひどく不器用な『猛勉強』が始まった。

***

くるみには、天才的な記憶力も、要領よくテストの点数を取るためのテクニックもなかった。

一度読んだだけで暗記できるような器用さはなく、ひとつの数式、ひとつの英単語を覚えるのに、他の人の何倍も、何十倍も時間がかかった。

「あぽー、あぽー……りんごさんは、A、P、P、L、E……」

夜遅く。自室の小さなスペースで、くるみはひたすらに英単語をノートに書き殴っていた。

ゆるふわでマイペースな彼女の、唯一にして最大の武器。それは「絶対に諦めないこと」と「一切の妥協がないこと」だった。

わからないなら、わかるまで読む。

覚えられないなら、手が痛くなるまで何度でも、何百回でも書く。

それは、あまりにも愚直で、効率の悪い泥臭い戦い方だった。だが、彼女の心の中には「これを覚えなければ、痛くて泣いている子を助けられない」という、強迫観念にも似た強烈な正義感と使命感が燃え続けていた。

しかし、くるみが勉強に熱中すればするほど、彼女の自室はさらに恐ろしい『魔境』へと変貌を遂げていくことになった。

「お、お母さん! そこ踏まないで!」

数ヶ月後、くるみを呼びにきた母親がドアを開けると、くるみが悲鳴を上げた。

「えっ、何!? ゴキブリでも出たの!?」

「違うよぉ! お母さんの足元にあるのは『歴史の谷間』だから、踏んだら歴史の偉人さんたちがペシャンコになっちゃうよ!」

くるみが指差す先には、使い終わった歴史のノートやプリントが、地層のように何重にも積み重なり、巨大な谷を形成していた。

そう。くるみの「物に感情移入してしまう」という致命的な優しさは、勉強道具に対しても遺憾なく発揮されていたのだ。

最後まで使い切ったノートは「たくさん字を書かせてくれてありがとう。疲れたよね」と言って、捨てることなく部屋の隅へ。

インクの切れた赤ペンや、短くなった鉛筆たちは「ちびっこ文房具さんたちの老人ホーム」と名付けられた可愛いお菓子の空き箱へ。

さらに、新しく買ってきた参考書たちは、「数学さんは気難しいから一人にしてあげよう」「英語さんはウサギのうさ美の隣が好きみたい」などと、くるみ独自の『感情カテゴリー』によって部屋のあちこちに配置されていく。

その結果。

くるみの部屋には、ぬいぐるみの山の隣に『国語の山脈』がそびえ立ち、ベッドの下には『理科の樹海』が広がり、ドアの近くには『歴史の谷間』が口を開けるという、凄まじい「地層ジオラマ」が完成してしまったのだ。

「……もう、勝手にしなさい。お母さん、あんたの部屋の掃除機かけるの、諦めたからね」

母親は、ドアの入り口からそっとお茶の入ったマグカップを差し出すと、白旗を揚げて撤退していった。

部屋は、絶望的に汚い。

だが、そのカオスな地層の中心でカリカリと鉛筆を走らせるくるみの瞳だけは、磨き上げられた宝石のように、キラキラと真っ直ぐな光を放ち続けていた。

***

くるみのその「不器用な猛勉強」は、やがて学校のクラスメイトたちにも影響を与え始めた。

中学三年生になり、いよいよ高校受験の足音が近づいてきた頃。

昼休みの教室で、いつものようにお弁当を食べていたミカが、ふと隣のくるみを見て目を丸くした。

「くるみちゃん……お弁当食べながら、単語帳見てるの?」

「……へぁ? うん。この英単語さんたち、すごく恥ずかしがり屋で、すぐに頭の中から逃げちゃうから、ご飯食べながら仲良くしようと思って」

くるみは、もぐもぐと卵焼きを口の端にくわえながら、ボロボロになった単語帳をめくっていた。その単語帳は、何度もめくられたせいで端が擦り切れ、手垢で黒ずみ、セロハンテープで何重にも補修されている。

「くるみちゃん、最近ずっと勉強してるよね。休み時間も、放課後も」

ミカが感心したように言うと、くるみは「うんっ」と元気に頷き、ぽややんとした笑顔を浮かべた。

「私ね、保健室の先生になるの。白瀬先生みたいな、真っ白なお部屋でみんなを待ってるお姉さんになるの!」

「保健室の先生かぁ……。そっか、くるみちゃん、優しいもんね。すっごく向いてると思う!」

「えへへ、ありがとう。でも、お勉強が難しくて、亀さんみたいなペースなんだけどね」

くるみが照れくさそうに笑いながら、単語帳をめくる。

その時、ミカの視線が、くるみの右手に釘付けになった。

「くるみちゃん、その手……」

ミカが思わずくるみの手を取る。

白くて細かったはずのくるみの右手の中指には、ペンを強く握り続けたことでできた、硬くて大きく盛り上がった『ペンダコ』ができていた。さらに、小指の側面は鉛筆の黒鉛で真っ黒に汚れ、何度も手を洗ったせいで少し肌が荒れている。

それは、決して「ゆるふわ」などという言葉では片付けられない、血の滲むような凄まじい努力の結晶だった。

「……痛くないの?」

ミカが泣きそうな声で尋ねると、くるみは自分のペンダコを見つめ、優しく指で撫でた。

「痛くないよ。これはね、私と、ちびっこ鉛筆さんたちが一緒に頑張った『勲章』なんだって。白瀬先生が教えてくれたの。だから、これを見ると、もっと頑張らなきゃって思えるんだ」

そのくるみの真っ直ぐな言葉と、ボロボロになった右手は、周囲で聞いていたクラスメイトたちの心を強く、強く揺さぶった。

クラスの「ゆるふわマスコット」であり、誰よりもマイペースで、運動も勉強も苦手だった星野くるみ。

そんな彼女が、一つの大きな夢のために、これほどまでに泥臭く、命を削るようにして努力をしている。

(……くるみちゃんがこんなに頑張ってるのに、私たちがサボってる場合じゃないよね)

(俺も、行きたい高校諦めかけてたけど……もうちょっと頑張ってみるか)

誰かを説教したわけでも、熱い言葉で鼓舞したわけでもない。

ただ、くるみが持つ「揺るがない純粋な熱」が、周囲の空気を自然と引き上げ、クラス全体の空気を「よし、みんなで受験を乗り越えよう」という温かく前向きなものへと変えていったのだ。

***

そして迎えた、中学三年生の秋の全国模試。

志望校の判定と、現在の自分の実力が残酷なまでに数字となって表れる、受験生にとっての最初の大きな試練だ。

放課後、担任の先生から返却された模試の結果を、くるみは両手で大切そうに受け取った。

自分の席に戻り、ゆっくりと深呼吸をする。

「……開けるね、プリントさん。痛くしないからね」

くるみは、二つ折りにされた結果の紙を、震える手でそっと開いた。

そこに印字されていた数字。

数学、六十八点。英語、七十五点。理科、七十点。

偏差値は、かつての赤点ギリギリの数字から、見違えるように高く跳ね上がっていた。

もちろん、天才と呼ばれるようなトップクラスの成績ではない。しかしそれは、くるみが目指す「看護・教育系の大学への進学実績がある、地元の進学校」の合格ラインに、しっかりと手が届く数字だった。

「…………っ」

くるみの大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。

「くるみちゃん! どうだった!?」

ミカをはじめとするクラスメイトたちが、心配そうに集まってくる。

くるみは、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、満面の笑みで結果の紙を胸に抱きしめた。

「やったぁ……っ! 私、やったよぉ! 鉛筆さんたちと頑張ったの、間違ってなかったよぉ……!」

「うわぁぁっ! すごい! くるみちゃん、すごいよ!」

ミカも自分のことのように泣き出し、クラスの女の子たちが一斉にくるみに抱きついた。男の子たちも「星野すげーじゃん!」「俺も負けてらんねー!」と歓声を上げる。

教室は、くるみの努力が実を結んだ喜びに、温かな拍手と笑顔で包まれた。

その日の帰り道。

くるみは、いつもよりずっと軽い足取りで、夕日に染まる通学路を歩いていた。

(白瀬先生にも、結果見てもらおう。きっと『よく頑張ったわね』って、頭を撫でてくれるかな)

家に帰り、「ただいまー!」と元気よく二階の自室へと駆け上がる。

ドアをガチャリと開ける。

「みんな! ただいま! 今日ね、すっごく良い点数だったの! これも全部、ノートさんや参考書さんたちのおかげだよ!」

くるみは、部屋の地層に向かって元気よく報告をした。

「だからね、今日は特別に、一番高い『数学の塔』のてっぺんに、このテストのプリントさんを飾ってあげるね!」

くるみがご機嫌な様子で、うず高く積まれた参考書とノートの塔の頂上に、テストの紙をポンと乗せた、その瞬間。

グラッ……。

バランスの限界を迎えていた『数学の塔』が、不吉な音を立てて傾いた。

それが、隣の『理科の樹海』を押し倒し、さらに『歴史の谷間』を巻き込んでいく。

「あっ……」

ドサドサドサドサァァァッ!!

凄まじい轟音と共に、数ヶ月かけて形成された勉強道具の巨大な地層が完全に崩壊し、くるみの頭上に雪崩となって降り注いだ。

「きゃぁぁっ!?」

「くるみ!? 今度は何事なの!?」

一階から、母親の怒り狂う足音がドスドスと階段を駆け上がってくる。

「ご、ごめんなさいお母さーん! プリントさんたちが、喜んで踊り出しちゃったのぉ!」

本の海に埋もれながら、くるみはへらっと笑い声を上げた。

どんなに心が綺麗でも、どんなに夢に向かって努力できても、部屋の片付けだけはどうしてもできない。

そんな不器用で、だけど誰よりも真っ直ぐな天然少女の、嵐のような中学校生活は、見事に志望校の合格通知を勝ち取って、にぎやかに幕を閉じることとなる。

次なる舞台は、高校。

白衣の天使への階段を上り始めた彼女の前に、今度は血だらけの金髪の不良が転がり込んでくるのだが……それは、彼女の圧倒的なマイナスイオンが、再び奇跡(と大掃除)を引き起こす、少し先のお話である。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ