第3話:絆創膏と、真っ白な保健室
星野くるみが中学生になっても、彼女を形作る「ゆるふわ」で「綿毛」のようなオーラは、一ミリも変わることはなかった。
指定のセーラー服は、彼女が着るとどこかカーディガンを羽織ったようなふんわりとしたシルエットになり、少しだけ伸びた栗色の髪は、いつも春風に撫でられたようにゆるく跳ねている。
小学校の頃と同じように、給食を食べるのは遅いし、足も遅い。友達との会話でも「……へぁ? あ、うん、そうだねぇ」とワンテンポ遅れて相槌を打つ。
だが、中学生という多感な時期において、くるみのその「絶対に否定しない、真っ直ぐで嘘のない優しさ」は、同級生たちにとって何よりも得がたいオアシスとなっていた。
「ねえくるみちゃん、聞いてよ。今日ね……」
休み時間になれば、彼女の席の周りには自然とクラスメイトが集まってくる。部活の愚痴、友達関係の悩み、あるいは些細な失敗談。くるみはそれらを一切遮ることなく、ぽややんとした笑顔で「うん、うん、そっかぁ。大変だったねぇ」と、ただひたすらに受け止め続けた。
彼女に話を聞いてもらうだけで、ささくれ立った中学生たちの心は、不思議と丸く穏やかになっていくのだ。
そんな「みんなの癒やし」である星野くるみだったが、家に帰れば相変わらずの、いや、以前よりもさらにスケールアップした『惨状』を抱え込んでいた。
「くるみ……! あんた、このプリントの山は何なの!? なんで去年の数学の小テストまで取ってあるのよ!」
ある日の夕食前、くるみの自室から母親の悲鳴が轟いた。
「あ、お母さんダメだよぉ。そのプリントのタワー、下から三番目が崩れると全部倒れちゃうから」
くるみは、部屋の床を埋め尽くす「地層」の隙間に正座しながら、慌てて母親を止めた。
中学生になったくるみの汚部屋は、深刻な進化を遂げていた。
小学校時代からの住人である『ぬいぐるみ』や『可愛い空き箱』たちに加え、新たに『教科書』『ノート』『学校のプリント類』が参戦したのだ。
くるみの優しさと感情移入の対象は、ついに紙切れにまで及んでいた。
「だって、先生がいっしょうけんめい作ってくれたプリントだよ? それに、私が間違えちゃった問題に、赤ペンで『惜しい!』って書いてくれたんだよ。これを暗いゴミ箱に捨てるなんて、先生にもプリントさんにも申し訳なくて、できないよぉ……」
くるみは、テストで30点しか取れなかった数学のプリントを両手で大切そうに抱きしめ、本気で悲しそうな顔をした。
「あんたねぇ……先生だって、終わった小テストをいつまでもタワーにして飾ってほしいなんて思ってないわよ! ほら、この使い終わった短い鉛筆の束は何!」
「それは『ちびっこ鉛筆さんたちの老人ホーム』だよ。今まで私のためにお勉強を手伝ってくれたんだから、ゆっくり休ませてあげないと」
「もう……っ! 理由が優しすぎて強く怒れないのが本当に腹立つわ!」
母親は頭を抱え、フラフラと部屋を出て行った。
相変わらず、生活能力はゼロ。物の整理整頓という概念は、くるみの辞書には完全に欠落しているのである。
***
そんなある日の、午後の体育の授業。
季節は初夏を迎え、グラウンドにはジリジリとした強い日差しが降り注いでいた。
今日の授業は、女子全員での合同リレーの練習だ。
「よーし、次、星野! 行け!」
「はぁい……!」
バトンを受け取ったくるみは、彼女なりの全力疾走で土のグラウンドを駆け出した。
しかし、どう見ても走っているというよりは、綿毛が風に吹かれてパタパタと流されているようにしか見えない。腕の振りは小さく、歩幅も狭い。周りの運動部女子たちが風を切って走る中、くるみだけが完全にスローモーションのようだった。
「くるみちゃん、がんばれー!」
クラスメイトたちが声援を送る中、くるみはニコニコと笑いながらトラックのカーブに差し掛かった。
その時である。
くるみの視界の端、トラックの白線の上に、小さな黒い点が動いているのが見えた。
(あ……アリさんの行列だ)
懸命に巣に向かって歩く、小さな小さな命の列。
くるみの足の裏は、まさにその行列の真上に振り下ろされようとしていた。
(踏んじゃう……!)
くるみはとっさに、空中で不自然に体を捻り、アリの行列を避けるように歩幅を大きくズラした。
当然、そんな無理な体勢でバランスが取れるはずもない。
「あ、れ……?」
くるみの足が大きくもつれ、体は宙に浮き――次の瞬間。
ザシャァァァッ!!
グラウンドの乾いた砂と小石の上に、くるみは派手に、それはもう見事に、うつ伏せに倒れ込んだ。
「くるみちゃん!!」
「ちょっと、大丈夫!?」
リレーの練習は一時中断となり、クラスメイトたちや体育の先生が慌てて駆け寄ってくる。
「いたたた……」
くるみがゆっくりと上体を起こすと、体操服のジャージの膝が見事に破れ、そこから赤黒い血がダラダラと流れ出していた。手のひらも砂まみれになり、広範囲にわたって擦りむいている。
普通の女子中学生なら、痛さと恥ずかしさで泣き出してもおかしくないほどの派手な転倒だった。
だが、くるみは自分の血まみれの膝よりも先に、後ろを振り返って白線の上のアリの行列を確認した。
アリたちは何事もなかったかのように、せっせと歩き続けている。
「……よかったぁ。アリさん、無事だね」
くるみは、ホッと胸を撫で下ろし、ぽややんと笑った。
その様子を見ていた体育の先生が、呆れたような、しかしひどく心配そうな顔でくるみの肩を支えた。
「星野、お前なぁ……アリを避けて自分が怪我してどうするんだ。膝、結構深く擦りむいてるぞ。立てるか?」
「はい、だいじょーぶです」
くるみは立ち上がろうとしたが、膝にピリッとした痛みが走り、思わず顔をしかめた。
「ほら、無理するな。……誰か、星野を保健室まで連れて行ってやってくれ」
「私、行きます!」
仲の良いクラスメイトのミカが、くるみの肩を貸して支えてくれた。
「ごめんね、ミカちゃん。重たいでしょ」
「全然重くないよ、くるみちゃん綿毛みたいに軽いもん。でも、すっごく痛そう……本当に大丈夫?」
「うん。ちょっとジンジンするけど、平気だよ。えへへ」
くるみは、心配をかけまいと、いつものようなふんわりとした笑顔を浮かべて、足を引きずりながら校舎へと向かった。
***
中学校の校舎の一階、一番奥にある日当たりの良い部屋。
ドアの上には『保健室』という札が下がっている。
「失礼しまーす。星野さんが、体育で怪我しちゃって……」
ミカがドアを開けると、くるみは一瞬、ハッと息を呑んだ。
そこに広がっていたのは、くるみの「汚部屋」とは対極に位置する、完璧に整頓された『真っ白な空間』だった。
壁も、戸棚も、ベッドのシーツも、すべてがチリ一つなく真っ白。
開け放たれた窓からは、初夏の爽やかな風が吹き込み、白いレースのカーテンを優しく揺らしている。
そして、部屋全体を包み込むのは、清潔な消毒用のアルコールの匂いと、お日様の光をいっぱいに浴びた石鹸の優しい香り。
(……すごい。すっごく、綺麗で、いい匂いがする)
くるみは、足の痛みも忘れて、その空間の美しさと静けさに圧倒されていた。
「あらあら、派手にやったわね」
部屋の奥のデスクから立ち上がったのは、この中学校の養護教諭(保健室の先生)である白瀬先生だった。
白瀬先生は、パリッとした白衣を着こなし、銀縁の眼鏡の奥に理知的な目を光らせている、五十代のベテラン教諭だ。少し厳格そうな雰囲気があり、生徒たちからは「おっかない先生」として少し怖がられている存在だった。
「ミカさん、連れてきてくれてありがとう。あとは私が診るから、あなたは授業に戻りなさい」
「はい、よろしくお願いします。くるみちゃん、お大事にね」
ミカが教室へ戻ると、白瀬先生はくるみに、処置用の丸い椅子に座るように促した。
「失礼します……」
「はい、足を見せて。……うわぁ、砂が食い込んでるわね。これは少ししみるわよ」
白瀬先生は、無駄のない洗練された動きで、戸棚から滅菌ガーゼと消毒液、ピンセットを取り出した。
その戸棚の中も、くるみが見とれてしまうほど、薬瓶や包帯が一切の乱れなく、美しく整然と並べられていた。
「じゃあ、まずは流水で砂を洗い流すわよ。水道のところまで歩ける?」
「はい」
くるみが水道の前に立つと、白瀬先生は冷たい水で、傷口の砂を丁寧に、しかししっかりと洗い流し始めた。
「……ッ」
水が傷口に当たり、砂が流れるたびに、鋭い痛みが走る。
くるみはギュッと目をつむり、体操服の裾を強く握りしめた。
「痛い?」
白瀬先生が、手元を見たまま尋ねた。
「い、いいえ。だいじょぶです。……へいきです」
くるみは、心配させまいと、無理に口角を上げて笑おうとした。いつも、友達の話を聞くときや、母親に怒られたときに浮かべる、あの『ゆるふわな笑顔』だ。
しかし、白瀬先生の手がピタリと止まった。
彼女は水道の蛇口を閉めると、眼鏡の奥の鋭い、けれどとても温かい瞳で、くるみの顔を真っ直ぐに見つめた。
「星野さん」
「……はい?」
「ここはね、教室じゃないのよ。我慢大会をする場所でもないわ」
白瀬先生は、清潔なタオルでくるみの膝の水分を優しく拭き取りながら、静かな声で言った。
「あなたがいつも、クラスのお友達の相談に乗ってあげて、誰にでも優しく笑っているのは、先生も知ってるわ。……でもね、痛いときは『痛い』って言っていいの。悲しいときは、泣いたっていい。保健室っていうのは、そういう風に、我慢して無理に笑っている子の『心の鎧』を脱がせてあげるための場所でもあるのよ」
その言葉は、くるみの心の奥の、一番柔らかい部分に、温かいお湯のようにスッと染み込んでいった。
星野くるみは、決して無理をして笑っていたわけではない。誰かのために我慢することは、彼女にとって息をするのと同じくらい自然なことだった。
だが、その「誰かのため」を優先しすぎるあまり、彼女は「自分自身を労わる」ということを、すっかり忘れてしまっていたのだ。汚部屋に積み上げられた物たちと同じように、彼女は自分の感情すらも、他人のために後回しにし続けてきた。
「……先生」
くるみの大きな瞳から、ポロリと、一粒の涙がこぼれ落ちた。
足が痛いからではない。張り詰めていた見えない糸が、白瀬先生の言葉と、この真っ白で清潔な部屋の空気によって、優しく解きほぐされたからだ。
「……すっごく、痛いです。ジンジンして、涙が出ちゃいます」
くるみが子供のように素直にこぼすと、白瀬先生は初めて、とても柔らかく、母性に満ちた微笑みを浮かべた。
「そう。よく言えたわね。本当に痛そうだから、今日は特別に、先生の『魔法のお薬』を塗ってあげる」
白瀬先生は、傷口に丁寧に消毒液を塗り(くるみは「ひゃぅっ!」と小さく悲鳴を上げた)、軟膏をたっぷりと塗った後、最後に大きな真っ白い絆創膏を、優しく、シワ一つなく綺麗に貼り付けてくれた。
「痛いの、痛いの、飛んでいけ」
白瀬先生が、くるみの膝をポンと優しく叩く。
それは、くるみがかつて、空き地で詐欺師のおじさんにかけてあげたのと同じ、優しくて温かいおまじないだった。
「どう? まだ痛い?」
「……不思議。あんまり、痛くなくなりました」
くるみが鼻をすすりながら笑うと、白瀬先生は「それはよかったわ」と、ピンセットを綺麗に片付け始めた。
くるみは、改めて保健室の中を見回した。
痛くて、恥ずかしくて、泣きたかったはずなのに。この部屋に入って、先生の手当てを受け、あのアルコールと日だまりの匂いを嗅いだ瞬間、心が羽根のように軽くなっていた。
(すごいなぁ……。お医者さんとも違う。学校の先生とも違う。ただそこにいて、お話を聞いてくれて、痛いのを飛ばしてくれる……)
「白瀬先生」
くるみは、丸椅子から立ち上がり、まだ少し赤くなった目で、真っ直ぐに先生を見つめた。
「私、決めました」
「何を?」
「私……大きくなったら、白瀬先生みたいになります。この、お日様と石鹸の匂いがする真っ白なお部屋で、誰かの『痛いの』を飛ばしてあげる、保健室の先生になります!」
くるみの唐突な宣言に、白瀬先生は少し驚いたように瞬きをした。
しかし、くるみのその瞳には、いつものぽややんとした綿毛のような空気の中にも、絶対に曲がらない『芯』のような強い光が宿っていた。
「……そう。養護教諭になりたいのね」
白瀬先生は、少しだけ意地悪そうに微笑んだ。
「でもね、星野さん。保健室の先生になるには、高校を出て、大学の教育学部か看護学部に入って、ものすごーく分厚い教科書を何冊も覚えて、難しい国家試験に合格しなきゃならないのよ。……あなたの今の成績で、足りるかしら?」
図星を突かれ、くるみは「うぐっ」と喉を詰まらせた。
彼女の成績は、タワーとなって積まれている小テストの点数が示す通り、お世辞にも良いとは言えなかったからだ。
だが、星野くるみは曲がらない。
「だ、大丈夫です! 覚えるまで、何回でも、何百回でも読みます! だから私、絶対になります!」
くるみは、両手をギュッと握りしめて、力強く宣言した。
「ふふっ、期待して待っているわ。……さあ、傷の処置は終わり。今日は体育は見学して、教室でゆっくり休んでいなさい」
「はい! ありがとうございました!」
くるみは、真っ白な絆創膏が貼られた膝を庇いながら、深々と頭を下げて保健室を後にした。
ドアを閉める直前、もう一度だけ振り返り、あの清潔で美しい日だまりの空間を目に焼き付ける。
(私も、あんな風になるんだ。みんなの心が、ポカポカになるお部屋のお姉さんに!)
大きな夢を見つけ、胸を高鳴らせながら自分の家へ帰り。
ドアを開けた瞬間、うず高く積まれた本とぬいぐるみの山が雪崩を起こし、再び絶望的な「汚部屋」の現実に直面することになるのだが、それはまた別の話である。
彼女の夢への第一歩は、泥だらけの膝と、一枚の真っ白な絆創膏から、確かに始まっていた。




